7 戦い抜いた遠い日を

 電車を乗り継いでロンドンを横断する。魔法庁は、テムズ川を挟んでちょうどロンドン警視庁の斜向かいに建っていた。存在は知っていたけれど、来たのは初めて。古くさい様式の大きなビルだ。わけもなく緊張を覚える。


「時間外なので、こっちです」


 人を見下ろして威圧するような佇まいの正面玄関を、ぐるりと避けて裏手に回った。小さな明かりのついた扉を開く。と、上に伸びるらせん階段があった。ウルフに続いて中に入る。

 二階分くらい上がっただろうか。そこの踊り場の扉を押し開けると、暖かな空気が一気に吹きこんできた。温度差のせいで風が生まれてしまうんだ。僕はこれ以上室内の温度が下がってしまわないように、と急いで扉を閉めた。

 木の机がずらりと並んでいる。普通のオフィスのように見えた――机上に並ぶ歯の生えた指のような置物や、壁際に積まれた材質も大きさも多種多様のケージや、天井にぶら下がった巨大すぎるコウモリの骨格標本なんかを見逃せば。


「こんばんは」


 ウルフが奥に向かって声をかけると、ほーい、と柔らかな返事がきて、一番奥の机の陰から高齢の男性が現れた。彼は右手に杖をつき、のっそりとした足取りでこちらにやってこようとする。僕らはどちらからともなく、彼に近付いていった。足が悪いらしい彼をあんまり歩かせるのは申し訳ないからね。

 老人はウルフを見上げて、重たそうな瞼をゆっくり開閉した。髪も髭も長くて真っ白で、真ん中辺りでゆるくくくっている。横幅さえ二倍に出来たらサンタさんになれそうだ。


「おうおう、ずいぶんと若いのが来なさった。どうしたね?」

「グレムリンを捕まえたので、預けに来ました」

「ほーう、グレムリンか。そう珍しくはないが、久々に会うな。どれ、ちょいと待て」


 彼は杖を持ち替えて、右手をズボンのポケットに突っ込んだ。その手が出てきたとき、そこには杖が握られていた。もともと持っていた歩行杖スティックじゃない、いわゆる魔法の杖マジック・ワンドだ。僕はびっくりして出しそうになった声をぐっと抑え込んだ。


「呼ぶのは木製のケージだ。おいで」


 くるり、と杖の先が空中に円を描く。金色の光がパッと散った。と思った次の瞬間、ひゅっと空を切る音がして、僕の顔の右側ぎりぎりを何かが掠め飛んでいった。

 老人は飛来したケージを危うげなく受け止めた。


「ほれ、この中に入れなさい」

「はい」


 ウルフはコートではなく、ジャケットの内側に手を入れた。そして手を出す。

 瞬間、あの金切り声が復活した。生命を持った金属片のような声。

 ウルフに首根っこを掴まれて暴れるそいつを、僕はまじまじと見つめた。小人だ。緑色の上下にとんがった靴、先の折れた三角帽子。しわくちゃの顔は油にまみれたように黒く汚れていて、ぎょろぎょろした目と白い歯だけが浮き上がっている。小人の体を縛っている金色の鎖は、ウルフがかけたものなんだろう。

 小人はケージの中へ放り込まれた。老人が鍵をかけると、ウルフが「解け」と呟く。すると小人を縛っていた鎖が空中に溶けるようにして消えた。

 僕は一連のやりとりにすっかり見入っていた。明るい文明の光の中で魔法を目の当たりにしたのは初めてだったからね。何とも言えない気分だ。本当の意味でタネも仕掛けもないマジック。CGでもプロジェクションマッピングでもないリアル。こんなに不思議な世界が、僕のすぐ真横に存在するなんて!

 はたと我に返って姿勢を正すと、老人と目が合った。小さな琥珀色の瞳。それが星雲のような不思議な光を宿している。魔法使いの目というやつはみんなそうなのだろうか。圧倒された僕は息を詰まらせる。


「そんなに珍しかったかね」

「あっ、ええと……」

「おや、君はオーディナリーか。それじゃあ珍しく思うのも当然だったな」


 老人は柔らかく微笑んで「目を見れば分かる」と頷いた。それから呆れたように眉尻を下げてウルフを見た。


「しかし豪胆なものだ。魔法庁にオーディナリーを連れてくるなんて。私でなけりゃあ一悶着あっただろうよ」

「魔法庁は一般人の立ち入りを禁止していないのですから、連れてきたところであれこれ言われる筋合いなどありません」

「ほっほっ、若者の蛮勇は気持ちが良いな」


 “蛮勇”と言われて怒るかと思ったウルフは、しかし少し照れたように微笑むだけだった。


「ところで、そのグレムリンの出身がどこか分かりますか」

「そうさなぁ」


と、老人はケージを持ち上げて、電灯にかざしながらためつすがめつした。ぎーぎーと喚いてケージを揺らすグレムリンのことなんてお構いなしだ。


「ああ、こいつはロンドンだな。小さな整備工のところで、うん、先頃生まれたばっかりだね。ごらん、爪が綺麗だろう。老いたグレムリンはこいつがひん曲がっておるのさ。こいつらはこの爪で、あちこち計器をいじり倒してくれるから、厄介で仕方ない」


