第24話 それは終わりを告げる問いかけに
「お父さん、まだ起きてますか?」
ドア越しに届いた娘の声に時計を見れば、時計の針は深夜の領域へと足を踏み入れるところだった。
「起きてるけど……少し待ってくれ」
今の美海の言い方は、『お父さん』に対するものと違って少し柔らかくなかっただろうか。
どんな心境の変化があったのかは分からなかったが、いつまでも寒い廊下に立たせておくわけにもいかない。
急ぎ文章を保存し、ウィンドウを落としていく。
親権だのなんだのと教育に悪そうなものが机の上に出ていないことを確認してから美海を部屋へと招き入れた。
「……失礼、します」
部屋に入って来た美海に、トクンッと胸の高鳴りを感じる。
「あ、ああ」
薄桃色をしたワンピース風の寝間着に身を包み、長い黒髪の中頃をシュシュでまとめて左側から垂らしている。
風呂をあがってからだいぶ時間が経つため頬の上気などはないのだが、そういった余分なノイズがない事で素材の良さが引き立っており、逆に色気を感じさせた。
「話が、あって……」
ゆっくりとした足取りで近づいてきた美海が、私の目の前で立ち止まる。
遅れてふわりと甘い少女の香りが漂って来た。
「も、もちろん、いつでも聞くぞ」
喉がカラカラに乾いてしまい、言葉が詰まって上手く出てこない。
なんとなくやましい気持ちになってしまい、目の前で立つ自分の娘すらまともに直視できなかった。
「…………」
「…………」
美海が話し始めるまでただひたすらに待つ。
だが、どれだけ待とうと美海が口を開くことは無かった。
「あ、なんだ。その……長くなるようならそこに――」
座るか、と尋ねようとして、私がベッドを指し示してしまったことに気付く。
なんのやましい所の無いただの親子であるのならば問題はない行動だ。
けれど私たちは一度ならず二度までも関係を持ってしまった父娘である。
私の行動は、まるで美海を誘っているようで――。
「違うっ。美海はこっちに座りなさい。私がベッドに座るから」
ついつい過剰に反応してしまった私を、美海が押しとどめる。
「あんまり大きな声をだすと初海が起きるから……!」
「――あ、ああ、すまない」
謝罪しながら椅子に座り直す。
ふと、美海の顔がほんの十数センチの距離にあることに気付いてしまう。
美海も同じだったようで、「あ」と短く声をあげたかと思うと私に覆いかぶさるような体勢で固まった。
「――っ」
もう少し私が首を伸ばせば、美海が体を倒せば、相手の唇を奪うことができる距離である。
そんな距離に父と娘が居てはならないのに、私たちはふたりとも離れることが出来なかった。
「…………」
「…………」
どちらも自覚はしていないのに、二人の距離が縮まっていく。
まるで磁石の双極が吸い付いていくように、どちらからともなくじりじりと近づいていった。
もうふたりの唇がぶつかるその寸前――。
「――っ!! 美海っ」
ギリギリのところで私は我に返り、美海の肩を掴むと自分から引き剥がした。
「し、下に降りて話そう。なにか飲み物でも淹れるよ」
PCを操作することを口実に美海から体を離す。
私と美海はもう普通の家族だ。
家族ならば恋人の距離に近づいてはいけないし、見つめ合ったりもしない、
当然、キスなんてもってのほかだった。
「……あの、お父さん」
「なんだ?」
操作に手間取っているふりをして、マウスを手荒に操作する。
だが、振りなどする必要はなかった。
「少し外に出ませんか? 初海に話を聞かれたくないんです」
それだけ告げると、美海はついと部屋から出ていってしまった。
「少し、寒いですね」
まだ夏の暑さが残る季節とはいえ、さすがに寝間着のワンピースと男物のジャンパーだけでは寒かったのだろう。
夜道を歩きながら美海が自分を抱きしめる。
「…………」
そんな美海に、本当は肩を抱いたり手をつないだりしてみたかった。
けれどそれは恋人の取る行動であって、父親のしていい行動ではない。
だから私は美海の隣を口をつぐんだまま歩いた。
「…………」
美海からの視線が突き刺さるのは私の気のせいだろうか。
