第10話

 藤枝先生がいなくなってから、一ヶ月が経った。わたしは忙しくて、亜津沙や澪と一緒に先生を捜そうとしていたことも忘れかけるほどだった。もともとわたしの卒論は遅れ気味だったし、そこへ新しい先生とのやりとりだったり、教えてもらった別の資料を取り寄せて読んだり、ということをしているうちに、気がつけばそれだけの日数が過ぎていた。

 その日も、図書館で調べ物を終えて、家に帰ろうとしていたとき、向こうから澪が歩いてくるのが見えた。ただ、どういうわけか肩を落として、うつむいているように見えた。

「澪、久しぶり」

 わたしが声をかけるまで、彼女はこちらに気づいていなかったらしい。びくりと跳ね上がるようにして、こちらを見た。でも、相手がわたしだとわかって安心したのか、ふっと微笑んだ。

「ああ、夏日」

「どうしたの。元気ないね」

 就活がうまく行っていないのかな、と思った。前に会ったときは、たしか第三志望の面接がどうとか漏らしていたので、その結果が思わしくなかったのかもしれない。

 そう伝えると、しかし、澪は首を振った。

「違うの、それもあるけど……あのね」

 澪はわたしの顔をじっと見ている。言いたいことがあって、でも言うべきかどうか迷ってるみたいだった。わたしがそのまま待っていると、彼女はようやく口を開いた。

「最近、亜津沙が授業に来てないみたい」

「えっ」

 意外なことを言われた。以前は週に一度、卒論の指導で顔を合わせていたけど、今はもう違う。最後に会ったのは、三人であんみつを食べた、あのときだ。

「あのとき、ほら、いろいろ調べてみるなんて言ってたでしょ。だから、わたし心配で……」

 言葉を濁していても、彼女が何を心配しているのかはわかった。亜津沙は、藤枝先生の失踪について調べていた。そのせいで、何か悪いことが起きたんじゃないか。亜津沙もそれに巻き込まれて。

「連絡は取った?」

「電話したけど、出なかった。メールも」

「LINEとか……」

「あの子はそういうのやってないから」

 余計なことで時間を取られるのがうっとうしい、と亜津沙はよく言っていた。見た目の雰囲気で勘違いされるけれど、亜津沙は、そういうところではすごくストイックだった。一年生のときに、ちょっとだけ入っていたサークルで、不愉快なことがあったと聞いている。彼女いわく、自分の勉強のために大学まで来ているのに、他人の人生の世話焼きまで押しつけられるのは迷惑だ、とかなんとか。

「じゃあ、他に連絡の方法は」

「家なら知ってる。前、遊びに行ったから」澪はうつむいたまま言う。「うーん、どうしよう。なんでもないのかもしれないし……」

「でもさ、大学に来てないのはたしかなんでしょ?」

 普通の学生なら、たとえばわたしなら、サボっていることだってあるかもしれない。けど亜津沙がそんなことをするとは思えなかった。実際、そうしているのを見たこともない。

「行くだけ行ってみよう。それにほら、風邪で寝込んでるとか、そういうことだったら、どっちみち行ってあげたほうがいいよ」

 わたしがそう言うと、澪も納得したらしい。このまま、ふたりで訪ねていくことにした。亜津沙が住んでいるアパートは、キャンパスから歩いて行ける場所にあった。澪は以前、飲み会で終電を逃したとき、頼んで泊めてもらったという。何やらフランス語の名前がついた白い二階建てのアパートだ。

 亜津沙が住んでいるのは、その二階だった。澪と一緒に部屋の前まで行き、インターフォンを鳴らした。

 返事はなかった。

 わたしと澪は互いに顔を見合わせた。留守なのだろうか。もう一度、澪がボタンを押す。扉の向こうからは、たしかにチャイムの音が聞こえた。わたしは何気なくドアのレバーに手を触れた。

「あれ?」

 なんの抵抗もなくドアが開いた。予想していなかったことに、わたしは戸惑った。

「……どうしよう?」

「入ろう」澪は迷わず言った。「留守なら不用心だし、もし、留守じゃないなら……」

 わたしはドアを開けた。先に澪が、後からわたしが中に入った。まず驚いたのは室内の様子だった。部屋の間取りは1Kで、玄関を入るとすぐにキッチンがある。そこが大量の本や書類で埋め尽くされていた。

 ざっと眺めた限り、どれも日本文学や古典文学に関する本と論文らしい。とにかくすごい量で、床はもちろんのこと、キッチンのコンロや、食器棚、さらに一部はシンクの中にまで置かれている。異様な状態だった。亜津沙は勉強好きだと思っていたが、これほどだっただろうか。澪に尋ねると、彼女はぶるぶると首を振って否定した。

「少なくとも、前に来たときは、こんなふうじゃなかった」

 本の山を崩さないようにしつつ、どうにか奥へ進む。すりガラスのはまった引き戸を開けると、六畳くらいの広さの部屋があった。カーテンが閉め切られていて、とにかく暗かったが、ここもおおよそキッチンと同じ状態であることはわかった。部屋の隅にはそれなりの大きさの本棚があったけれど、そこから溢れ出した本が床という床を埋め尽くし、ベッドやクローゼットの中にまで入り込んでいる。

 部屋の真ん中には折りたたみ式のテーブルが置かれ、その上には開いたままのノートパソコンがあった。トラックパッドに触れてみると、すぐ画面が明るくなる。スリープ状態だったのだろう。パスワードロックはかけていなかったらしく、画面にワープロソフトが表示される。

「何か書いてたみたいだね。本に囲まれて……ってことは、これ、卒論のデータかな」

「どれどれ……」

 澪とわたしは編集中の文面を覗き込む。そしてまゆをひそめた。

 それは卒論ではなかった。というより、論文ですらなかった。いや、それでも最初のほうは論文の体裁になっている。タイトルは「物語の題名について──『あさとほ』を中心に──」とある。

 しかし「あさとほ」がわからない。澪に尋ねても、聞いたことがない、という。この論文らしきものの序文を読む限りでは、この「あさとほ」というのは物語の題名で、写本も伝わっているそうだ。脚注がいくつかついていて、どうやらこのへんの説明には引用元があるらしかった。

 この論文では、その「あさとほ」という物語の題名に疑問点があることを立証すると書いてあった。そんな文章のあと、章を改めて、本論が始まっていた。


(続きは書籍でお楽しみ下さい)

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あさとほ 新名智/小説 野性時代 @yasei-jidai

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