 嫌そうな口調で言いながら、彼の目は微笑ましげに細められるのだった。


「思い出すね。従軍していた頃を」


 急にウルフが前のめりになった。


「従軍されていたのですか」

「そうとも。第二次世界大戦の頃のことだがね、私は空軍付きの魔法使いだったのだよ。懐かしいものだ。グレムリンには相当手を焼かされてね。一度なんざ拠点中に大量発生して、一般人の整備工と一緒に、一晩中捕まえて回ったこともあったくらいさ。そうそう、あいつはいい奴だった。グレムリンの扱いをすんなり飲み込んでくれて」

「足はその頃に?」

「ああ、こいつかね」


 引きずりがちに歩いていた右足を、彼は軽く叩いた。


「そうさ。一度、部隊が急襲を受けたことがあってね。そのときにやられたんだ。奇跡的に、出撃していたパイロットが計器の不調で帰ってきたんで、命だけは助かったがね」


 あれ、この話、聞いたことがある気がする。なんて僕が思ったときには、ウルフはもうとっくに思い出していたようだった。


「もしかして、ブライアン・ロビンソンという方をご存知では?」

「おお、そうそう、まさにそいつだ。よく知っておるな」

「その方の奥様がやってらっしゃるパブが大学の近くにありまして。少しお話を聞いたんです」

「ああ、グランダッドだね。そうかい、そうかい。あの男はいい男だったがね。底抜けに綺麗な青い目をしていたのをよく覚えているよ。だが、ひどく神経質で細かなことが気になるたちでね、グレムリンのいたずらにしょっちゅう苛々してたものさ」


 そのエピソードを聞いたときの僕の違和感を、なんと言い表したらいいんだろう。なんとなくちぐはぐな感じがしたのだ。ブレッドさんから連想する父親像から、その話はどうにもかけ離れているように思えてならなかった。


「飛行技術は随一だったがね。終戦の年の二月に離隊していったんだが、それがなきゃもっと勲章をもらってただろうな」

「離隊されたんですか?」

「そうさ。病気でね」

「何の病気だったんですか」

「肺結核だよ」


 ウルフは受けた衝撃を無理矢理逃がしたような声で「そうですか」と頷いた。


「先ほどお話ししていた整備工の方とは、仲が良かったのですか」

「そりゃあもう。といっても、あいつは人の良い明るい奴だったから、誰とでも仲が良かったがね。あいつも途中で帰国しちまったんだが、みんなが嘆いたよ」

「その方もご病気で?」

「いいや。グレムリンのいたずらのせいで、右の親指を失ったのさ」


 ちょいと傷口が悪くなって、療養が長引いている内に終戦になってね、と彼が言うのを、ウルフは何か苦いものを飲み込んだような顔で聞いていた。




 僕らは魔法庁を後にした。寒空の下、ウルフはぐっと押し黙り、何かを深く考え込んでいる。


「ミスター・サムのところへ行きましょう」


 彼がそう言ったのは、寮まであと半分くらいってところだった。


「え? どうして急に?」

「彼がすべての中心にいるからです」


 まったく話についていけない。彼の目はいったいどこから何を見出したのだろう。


「どういうこと?」

「マチルダが“きっと何かの間違いだ、事情があるに決まってる”と言っていたでしょう。仮に彼女が盗人と出会っていて、それが知り合いだったとしたら、そう言うのにも頷けます」


 ああ、なるほど。言われてみればそうかもしれない。


「じゃあ、ミスター・サムが盗人だっていうの」

「現状最も可能性が高いのは彼かと。先程の話から、あの一般人の整備工がミスター・サムであることは間違いありません。とすれば、ミスター・サムは従軍時にグレムリンの扱いを習ってた。捕まえることも誘導することも出来たでしょう。グランマの家にチューインガムをまき、セキュリティーを沈黙させれば、侵入は簡単だったはずです。万一上手くいなかったとしても、彼ならばどうとでも誤魔化せるのだからリスクも低い」

「でも何のために」


 ブラックホールが暗い表情で僕を見る。


「箱のため。箱の中に、おそらく、誰にも知られたくないものが入っていたのではないかと」

「誰にも知られたくないもの?」

「それが何かは、さすがに」


と、彼は半分くらい分かっているような口調でそう言った。彼の頭の中ではここまでに得たあらゆる情報が、パズルのように組み合わさってつながっているのだろう。僕には到底出来ない芸当だ。

 僕に出来るのはせいぜいこれぐらい。


「ミスター・サムの住まいはレイヴンズコート・パークの北側らしいよ。アッシュコートチャーチの通りだ、って聞いたことがある」


 ウルフの目が真ん丸になってこちらを見つめた。僕は空飛ぶ豚になった気分。

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