第3話 少女の心は凍てついた夜のごとく
「す、すまないっ」
慌てて手を放して少女を解放する。
「大声を出して申し訳ない。いや、驚かすつもりはなかったんですよ。それとも痛かったでしょうか。とにかく申し訳ありません」
少女の方がかなり年下なのにもかかわらず、途中から敬語に変わってしまうくらい私は混乱していた。
「あの、あなたが前に出過ぎていて危ないかなとですね……」
もしかしたら不審者に突然腕を掴まれて、恐怖を覚えてしまっただろうか。なんて最悪の展開が脳裏をよぎる。
とにかくそんな地獄のような未来を回避しようと、私は必死だった。
けれど――。
「あ……う……ん、ふっ……くっ」
混乱しきった私をよそに、少女はぽろぽろと涙をこぼし始める。
何度も何度も嗚咽を漏らし、肩を震わせていた。
「ちがっ……そのっ……これはっ……ちが、くて……」
「…………そう、なんですか」
「んんんっ」
そんな少女を見れば嫌でも分かる。
私は間違っていなかったのだ。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、それが最低の所業だと思い至る。
彼女は自殺を考えるほど悩み、苦しんでいるのだ。
むしろ私がただの勘違い野郎であった方がよかっただろう。
「とりあえず、落ち着けるところに移りましょう」
ベンチの方へ歩くよう促すと、少女はコクンと首を縦に振る年相応の態度を取る。
こんな年端もいかない弱々しい少女相手に、見るハラだの警察に通報だのと自分の保身ばかり考えていたのだ。
怯えていた私が馬鹿みたいだった。
いや、むしろとんだ愚か者だ。
「座って」
「……ん……」
カバンの底から取り出したポケットティッシュを渡し、次いで世界的な感染爆発から常備するようになったウェットティッシュを取りやすいように一枚ひき出してから少女の隣に置いておく。
最後にティッシュを挟んで少女の隣に腰を下ろした。
少女のしゃくりあげる声と、傷ましいまでの嗚咽が聞こえてくる。
どれだけ辛い思いをしたのか想像だに出来ない。
もしかしたら失恋程度かもしれないし、いじめのような酷いものかもしれない。
けれど、辛いことに大小は関係なく痛いのは分かる。
だから私はじっと黙ったまま少女の隣に座っていた。
三本目の電車が通り過ぎた頃合いで、少女が隣に置いたウェットティッシュに手を伸ばす。
既に乾ききっているそれを取り出し、鼻を拭ってからまた一枚。
少女の端正な顔はまだ少し涙で濡れていたが、多少は落ち着いてきたように見える。
「…………ん」
なんと声をかけてあげればいいのか分からず、無言のまま手の平を上にして少女の方へと突き出す。
使ったゴミを受け取ろうというつもりだったが、少女はふるふると頭を振って拒絶する。
変なことをされそうだと警戒されたわけではなく、ゴミを押し付けるのが申し訳ないのだろう。
「ちょっと喉が渇きましてね。ちょうど自販機の隣にゴミ箱があるからついでですよ」
「…………」
私が視線で示した先を、少女もチラリと見る。
それで納得したのか、申し訳なさそうにこちらの手のひらの上にちょこんと丸めたティッシュを置いてくれた。
「ありがとう」
断ってから席を立ち、自販機へと向かう。
ゴミを捨ててから自販機の正面に立ち、
「…………」
一瞬、少女へと視線を走らせる。
少女は一応おちついて来てはいる様だけれど、まだ顔に手を当てたまま俯いている。
余計なお世話かとも思ったが、結局わたしは二本の缶コーヒーを買ってからベンチへと戻った。
「ちょっと……いい、です、かね?」
緊張していたためぎこちなかったが、ひとこと一言絞り出していく。
「間違えて、甘いのも買ってしまったので、飲んでもらえませんか?」
熱い缶を少女の前に突き出しながら、この言い訳はなんとも無理があると後悔しつつも言ってしまった以上引っ込めることはできない。
慣れないことはするもんじゃないなと内心ため息をつくしかなかった。
「…………」
少女は缶コーヒーと私とを交互に見て、ためらいがちにではあるものの、缶コーヒーを受け取ってくれた。
「ありがとう、ございます」
「……それは私が言うべきなんだと思います」
