空飛ぶ本と悪戯小僧

Oh! Shall I tell you, Mama!

 ヘレナ・ヴァヴジーコナー教授の話を僕はしたかな。した気がする。どこでしたのか、ってことを細かく追及していったら、嫌なことまで一緒に思い出しそうな気がするので、これ以上はやめておく。

 彼女はここ、グランリッド大学の数学の教授だ。めちゃくちゃ細かくて神経質で、授業中の居眠りや課題の未提出を絶対に許さず、“情状酌量”や“融通を利かす”という言葉を下品なジョークより嫌っている女性である。出身はチェコ。結婚していたらしいけれど、それは事実だとして過去の話。もしかして子どもがいたりしたら、僕らよりちょっと上くらいになっているかもしれない。そういう気配は微塵も感じられないけどね。

 なんで突然こんなことを言い始めたか、って?

 それはイースターホリデーの直前、新芽が膨らみつつあるカエデの木の下のベンチで、遅めの昼食を摂っているときのことだった。


「ヴァヴジーコナー教授の研究室の本が飛ぶ・・ようになったら、ああホリデーが近いんだなぁって思うんだよなぁ。毎年この時期、昼前の授業のときにだけ起きる怪奇現象だからさ」

「へぇ……そうなんだ……」


 僕は引き攣った顔であいづちを打った。「そんなに怖がんなよ」とトムが僕の肩を叩いて、僕は落としかけたサンドイッチを慌てて掴んだ。

 彼、トム・ハームズワースは、僕の二つ上の先輩だ。地元が同じで、学校も同じだったから、何かと面倒を見てくれる良い人、なんだけど――


「今年んのもにぎやかだったなぁ。俺らが講義を聞いてる横の、教授の研究室からさ、『バタンッ! ガタンッ!』って聞こえてくるんだよ。それからよぉく耳をすませるとな、その間に子どもの笑う声が『くすくす、けらけら』って」


 もうあいづちを打つ気にもなれなかった。さっき口に入れたと思ったレタスは、実は新聞紙だったらしい。味も食感も最悪だ。


「教授は、いつもそうなんだけど、丸っと無視だ。授業も止めないし話もやめない。音自体は放っといても五分くらいで収まるんだ。で、講義が終わってから研究室に戻ると――」


 トムはもったいぶって言葉を切った。おどろおどろしさを強調するように、肩をすぼめて、声を低くする。本当は耳を塞ぎたかった僕も、ついつい雰囲気にのまれて固唾を呑む。


「そこには、血塗れの本が一冊、力なく落ちている」

「っ……」

「研究室の扉には、血痕が付いていてな。まるでその本が、研究室から飛び出そうとしていたかのようなんだ。そしてさらに不思議なことに、その血痕は、幼い子どもの手の形を――」

「……」

「――っていうのはさすがに盛った。悪い」


 僕の顔は真っ青だったのだろう。トムはころりと口調を変えた。

 僕は詰めていた息を吐いた。本当に彼は良い先輩なんだよ? 怪談話が大好きで、僕を怖がらせるような演出をわざとしてくるところを除けば。


「本が落ちてる、ってところまでは本当だぜ。血塗れじゃないけど」

「なんで血塗れにしたんだよ……」

「その方が怖いだろ?」


 トムはあっけらかんとそう言って、残り半分のサンドイッチを口に押し込んだ。案外、世にある怪談話はこの手の人間が盛りに盛った挙句に生まれたもので、実際のところはそう怖くないのかもしれない。……いや、嘘。僕にとっては本が飛んだ、っていう時点で充分に怖かった。


「なぁ、ところでお前、ホリデーは帰んの?」

「いや、帰らないよ」

「そうだよな」


 一部の悪癖さえ除けば非常に良心的な先輩は、「地元の空気が吸いたくなったら、俺んちに来いよ。狭いけど、兄貴の部屋が空いてるからさ」と言ってくれた。


   ☆


「君に魔法使いの素質が無くて本当に良かったですね」


 ヴァヴジーコナー教授の本の話をしたら、ウルフは珍しく真に迫った様子でそう言った。


「本が飛ぶことなど、魔法学校では珍しくありませんので」

「え、そうなの?」

「はい。図書室に行けば、いつでも数冊、天井付近を飛び回っているのが見られますよ」

「……マジで……?」


 僕は思わず彼の後ろにある本棚に目をやってしまった。彼は無類の本好きで、天井まである本棚はみっちり埋まっている。それだけでは足りないらしく、机の上にも枕元にも、常に数冊ずつ積まれてるのだ。

