9 猫と老人は見守るだけさ



 準備中の札が下げられたグランダッドの扉を、ミスター・サムが押し開けた。奥の方でばたばたと支度をしている音が聞こえる。


「ブレッド、ちょいといいかい」


 ミスター・サムが声をかけると、すぐに快活な返事があって、ブレッドさんが駆け出てきた。ぱっと笑顔が広がる。


「やあ、サムじいさん。どうしたんだ?」


 それから後ろに付き従っている僕らを見て、「珍しいお供を連れてるな」と眉を上げ、さらに次の瞬間叫び声。


「マチルダ! お前今までどこ行ってたんだよ! しっかし、ああ、無事で良かった!」


 カウンターの上に軽々と跳び乗ったマチルダを、ブレッドさんの大きな手が撫でた。マチルダはすまし顔。まんざらでもなさそうだ。


「忙しいときにすまないね」

「いやいや、どうってことないよ。それで、どうしたってんだ?」

「箱を返しに来たんだ」


 ミスター・サムは四角い箱をカウンターの上に置いた。美しい木目の、そんなに大きくない箱だ。B5より一回り大きいくらい。装飾は何もついていないのに、なぜか目を惹かれる素敵な箱だった。蓋と本体の継ぎ目には小さな穴が開いているけれど、どう見ても鍵穴ではない。ただ丸いだけで、底も浅い。

 ブレッドさんの目が箱に釘付けになる。大きく見開かれたせいで、その明るい茶色の虹彩がはっきりと見えた。

 ミスター・サムが山高帽を脱いで頭を下げる。


「すまない、ブレッド。アンジェの家から箱を盗んだのは私だ。ただでさえ大変なときに、申し訳なかった」


 ブレッドさんは息を呑んだ格好で固まっている。


「中に、アンジェの日記があるだろう。そこにすべてが書いてある。――君の、本当の父親のことが」


 ミスター・サムは身を切るように言葉を絞り出した。頭は下げたままで、そのまま息絶えてしまったかのように動かない。ブレッドさんがカウンターから出てきて、老人の背に手を置く。

 そして、


「ごめんな、サムじいさん。俺、実はもう、そのこと知ってるんだ」


 えっ。僕は声を飲み込んだ。

 ミスター・サムがのろのろと顔を上げる。信じられない、って全身が語っていた。ブレッドさんは穏やかに微笑んでいる。


「やっぱな、なんかそんな気がしたんだ。どうやったか知らねぇけど、サムじいさんが持ってったんじゃないかって。魔法使いくんに頼んでよかったよ」


 ブレッドさんの笑顔に、魔法使いくんは弱々しく口角を上げてみせた。そうか、だから警察に相談しなかったのか。


「なあ、サムじいさん。俺は実の父親がどっちだったか、なんてどうだっていいんだよ。お袋にそのことを教えてもらったのはずいぶん前でさ、そのときは確かに驚いたし、ちょっとは混乱したけど、でもそれ以上に納得がいったし、嬉しかったんだぜ。あんたはずっと俺のそばにいてくれただろう? 死んじまった父さんの話をたくさんしてくれたし、店が忙しいときはお袋の代わりに遊んでくれたし、俺の自転車もベッドも、全部あんたが直してくれた。小さい頃は、なんでこの人が俺の父さんじゃないんだろう、って不思議に思ってたくらいさ」


 湿り気を帯びたブレッドさんの声は、春のように暖かかった。ツバメが乗ってやってくる、あの穏やかな風。


「俺には、英雄の父さんと、普通の父さんがいる。そんで、そのどっちのことも大好きだ。それでもう充分じゃないか? なあ……」


 六十五年かけてようやく、二人は初めてお互いを親子として抱きしめたのだろう。

 ウルフがそっと箱の上に指輪を置いて、二人に背を向けた。



 セントラルヒーティングが復活した寮の中は、暖かな空気に包まれていた。僕はブレッドさんから貰ったワインを片手に下げていた。先に出ていってしまったウルフの代わりに、僕が捕まってね。寮母さんがいない日で助かった。堂々と正面から部屋に戻る。

 ウルフはデスクに向かって本を読んでいた。いつも通り。赤いコートはハンガーにかけられ、彼の背中を見守っている。


「ブレッドさんがお礼にってワインをくれたよ。飲む?」

「いただきます」


 彼はにこやかに振り返った。

 ちょっと雰囲気が出ないけれど、マグカップで適当に。少しだけ高い赤ワインはするすると喉を滑り落ちていく。

 僕らは口数を少なくさせていた。ウルフはもちろん、僕もね。実の父親とかなんとか、そういう話には僕も思うところがあるのだ。イギリスの一月と二月はたぶん、たいていの人間の中に存在する。だからオーウェルは言うのだろう。『人間はぬくもりと、交際と、余暇と、慰安と、安全を必要とするのである。と同時に、孤独と、創造的な仕事と、驚異を感じる感覚も必要なのだ』ってさ。それらがなければ、この決して切り離せない一月と二月を乗り越えることは出来ない。

 僕が願うのは、この一月二月が本当の一月二月のように、他の季節を豊かなものにする準備期間であってほしい、ということだけだ。


「解決して良かったね」

「ええ、本当に」


 僕もウルフも、心の底からそう言って、マグカップを掲げた。



 さて、後日談を少しだけ。

 グランダッドは正式にブレッドさんの所有となって、今日も穏やかに賑わっている。ブレッドさんの息子さんが厨房に加わって、これまでとは少し違う彩りになったけれど、根本的には何も変わっていない。

 ミスター・サムが常連さんなのも変わりなくて、僕らを見かけると必ず、指が一本欠けた右手を挙げてくれるようになった。それが最近の「よく来たね」「またおいで」の挨拶だ。

 マチルダは猫の国に帰っていった。あのセクシーな声が聞けなくなるのはちょっと寂しいけれど、向こうで元気にやってくれているなら何よりだ。

 二月はそろそろ終わる。この冷たくて暗い日々との別れも少しずつ近付いてきた。ジョージ・オーウェルのコラム集もそろそろ読み終わってしまうし、貰ったチューインガムもようやく食べきれそう。どんな月日でも本でも、まずいガムでも、別れは少なからず惜しいものだ。

 でも、おしまいはおしまい。喜ばしいのは、ちゃんと「めでたし、めでたし」で終われることだね。


 めでたし、めでたし!


 

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