少女の声は涙で枯れていたが、それでも思わず聞きほれてしまうほど美しい声だった。
「……あの、おいくらでしたでしょうか。代金はお支払いします」
「…………」
「あの?」
怪訝な顔をされたところで我を取り戻す。
「いやいや、処分してもらうだけだからそんなものは必要ないよ……いや、ないですよ」
「…………無理に敬語は使わなくても構いません。私が年下なのですし」
「……ああ、いや、うん。ありがとう」
見透かされていたのはなんとも面映ゆいものがあった。
ひとつだけになった缶コーヒーを開け、マスクをずらすと同時に表情を隠すために勢いよく傾ける。
と、強烈な甘さが舌を直撃して思わずせき込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「――い、いや、すまない。大丈夫」
マスクをずり上げながら口元を隠し、缶コーヒーのラベルを確認する。
そこには当たり前ではあるが加糖の文字が印字されていた。
となると、少女の手にある方が無糖なわけで、緊張していたとはいえ呆れるようなミスをしたことになる。
なんとも間抜けな話だ。
「ちょっとすまない」
甘いのはそれほど苦手ではないものの、少女に対して苦手だと言い訳した手前このまま飲むわけにもいかない。
仕方なく、またも自販機へと取って返そうとしたのだが――。
「そっち、もらえませんか?」
「はい?」
思わず耳を疑ってしまう。
少女が言うそっちとは、間違いなく今わたしが口をつけた缶コーヒーのことだ。
うら若い少女がそういうことを気にしないのだろうかと疑問を覚える。
「甘いのが苦手なのは本当なのでしょうから、私が処分した方がもったいなくないと思うんです」
「いや、でも……飲みかけだよ?」
「はい。ですからそれは本当に要らない物なのでしょうから、私も気兼ねなく飲めますし」
それに、と続けながら少女は私の手から飲みかけの缶コーヒーを奪うと、未開封の缶コーヒーを押し付けてくる。
「こういうの、慣れなきゃいけないので」
「ん?」
なにか引っかかる物言いだ。
けれどその前にしなければならない事があって、その違和感を気にしている場合ではなかった。
「いや、こういうご時世なんだから知らない男が口をつけた物を飲むなんて論外なはずだ。返してくれないか」
「……感染してるんですか?」
「いや、そんなことは無いはずだと思うが……」
特に気を付けてはいるし、症状だってない。
営業先だってほとんどのところがきちんと対策されている。
断言はできないが、感染はしていないはずだ。
「そうですか……残念」
「あっ」
声をあげたところで遅かった。
私が惑っている間に少女は缶コーヒーに口をつけてしまった。
「君……いや」
注意しようとしたところで、彼女の目が据わっていることに気付く。
何かしらの理由があって自暴自棄になっているとしか思えなかった。
なら、説教なんて悪手に過ぎるだろう。
「…………」
私は思い直すと、缶コーヒーを両手で握ったままベンチに腰を下ろす。
しばらく黙ったまま、どう話を切り出したものかと言葉を探る。
結局、娘ともまともに話したことのない私が分かるはずもなかった。
「……君は、たぶん辛いことがあったのだと思う」
「他人よりよほど不幸な人生を送っている自覚はあります」
少し会話しただけで感じたことだが、少女は比較的聡明な方だ。
箸が転がっただけで笑うような、過敏なお年頃から来る自殺未遂ではないのだろう。
なにか、とても重い荷物が彼女の肩に乗っかっているのだ。
「それは……私が聞いてもいい話、かな?」
「おじさんに話しても意味がないと思います」
当然のような拒絶。
閉店時間をすぎた店のシャッターが、目の前で閉まったような気分だ。
仕方ないだろうと諦めて話題を変えようとしたところで、
「でも、話さないのも意味がないですから聞いてもらえますか?」
なんて言われてしまい、混乱の谷へと思考が突き落とされる。
戸惑う私を置いて打ち明けられた少女の話は絶句するようなものだった。
「……私、母からパパ活する様に言われたんです。もちろん、体の関係ありで」
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