第9話

 第一印象は、話し上手な人、という感じだった。藤枝先生のことだ。

 両親の強いすすめで、東京の私立大学に入ったわたしは、実のところ、勉強なんてしたくなかった。高校で文系のコースを選んだのは化学が苦手だったからだし、大学で文学部を選んだのは社会科が苦手だったからだ。メタノールの融点にも、株式会社と有限会社の違いにも、さほど興味はなかった。

 藤枝先生は、わたしのそういう話を聞きたがった。そしてたいてい喜んでいた。

「つまりきみは、物語になりたいんだね」

「物語に?」

「そう。自分の人生が、いつかのどこかできれいに畳まれることを望んでいる。メチルアルコールは君の人生の伏線にはならない。それは単なる事実でしかないから」

 わたしは枕に片耳をつけたまま、先生の話をぼんやりと聞いていた。いつものように、先生が語る内容は興味深いのだけれど、わたしには少し難しい。だんだん眠くなりそうだ。

うきふねって知ってるかい」

「ばかにしないでください」

 いくら不真面目な学生のわたしでも、源氏物語くらい読んでいる。浮舟はその最後、じゆうじようと呼ばれる一連のストーリーの、主人公のひとりだ。

 におうのみやかおるというふたりの貴公子から一度に求愛された彼女は、心をかき乱され、苦しみから逃れるために失踪する。そして、とあるそうりよに助けられ、かくまわれることとなる。

「そこに、その家の縁者で、ちゆうじようという男が現れる。彼は浮舟の姿をかいて、恋に落ちる」

 ありがちな話だった。平安時代には、高貴な女性の姿というものは、他人には見せないものだった。それがひょんなことから姿を見せてしまい、見た男がひとれする、というのがよくあるパターンだ。部屋の中を隠すためにというものがあるのだが、これはいろいろな理由でめくれ上がった。風が吹いたとか、猫がじゃれついたとか。

「行き倒れになっていたところを助けられた女性だ、という事情を聞いて、その中将はこう思った」

 あはれなりけることかな。いかなる人にかあらむ。世の中をうしとてぞ、さる所には隠れゐけむかし。昔物語の心地もするかな。

「すばらしい、どんな人だろう。世の中をはかなんで、こんなところに隠れているのだろう。まるで古い物語のようだ……」

「浮かれすぎですね、その人」

 この男は浮舟の気を引こうとあれこれやってみるけど、彼女は拒み続ける。最終的に、浮舟はそこで出家する。髪を切り落として、尼になるのだ。

「そして源氏物語の最後、ゆめのうきはし巻は、こういうふうに終わる」

 浮舟が生きていると知った薫が、都から人をやって様子を探らせる。だが浮舟は会いもせず、薫からの手紙に返事もしない。使者は手持ちで帰京する。

「報告を聞いた薫は、こう考えた。『きっと、だれか知らない男が彼女を隠してるんだ』って。『なにしろ、自分も彼女をそうやって隠していたんだから』ってね。これが源氏物語のラストシーン」先生は笑った。「いかしてるだろ」

 男たちが作った都合のいい物語に塗り込められて、隠されてしまった女の話。源氏物語自体がそもそもそういう話だったのだと、作者自身が白状したような、唐突な終わり。

「人間っていうのは、物語の形でしか、世の中を理解できないものなんだね」

 理解できないものは怖い。だから、理解できるようにする。

 たとえば神話。空が高いのは、人に触られて嫌だったから。月が夜通し動くのは、太陽から逃げているから。海が塩辛いのは、涙で出来ているから。そういうふうにして世界を理解する。人間は物語が好きだ。理由があって、やるべきことがあって、結末がある。成功すればご褒美があり、しくじれば罰を受ける。

「先生が欲しいのは、ご褒美ですか?」わたしは尋ねた。「それとも罰?」

 先生は何も言わず、水割りのおかわりを作っていた。その仕草をみてわたしはなんとなく、自分と同じなのかな、という感じがした。

 きっと、先生が選んだお話は、最後に罰が待っているほうだ。

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