 ウルフが軽く笑った。


「安心してください。ここにある本は飛んだりしませんから」

「本当に?」

「ええ。本が空を飛ぶには、いくつかの条件が必要になります。まず第一に、それなりに力のあること。第二に、長らく読まれていないこと。力というのは魔力であることもありますし、想いや魂といったものであることもあります。手書きだったり、サイン入りだったり……この世に一冊しかない本、といってもいいかもしれませんね。そういう本が、長く誰の目にも触れられずにいると、読まれたくって本棚を脱け出すのです」

「なる、ほど……」

「そして、もしその本が人に向かって飛んでくる場合、それはいま読まれる・・・・・・必要がある・・・・・、ということになります。講義室に向かってぶつかってくるのであれば、もしかするとその本は、いま読まれる必要があるのかもしれませんね。毎年起こっているのなら、この時期に読まれなくてはならないのでしょう」

「ってことは、読めば飛ばなくなる?」

「ええ。そのはずです。教授がなぜその本を読まないのか、その点は不思議ですが……そこは、我々が立ち入れる問題ではないでしょう」


と、ウルフは話を切り上げて、くるりとデスクに向き直った。

 彼の手の中には分厚い本。


『治療師あるいは毒殺者のための毒草辞典 増補版』


 僕は何も見なかったことにして、そっと目を逸らした。さーて、課題課題。提出は三日後だ。ちゃんと仕上げないと、ヴァヴジーコナー教授に怒られてしまうからね!


   ☆


 課題は無事に終わった(クオリティは聞かないでほしい)。けれど、教授の都合で予定が変更になって、本来午後にやるはずの授業が昼前に移動になった。怪奇現象が起こると噂の昼前に。

 僕はこの不運を呪いたくなったけれど、呪い方がわからなかったし、呪ったらそれはそれで怖いことになりそうなので、代わりに祈ることにした。どうかこの時間だけは、怪奇現象が起きませんように!


「では前回の続きを。線形代数の計算方法はすでに身に付けていると思うが、今日はそれを応用したものを――」


 ヴァヴジーコナー教授の授業は淡々としたもので、その分スピードも速い。真っ白のジグソーパズルのような硬い英語は、適切な単語以外が入る隙間を残していない。びくびくと隣室の方を窺っていた僕は、慌ててペンを握った。ぼーっとしていたら置いていかれてしまう。集中しなくては。

 そうしている内に、怪奇現象のことなんてすっかり忘れていた僕は、その音がはじめ何の音なのか分からなかった。

 バンッ。ガタンッ。バタンッ。

 講義室のドアを誰かがノックしているのだろう。そのわりにはやけに断続的だ。それに、教授は返事をしようともしていない。なぜだろう――なんて呑気に思っていた僕は、教室中がざわめきだしたのを見てはたと思い出す。

 すぅっと血の気が引いていったのが自覚できた。

 これが噂の怪奇現象だ……!

 見れば、叩かれているのは講義室の出入り口ではなく、研究室へと繋がるドアだった。音と同時に微かに揺れているのが分かる。ああくそ、僕の祈りは届かなかったっていうわけだ。


「よって、θの値は次のように――」


 ヴァヴジーコナー教授はまるで何も聞こえていないかのように授業を進めていく。扉を叩くような音は続いているし、教室内はどよめいているのに。

 僕はもう授業なんてまったく聞こえていなかった。音は続いている。ガンッ。ガタンッ。バンッ。いやおうなしに耳が異音に集中してしまう。

 そのとき。


『……ふふ……くすくす……』


 少年の笑い声。

 僕は咄嗟に手で口を塞いでうつむいた。勢いあまってテーブルに額をぶつけてしまったけれど、構うことはない。だって、でなければ悲鳴を上げてしまいそうだったんだから。


『ふふふふ……見つけられるかな……』

「おい、君。そこの――」

『……気付かないね、ママ……くすくす……』

「あー、ヘンリー・ロドニー」

「はっ、はいっ?!」


 飛び上がるように顔を上げると、ヴァヴジーコナー教授の錐のような目と目が合った。


「具合が悪いのかね。ならば医務室にお行き。居眠りならば起きなさい」

「はい、あの、いえ、その……具合が、悪いというか……」

「どちらなのかな。はっきりとお言い。体調不良での退出を咎めたてはしない。どうするのかね」

「だ、大丈夫です……」


 ――そうやって、僕に教授の目が向けられている隙を、見逃すようなリトルではなかった。あのお調子者め。後先考えずに突っ走る大馬鹿者め! どうしてこういうときばっかり、いつもの軽薄なおしゃべりもしまいこんで、ひょろ長い体を器用に折りたたんで、教授の背後を取れるんだよ!


