第8話

 藤枝先生がいなくなったことは、やがて全国ニュースになった。でも今のところ、事件性は見られないし、これといった続報もなかったので、お茶の間の話題からはただちに消えた。大学でも、しばらくは授業などで知り合いと顔を合わせるたびに、藤枝先生のことを聞かれた。ただそれもすぐになくなった。ショッキングな事実はほとんどなかったので、みんな興味をなくしたのだろう。

 亜津沙が予想した通り、わたしたち三人は、それぞれ別の先生のところへ移動することになった。わたしの卒論のテーマは源氏物語だったので、和歌を専門としている横田先生が新しい指導担当になった。先生は、わたしが前に作った中間発表の資料をあらかじめ読んで予習してくれていたらしく、参考になる意見をいくつもくれた。親切な人だとわかって、わたしは安心した。

 そういうわけで離れ離れになってしまったわたしと亜津沙と澪は、かえってこれまでよりも頻繁に会うようになった。名残惜しいというのもあるし、珍しい体験をした仲間でもある。それに、亜津沙は毎日のように先輩たちから何かしらの情報を仕入れてきていて、それを聞くという目的もあった。

 とにかく、藤枝先生には戻ってきてほしかった。それはわたしたちの共通の思いだ。他のふたりについてはどれほどかわからなかったけれど、わたしにとってはより切実な。

「清原さんが行方不明になるちょっと前、藤枝先生と清原さんは、よく飲みに行ってたらしいよ」

 みつかった寒天をスプーンで追い回しながら、亜津沙が言った。今日はわたしたち三人で、大学の近くのあんみつ屋さんに来ている。緑色をした抹茶のシロップが目に鮮やかだった。

「先輩たちが言うには、何かで思い悩んでた清原さんを、慰めようとしたんじゃないか、って」

「思い悩んでたって、何に」

「そりゃいろいろあるでしょ。人生とか恋愛とかだよ」

 亜津沙が調べたところによると、清原さんの失踪事件が起きたのは五年前らしい。わたしたちが入学する前のことだ。

「清原さんの相談に乗るうち、ネガティブな気持ちが移って……」

 だとしたら、わたしたちが知っている藤枝先生は、ずっとそんな状態だったことになる。絶対にないとは言い切れないが、やっぱりおかしい。五年間も気持ちを引きずったまま働き続けて、急にいなくなるというのは不自然だ。遠因だったとしても、直接の原因は他にありそうなものだ。

 いろいろ話を聞くうち、清原さんの件は無関係だ、という説のほうがもっともらしく思えてきた。でも、だとすると手がかりはあまりない。

「だってさ、原因が藤枝先生の家庭の事情とか、そういうのだったら、わたしたちには知りようもないじゃない」

 前に亜津沙がそう言っていた。でも、それはそのとおりだと思う。世の中のたいていの事件なんて、他人には知りようもない理由か、さもなくば当人でさえわからない理由で起きている。それではつまらないから、お話の中では、読んでる人たちにも推理できそうな、きれいな理由をわざわざ作ってるってだけで。

 何しろ、わたしにもわからないのだ。この三人の中で、藤枝先生と一番親しくしていたのは、きっとわたしだろう。でも、あの人に自殺や失踪の兆候なんてなかった……と、思う。

「しばらくはこの線で追ってみる」

 などと亜津沙は、まるで刑事ドラマの主人公みたいなことを口走った。そんな彼女を澪は冷ややかに眺めている。

「ねえ、あんまり先生のプライバシーを引っき回すようなことはしないほうがいいよ」

「何を今さら。澪だって興味津々だったじゃない」

「そ、それは、少しでも先生を見つける手がかりがあればいいな、って思ったの」

 澪は頰をふくらませて反論した。こういうとき、本当にふくらませる人を初めて見た。

「でも、興味本位でやるくらいなら、そっとしておいたほうがいいと思う」

「澪の言うとおりだよ」わたしも同意した。「もしかしたら、先生は何か事情があって、家に帰れないのかもしれない。だったら」

「あ、そうだ、それなんだけど」

 亜津沙が変なところで、変なあいづちを打った。

「それって、どれ?」

「事情があって帰れないんじゃないかって話。実はね、藤枝先生を大学のそばで見かけたって人がいるの」

「ええ?」ちょっと話が飲み込めない。「それは、先生が行方不明になった……」

「もちろん、その後だよ」

 その話を亜津沙に教えたのは、梅本さんだった。梅本さんは、別の研究室の院生から聞いたという。それは藤枝先生が失踪したというニュースが広まって、二、三日くらい経ったある日のことだった。

 秋の学会に備えて、発表資料を準備していたその人は、夜の十時近くまで研究棟に残って作業していた。そろそろ帰ろうと思って、院生室を出たとき、廊下にある窓の外が気になった。

