8 少年は泣く、情けなく

 次の日の朝は久々にすっきりとした晴れだった。透明度の高い水色が頭上に広がっている。この時季の晴れ間ほど嬉しいものはなかなかない。

 なのに、僕の隣の奴は灰空の片割れらしくグレーな表情をしていた。足取りもどことなく重たげだ。その原因は早起きしたからではない(たぶん)。


「この辺だと思うんだけど」


 正確な場所までは分からないから、しらみつぶしに通りを北へ上っていく。

 日曜日のアッシュコートチャーチは安穏とした空気に満たされていた。天気も良いし、散歩をする人もちらほらいる。最悪適当な人を捕まえて「この辺りにお住まいの素敵な老紳士をご存知ありませんか」って聞けば分かるだろう。

 そうしたほうが早いかな、なんて考え始めた頃だった。

 ウルフがピタリと足を止める。

 僕が前に向き直ると、ちょうど真向かいをミスター・サムが下りてくるところだった。モスグリーンのツイードのジャケットにいつもの山高帽。飾り物のステッキ。相変わらずきちんとした紳士だ。

 彼は立ちはだかるようにしている僕らを見て、一瞬戸惑ったようだった。けれどウルフの存在を認めた瞬間、その目は丸く開かれて――明るい茶色――そしてすっとうつむいた。


「こんにちは、ミスター」


 先に声をかけたのはウルフだった。


「ああ、奇遇だね、お若いの」

「あなたにお聞きしたいことがあって捜していたんです」


 ウルフは“若さ故の蛮勇”と言われそうな態度をとっていた。案の定、ミスター・サムが苦笑を浮かべる。


「なんだい? 私で力になれることがあるとは思わないんだがね」

「ブレッド・ロビンソンの父親はあなたですか」


 え、と発音したのは僕だった。


「ちょ、何言ってんのウルフ。ブレッドさんの父親は――」

「去年の十二月にブレッドさんの誕生日がありましたね」


 遮られたのに気圧されながら、僕はようやく頷いた。それはよく覚えている。


「二〇一〇年の十二月で六十五歳。ということは生まれは一九四五年の十二月です。妊娠期間がおおよそ二百八十日、ということは二月の終わりごろには行為がなくてはいけないでしょう」


 そこまで聞いてさすがの僕も察した。ブライアン・ロビンソンはその年の二月に離隊している。それも肺結核で。肺結核なら即座に入院、ひどければ隔離されたはずだ。


「肺結核で離隊した方が行為を持てるとは思えません。虹彩の色や骨格から考えても、やはりあなたとの血縁を考えたほうが自然です」


 グランマの鋭いグレーの瞳と鷲鼻。綺麗な青い目を持っていたというブライアン・ロビンソン。明るい茶色の瞳と丸い鼻のミスター・サム。ブレッドさんはどんなだっけ?


「無論、自然である、というだけで、証拠は何もないのですが。ですが、証拠となりうるもの、たとえば、グランマが真実を綴った日記があったとしたら?」


 ブレッドさんの言葉がよみがえる。消えたと思われる箱には、権利書や遺言書、それに――日記なんかが収められていた、って。


「盗むには充分な理由かと」


 ミスター・サムは黙って聞いていた。何もない右手の側面を、左手が執拗に撫でている。重たげな瞼の向こうに隠れた瞳は、街路の表面を右へなぞり、左へなぞり、それから自分の立ち位置を確かめるかのように真下を向いた。山高帽の陰に顔が消える。


「来なさい」


 彼は一方的にそう言って、踵を返した。



 アッシュコートチャーチの端の小さな集合住宅が、ミスター・サムの住まいであるらしかった。右半分の玄関から出てきた女性が、ミスター・サムの後ろをついて歩く僕らを物珍しそうに眺めた。


「お入り」


 彼の声に招かれて中へ入る。狭い玄関には金属とオイルと木くずのにおいがべっとりとこびりついていた。そのにおいは部屋に入った瞬間強くなった。部屋の中央に作業台があって、そこに古びたモーターのようなものが置かれている。壁際にはDIYの成果物がずらり。売り物になりそうな椅子や机、大きな本棚まである。

 僕の視線を察したミスター・サムが、


「機械やなんやをいじっていないと気が済まなくてね。あれこれ直させてもらったり、自分で作ったりしているんだよ」


と言いながら、次のドアを開けた。

 ここまでもそうだったけれど、台所も綺麗に片付いていた。もともと綺麗好きなのだろう。ドアを閉めると、オイルのにおいがやや遠のいて、代わりに焼いたパンとジャムの香りをかすかに感じた。

 僕らは勧められた椅子に腰掛けた。紅茶が全員の前に揃って、ミスター・サムが一息入れる。そうしてからようやく、重たい口が開く。


「誰から聞いたんだね」

「ブライアン・ロビンソンのことは、戦時中にあなた方の部隊に所属していた魔法使いから」

「ああ、トニーか。わざわざ聞きに行ったのかい」

「いいえ。寮で捕まえたグレムリンを引き渡しに行ったときに、偶然」


 なるほど、なるほど、とミスター・サムは頬を揺らして、背もたれにゆっくりと寄りかかった。伏し目がちになっている。動揺を押し隠しているようにも見えるし、安堵しているようにも見えた。案外、彼は暴かれるのを待っていたのかもしれない。それも、できるだけ見知らぬ、無関係の人物に。


