第7話

「……どういう意味?」

 澪は首を振った。

「わかんない。よこ先生が別の先生と話してるのを、たまたま聞いただけだから……何年か前にも、教員が来なくなることがあったね、って」

 そんな話には心当たりがない、と思って亜津沙のほうを見た。研究室の先輩たちと仲のよい彼女なら、何か知っているかもしれない。すると案の定、思い出したようだ。

「それってもしかして、きよはらさんのことじゃない?」

 亜津沙の話では、何年か前に清原という非常勤講師がいて、古典文学の講義を持っていたらしい。ところが、学期の途中でどういうわけか大学に来なくなり、音信不通になってしまったのだという。

「先輩たちの間じゃ有名なんだよ。いろいろ噂があるみたい。藤枝先生のパワハラがひどくて逃げ出したとか……」

「まさか」

 わたしの知る限り、藤枝先生は温厚な人だ。そういうことをしそうな人とも思えない。もちろん、そのくらいのことは亜津沙もわかっていて、冗談だ、というふうに笑う。

「本当は病気のせいだって聞いたよ。何か心配事があるみたいで、思いつめた感じだったって」

「藤枝先生がいなくなったことと、その人がいなくなったことは、関係あるのかな?」

「関係?」亜津沙が言った。「清原さんがいなくなったから、そのせいで藤枝先生もしつそうしたってこと?」

 それはない、とわたしは心の中で答えた。人をふたりも失踪させる原因なんて、すぐには思いつかない。一緒に山へ行って遭難したとかいうならともかく、時間差がある。

「でも一応、うめもとさんに聞いてみようかな」

 梅本さんは、博士課程にいる先輩で、わたしたちともよく遊んでくれる。ゴシップにも詳しくて、あの先生とあの先生は憎み合ってるとか、あのサークルでこんなめ事があったとか、飲み会ではしょっちゅう口をすべらせていた。亜津沙と馬が合うわけだ。

「その清原さんって人、専門はなんだったの?」

 澪が聞いた。一言に古典文学の研究と言っても、中身はいろいろある。時代にしても、時代から時代まであるし、物語や日記などの散文や、和歌やはいかいなどの韻文、歌物語などという折衷のものもある。その本がだれによっていつ書かれたとかいうことを調べるのが専門の人もいれば、本の内容だけを研究する人もいる。

「清原さんの専門はね、さんいつ物語の研究」

 聞き慣れない単語だった。

「散佚っていうのは、なくなった、っていう意味ね。現代まで書き写されずに行方不明になってしまった昔の物語のことを言うの」

 亜津沙の説明によれば、そのような物語は、題名だけが伝わっているものでもそれなりの量があるらしい。ということは、題名すら伝わらずに消えてしまった物語はもっと多いということだ。なぜ題名が伝わるかといえば、他の物語や日記などで言及されたり、後世の歌集などで引用されたりしていることがよくあるからだった。たとえばさらしな日記には、主人公がしんせきから物語の本を贈られる場面があるけれど、そこで書名を挙げられている本のいくつかは現存していない。つまり散佚した、ということだ。

「で、清原さんはそういうのを集めて、内容や作者を推定したり、他の物語への影響を調べたりしていたみたい」

「なんで知ってるの?」

「ええとね、ちょっと前に、卒業論文のタイトルの付け方で迷ってて、先生に相談したら、昔の卒論を参考にするといいって言われて」

 それで、うちの大学の国文学会が発行している学術雑誌のバックナンバーを読んだ。毎年、春に出る号には、前年度の卒業論文や修士論文のタイトルと、書いた学生の名前とが一覧で掲載されている。その同じ号に、たまたま清原さんとやらが書いた論文も載っていたのだという。

「じゃあ、藤枝先生とは専攻分野まで似ているってわけか」

 藤枝先生の専門は、『げん物語』や『うつほ物語』など、平安時代の文学だ。とはいえ、専門分野がかぶっていたら失踪してもおかしくない、なんてこともないけれど。

 それからもしばらく、わたしたちは藤枝先生の失踪について無責任な推理をあれこれしていた。けれど次第に、話題はわたしたちの今後についてに変わっていった。聞いたところによると、卒論指導は別の先生が担当することになるらしい。だれになるかはまだ決まっていないという。古典文学を専門にしている教授は他にも何人かいるし、たぶん、卒論のテーマから見て、近い分野の教授に割り振られるんじゃないか、と亜津沙が言った。

「じゃあ、わたしたち、離れ離れだね」

 澪がぽつりと、そうつぶやいた。

「え、そうだけど……」亜津沙がいたずらっぽく、にやっと笑う。「澪ちゃん、もしかして寂しいのかな?」

 そんなことないよ、と、澪は顔を赤らめて反論した。その反応を見る限り、そんなことないわけではなさそうだったが、わたしは何も言わないでおいた。たまたま一緒になっただけの三人だ。それでも、わたしはけっこう、この関係が好きだった。てっきり、このまま三人で卒業するものだと思っていた。

 わたしの周りでは、よく人がいなくなるらしい。でも、今度は覚えているだけましかもしれない。

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