 その頃にはもう新聞やテレビで行方不明のことが報道されていた。すると、キャンパス内に記者を名乗る不審者がたびたび現れ、学生に声をかけてくるようになった。とくに藤枝先生の部屋がある研究棟の周囲には、深夜でもそういう人間が入り込んでいることがあったから、先生たちは警戒していた。

 窓辺に立って見下ろした。研究棟はキャンパスの一番奥にあって、裏手は大学の敷地の外になっている。廊下の窓はそちら側に面していた。大学の敷地は道路に囲まれているのだが、その道路に人影があった。それが藤枝先生のように見えた、という。

「どうしてそれが藤枝先生だってわかるの?」

 キャンパスの裏の道は、研究棟の窓からも見えるし、コンパの帰りなどに通ったこともある。学生寮やアパート、そして昔からの住宅が並ぶ静かな通りで、街灯はほとんどない。見下ろすどころか、隣に立っていたって顔がわかるかどうか怪しい。

「まあ、背格好とか、服装とか?」亜津沙はあやふやなことを言った。「そこまで詳しくは聞いてないよ。見間違いかもしれないし、そうじゃないかも」

「もし、それが藤枝先生だったとして、深夜にそんなところで何をしてたわけ?」

「ひょっとして、大学の中に入ろうとしていたのかな」

 わたしの疑問に、今度は澪が答えた。

「研究棟の裏って、ほら、夜間通用口にも近いじゃない。そこから中に入るつもりだったんじゃないの」

「うーん」

 それもないだろう、と思った。夜間通用口は、日中は自由に出入りできるけど、夜の六時だか七時だかには閉じられてしまう。それ以降、外から門を開けるためにはカードキーを使うか、事務局に連絡して開けてもらわないといけない。当然、それは記録に残る。

「だからさ、それなら藤枝先生が来たって、大学の人もわかるじゃない」

「わかってるんじゃないの、わたしたちにわざわざ教えないだけで」

 手詰まりになった。そもそも目撃情報が正しいかどうかわからないし、正しかったからといって、それが何を意味するのかもよくわからない。

 亜津沙は、残ったちょっとのあんにシロップをからめて、口に放り込んだ。しばし、もぐもぐと思案していたようだったけれど、不意に言った。

「ま、もうちょっと調べてみるか」

 当てはあるの、と澪が聞くと、それなりにね、と言う。なんとなくその態度が引っかかった。危ない橋を渡ろうとしているように聞こえた。

 澪も同じことを感じたのだろう。店を出て別れるとき、亜津沙を呼び止めた。

「ねえ、さっきのことだけど」

「わかってるよ、プライバシーを侵害するなっていうんでしょ」

 すっかり心得た、とでも言いたげな顔で、亜津沙は答えた。けれど、澪は首を横に振った。

「それもあるけど……危ないことはしないでね。何かあったら、わたしたちに相談して」

 そういうふうに言われることは予想していなかったみたいで、亜津沙は、はっとして澪の顔を見つめた。爪で頰をかきながら、しばらく考え込んでいた。が、結局は秘密のままにしておくことを選んだようだ。

「うん、わかった」

 晴れやかな笑顔で、亜津沙はそう言うと、駅に向かって歩いていった。

 あとに残されたわたしと澪は、ちょっと気まずかった。

「わたしは大学に戻るけど……」

 澪に向かってそう言うと、彼女は黙ってわたしについてきた。にぎやかな学生街の通りを、何も言わずにふたりで歩いた。澪は亜津沙のことを、本当に心配しているのだろう。だからこそ、あえてやめろとは言わない。その気持ちはわかる気がする。

「あのメール、届いた?」

「メールって?」

「教務課からの」

 ああ、と澪は納得したようだった。藤枝先生がいなくなって、卒論指導のクラスを解散させられたわたしたちのところには、大学側からカウンセリングの案内が送られていた。希望すれば優先して予約できるらしい。

「でも、わたしは行かないよ。就活も忙しいし」届いたかどうか尋ねただけのつもりだったけど、澪はそう言った。「第三志望のところが二次面接まで通って、いよいよ正念場だもんね」

 力こぶを作るみたいに、小さく腕を曲げて笑う。わたしも彼女に合わせて笑顔を作った。

「夏日はどうするの、卒業したら」

「まだ決めてない」

 普通、四年生の今頃になれば、みんな何かしら進路を決めている。亜津沙は大学院の推薦に合格して、進学が決まっているし、澪は出版社の内定を目指して就職活動をしている。でも、わたしは何もしていない。わざと考えないようにしていた。

 思えば、あのときからだ。わたしの目の前で、青葉が消えたとき、わたしは自分の人生の一部を手放したような気がした。そしてそれは、今もまだ戻ってきていない。落丁した本のように、ぽっかりと作られた空白。そこにはきっと何か重要な文章が書かれていたはずなのに、それが読めないせいで、わたしはまだ、自分の人生の続きがわからずにいる。

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