「内緒にしてほしい、と頼むのは無理な話かね? 君たちには関係のないことだろう」

「確かに関係はありません。ですが、ブレッドさんからは箱を探してほしい、と頼まれています。お持ちでしょう?」

「持っているよ」

「それが開かなくてお困りなのでは」

「何でもお見通しなのは、魔法かね」


 ウルフははっきりと首を横に振った。


「ばれないように持ち出したなら、日記だけ回収して元の場所に戻すはずです。そうしていない以上、開けられていないと考えるべきでしょう」

「ああ、それもそうか。すまないね、どうも、魔法使いだと知っていると何でも魔法のように思えてしまって。トニーにもよく叱られたものだよ。魔法は万能ではないんだ、と」


と、彼は僕のほうを見て微笑んだ。うん、その気持ちはよく分かる。僕もついそう思いがちだから。

 ミスター・サムは両手でティーカップを包み込み、その水面に視線を落としたまま、呟くように言った。


「……駄目元で聞くけれど、箱の開け方を知らないかね。何をどうしても開かなかったんだ。少々荒いこともしたが、傷一つ付けられなかった……」

「私が鍵を持っています」


 弾かれたように頭を上げたミスター・サム。しかしウルフは冷たく続けた。


「ですが、あなたにお渡しすることはできません。渡すときは必ずブレッドさんに、と、マチルダと約束したので。魔法使いは猫との約束を破れないんです、絶対に」


 横目に見ても分かる。ウルフの目は誰も近寄れないブラックホールだ。何を投げかけても、望むような答えは絶対に返ってこないと確信できる大穴。魔法使いと猫の間にどんな掟があるのかは知らないけれど、たとえどんな掟がなくたって、ウルフは約束を破ったりはしないだろう。

 ミスター・サムが力なく首を振る。


「……道理で自信たっぷりだと思った。そういうわけだったのか」

「マチルダはこちらに?」

「ああ、いるよ。彼女が話し始めたときは驚いたが……そうだね、もう出してあげるべきだね。彼女にも申し訳ないことをした。不便はなかったと思いたいが……」


 彼は鈍重な仕草で立ち上がり、台所を出ていった。

 僕らはすっかりぬるくなった紅茶を口に含む。言葉はどちらも発さなかった。小さな窓から冬の白い光が射し込んでいる。



 再び扉が開くと、床を引っ掻く小さな音と一緒に、あのセクシーな声がやってきた。


「ああ、来てくれると思ってたわ」


 マチルダはひょいとテーブルの上に飛び乗って、つんと鼻先を持ち上げた。毛並みがやや乱れているくらいで、怪我もなく元気そうだ。


「思っていたより遅かったけど」

「申し訳ありませんでした、遅くなりまして」

「ふふん、いいのよ。来てくれたんだから。悪いのはウィニーだし」


と、マチルダはミスター・サムを睨みつけた。ウィニーと呼ばれた彼は、肩を縮こまらせて座り直した。


「さて、困ったものだ……。その鍵を渡してもらうわけには、どうしてもいかないのだね」

「はい」


 ウルフは冷徹に、無慈悲に、言い切った。


「あなたがブレッドさんへ箱を返せばいいでしょう。それですべてが済むのですから」

「……アンジェはすべてを日記に綴っていたのだよ。すべて……すべては、三人で話し合って決めたことだがね。ブライアンは元々体が弱くて、結核になる前から、子どもは望めなかったんだ。それで……ブライアンもアンジェも全員が承知の上で、事を成したんだ」


 鉛のような声音がどうしても踏み切れない心中を物語っていた。それは切り離したい、でもどうしても切り離すことのできない、一月二月のようなものなのだろう。暗くて冷たくて最悪で、けれどそれがなくなってはすべてが成り立たなくなるような。


「アンジェが先にいなくなってしまって、これですべてが知られてしまうと思ったときに、作業場でグレムリンを見かけたんだ。そのときに思い付いてしまってね」


 盗んでしまおう、と。

 きっとそれは救いのように思えたに違いない。あの小さな生物が、彼の目には天の使いのように見えたかもしれない。

 ぐっと腕を組んだウルフが、極端な早口になった。


「全員が承知していたのなら堂々と話してしまえばいいじゃないですか」

「六十五年間も隠し続けてきたことを、今更?」

「信頼している人間に嘘をつかれているほうがよっぽど嫌でしょう。そのうえ――命が失われただけでも最悪なのに――それに加えてさらに奪われるなんて! 子どもが何も感じていないって本気で思ってるのか!?」


 本当に最悪だ、と彼は吐き捨てるように言った。奥歯がカチカチと音を立てていた。組んだ腕が、まるで猛吹雪の中を歩いている人のように、体を強く押さえつけている。僕と反対方向に顔を向けているから、表情は分からない。けれど推測は簡単だ。

 急に子どものような癇癪を爆発させたウルフに、ミスター・サムはぽかんとした目を向けた。しかしすぐにその表情が改まる。


「君も、何かを奪われたのかね」


 ウルフの肩がびくりと震えた。何か言い返そうとして前を向き、唇が震えて三秒、結局一音も出すことなく再びうつむく。

 空気がかじかんでいた。マチルダの尻尾がぎこちなく右に振れて、しばらくしてゆるりと戻ってくる。

 冷たい指先にかけるような息を吐いて、ミスター・サムが立ち上がった。


「箱を持ってくるよ。もし時間があるならば、一緒にグランダッドまで来てくれないかね」


 黙っているウルフの代わりに「もちろん、ご一緒します」と僕が頷いた。

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