恋人よりは遠く、親子よりは近い微妙な距離を保ったまま、歩き続けて近所の公園に辿り着いた。
「近くにこんなところがあったんですね」
公園はミニサッカーならばできる程度のグラウンドを持ち、ブランコや砂場などの遊具と公衆トイレが設置されたそれなりの大きさだった。
「美海が小さい時によく連れて来てたんだけど……夜じゃ雰囲気が違ってそもそも分からないよな」
「もしかしたらブランコとか乗ってみると色々思い出すかもしれませんね」
「…………ブランコは怖がって一度も乗ったことなかったよ」
やはり、美海に昔の記憶はないのだろう。
小さすぎて覚えていないか、八尋との生活が大変すぎて忘れてしまったのか……。
少し、物悲しかった。
「それじゃあお父さん、あのベンチに座りませんか?」
美海の指差す先には、切り株を模したコンクリート製の小さなベンチがある。
あれは確か……。
「ああ、いいけど少し待っててくれるか?」
「?」
歩きながら羽織って来たジャケットを脱ぎ、なるべく厚みが変わらないように折る。
それを冷たいベンチに敷いた。
「ここに座りなさい」
「……もう」
何故か美海が唇を尖らせて不満気に呟く。
ただ、それ以上の文句は出ず、素直にジャケットの上へと腰を下ろした。
「お父さんも早く座ってください」
「ああ」
少しためらいが生じたが、覚悟を決めて美海の左隣に座る。
途端、コンクリートに溜まっていた夜の冷気が、夏物の薄いスラックスを貫通して沁み込んできた。
「自分のところにも敷けばよかったじゃないですか」
なるべく我慢したつもりだったが、顔に出ていただろうか。
美海に指摘されて、少しばかりバツが悪かった。
「……男だから冷やしても多少はね?」
強がりは当然嘘で、本当の理由はジャケットの上に一緒に座ると体が触れ合ってしまうからだ。
そんなこと、バレているだろうが。
「はぁ……」
美海は小さくため息をつくと、静かに星空を見上げる。
普段はビルの谷間で生きているせいで猫の額の様な星空しか見られないが、開けた場所にある星空はそこそこに見ごたえがあった。
しばらくそのままぼんやりとした時を過ごすしていると、
「…………お父さん」
小さな声で囁かれる。
「ん?」
「お父さんは、本当に浮気をしたんですか?」
「私はしていないよ。したのは八尋だ」
ようやく出て来た質問は、なんのことはない確認だった。
けれどそれは言葉の上での話。
きっとこれは……母親の嘘を暴くための儀式だ。
美海にとっては痛くて悲しい、それでもやらなければならない過去との決別だ。
「証拠だってある」
「……初海の誕生年ですよね」
「ああ」
初海が産まれたのは離婚してから3か月後だ。
つまり、八尋は私との婚姻関係が続いていたのに別の男と体の関係を持っていたことになる。
だれが嘘をついていたのかは、自明の理であった。
「お父さんは慰謝料を払わなかった?」
「ああ、一円も払わなかった。でもそれは……」
「お母さんが慰謝料を払う立場だったから、ですよね」
膝の上に乗せていた私の手が、突然温かいものに包まれる。
いつの間にか近づいていた美海が、手を重ねて来たのだ。
けれど彼女の手は震えていて……。
私は手のひらを返して、美海の小さな手を握り返した。
「お父さんは私を見捨てましたか?」
「それは……たかだか数年で交渉を辞めてしまったからな。見捨てたことになると思う」
「じゃあ、言い換えます。お父さんは養育費を払わなかった」
「いいや。毎月毎年払い続けたよ」
美海の手はこんなに小さかっただろうか。
私の手の中にすっぽりと納まるほどか細くて、弱弱しくて……そして何より愛おしい。
「お父さんは、私が嫌いで暴力をふるってくるような人でしたか?」
「美海のことは誰よりも大好きだよ。傷つける奴が居たら、例え自分でも許さない」
「……ありが、とう」
美海の声が湿り気を帯びる。
しかし、愛娘の問いかけはまだ続く。
私が持てる精一杯の愛情で返すことだけを考えていたら――。
「お父さんはなんで浮気しなかったんですか?」
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