「先生、あの、後ろ――っ!」


 僕が警告した時にはもう遅かった。

 リトルが研究室のドアノブを回した。

 瞬間、


『きゃははっははははっ!』


ひときわ大きな少年の笑い声が響き渡り、本が飛び出てきた。僕は今度こそ悲鳴を上げたけれど、まったく問題にならなかった。というのも、教室中のほとんどが悲鳴を上げたからだ。当然だ、だって本当に本が空を飛ぶなんて!

 本は、いったいどんな原理で飛んでいるのか羽ばたきすらしていなかったけれど、確かに飛んでいた。滑空するツバメみたいな飛び方。天上すれすれを物凄い勢いで旋回する。と思ったら急降下して、ヴァヴジーコナー教授のもとへ。


「危ない!」


 僕を含めて何人かの声が重なった。と、ほぼ同時に。その分厚い表紙の角が、教授の額に直撃した。

 教授はぱったりと倒れた。本も床に落ちて、それきり動かなくなった。


   ☆


 教授は医務室へ運び込んだけれど、空を飛んだ本には誰も触りたがらなかった。


「で、私が呼ばれたというわけですか」


 渋面を取り繕わないウルフに、僕はがくがくと頷いてみせた。


「だって君が一番適任だろ? 触っていいのかどうかも僕らには分からないんだし」

「別に触っても何も起きませんよ」


 ウルフは面倒くさそうに講義室へ入ると、床に落ちていた本をあっさり拾い上げた。しばらくその場に立ったまま、中身をぱらぱらと眺めていた彼は、


「なるほど」


と一言呟き、ぱたんと閉じた。

 そしてその本を持ったまま戻ってくる。


「な、なんだったの、それ?」

「日記ですよ」

「日記?」

「ええ」


 ウルフは頷いて、ふと日記の表紙をなでた。その手付きがあまりにも柔らかく、いつくしむような感じだったから、僕は急に悪いことをしたみたいな気分になった。


「これは私が勝手に見ていいものではありませんでした。教授へ返しに行きます」


 一方的にそう言って、ウルフはさっさと歩き出してしまった。説明を求める周りの目とか圧力とか、そういうのはまるっきり無視だ。相変わらずすごい胆力。

 僕は慌ててその真っ赤な背中を追った。

 医務室には、額に湿布を貼ったヴァヴジーコナー教授が、ふてくされたような顔で座っていた。ウルフは彼女に向かって、日記を差し出した。


「これは、教授、あなたのことを責めているのかもしれませんが、それ以上に、忘れてほしくないだけだと思います。無論、忘れてなどいらっしゃらないでしょうけれど」


 教授はウルフを睨むように見た。


「中を?」

「申し訳ありません。他の生徒たちが恐れていて、解明を求められたものですから。見たのは私だけです。口外はしません」

「そう」


 それ以上は何も言わず、教授は日記を受け取った。それからしばらく、何か考え込むように表紙をじっと見つめていたが、やがてポツリと言った。


「知っているよ、君は魔法使いなんだろう」

「ええ、そうです」

「では、分かるかね。あの子が私を恨んでいるかどうか」


 ウルフはきっぱりと首を振った。


「いいえ、分かりません。死者の声を聞く手段はありませんので」

「そうか」


 残念だ、と教授は目を伏せて言った。僕には何の話をしているのか全く分からなかった。けれどその響きは、恨まれていないことを願っていたというよりは、恨まれていることを証明したかったかのように聞こえた。


「私がこれを読めば、勝手に動き出すことはなくなるのだね」

「はい」

「そうか。分かった。ありがとう。……あー、君、名前は」

「アーチボルト・ウルフです」

「ウルフか。感謝するよ」


 ヴァヴジーコナー教授はわずかに微笑んだ。

 真っ赤なコートの魔法使いは、ぎゅっと唇を引き結び、黙然と頷くと、踵を返した。


   ☆


 事の真相を、ウルフは決して明かそうとしなかった。こうなったら彼はとてつもなく頑固だ。たとえ拷問したって口を割らないだろう。

 だから、僕がその痛ましい事故を知ったのは、随分と後になってからのこと。断片的な噂話を集めて、ようやく見えてきた真相は、確かに軽々しく話せるものではなかった。

 ヴァヴジーコナー教授には子どもがいたのだ。その子が教授の日記に落書きをして、車の中に隠れた。運悪くその日は四月初頭に見合わないぐらい暑くって、不幸にも教授はいたずらに気が付かなかった。あとは――最悪の想像をしてくれれば正解だ。

 教授はその日を綴ったのを最後に、日記を付けなくなったという。

 イースターを目前にすると空を飛び始める日記。グランリッドの風物詩になりかけていたその怪奇現象は、今はもう起こらない。

 そして教授は相変わらず、一切の居眠りを許さないで、生徒に声をかけ続けている。


    おしまい

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トワイライトと魔法使い 井ノ下功 @inosita-kou

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