第6話
*
それを聞いて最初に考えたのは、わたしの卒業論文はどうなるのだろう、ということだった。考えたあとで、わたしは自己嫌悪に陥った。それはあまりに薄情すぎる反応だったからだ。
卒論指導はしばらく休みになるということだったので、一コマ分の時間が空いた。わたしたちは大学で会うことにした。わたしたちというのは、藤枝先生に卒論の指導を担当してもらっている三人のことだ。わたしと、
わたしたちが通う大学のキャンパスは全部で三つ。ひとつは
もう四年も通っているので、目をつぶっても歩ける……という具合にはいかない。このキャンパスはどういうわけかいつもどこかで校舎を建て替えていて、学期が変わるとたいてい見覚えのないビルが建っていたり、通路がいくつかなくなっていたりする。夏休みが明けて一週目の今日も、通り抜けられたはずの場所に
約束の場所は、キャンパスの奥にある目立たないラウンジだった。亜津沙は先に来て待っていて、こちらに気づくと小さく手を振った。わたしが席に着くなり、彼女はせきを切ったように話し始めた。
「ねえねえ、藤枝先生のこと、何か知ってる?」
わたしは首を横に振り、今朝、澪に聞いたくらいのことしか知らない、と答えた。わたしたちふたりに、そのニュースを教えてくれたのは澪だった。たまたま大学に来て、出くわした他の先生から聞かされたらしい。
「行方不明になった、って言ってたよね。ってことは、家にも帰ってないのかな」
「そうだと思うよ」
「蒸発、ってやつ?」
「それだけじゃないでしょ。だれかに誘拐されたとか、事故にあったとか」
「駆け落ちとか」
亜津沙はさらりと言った。そのせいで、わたしはかえってどきりとした。
「先生が、だれと?」
「わからないけど、藤枝先生って、そういう噂が多かったみたいだよ」
藤枝先生が女子学生に手を出したことがある、という噂は、わたしも聞いている。先生は今年で五十六歳だけど、スマートで上品な人だったから、文学部でも隠れた人気があった。今の奥さんは、もともと教え子だったらしいという話も聞く。それが本当だということも、わたしは先生本人から聞いて知っていた。
「だからさ、ひょっとすると……」
「あ、澪」
ちょうどそのとき、こちらに向かって歩いてくる澪に気づいた。わたしは彼女を大声で呼び、話題をごまかした。
「ごめんごめん、先生に質問してたら、遅くなっちゃった」
そう言って、澪は空いていた椅子に腰を下ろした。小柄な体に似合わない大荷物を抱えて、前の授業の教室から走ってきたのだろう。べったりと汗をかいていた。
わたしと亜津沙、そして澪は、二年生のときの古典の授業で知り合った。この大学の文学部は、一年生までは共通で、二年生からそれぞれの専門分野に分かれる。そこから、学年が上がるごとにどんどん専攻が絞られてくるので、卒論のテーマがかぶりそうな相手は、三年生の後半くらいでおおよそ察しがつく。
亜津沙は、平安文学の研究がしたくて文学部に入ったという。二年生の頃から、学生の自主研究会に参加していたそうだ。それで、院生の先輩たちとも仲がよく、かわいがられていた。おおらかで人見知りせず、噂好きでもあった。
澪のほうは、わたしと同じで、古典文学を学びたかったというよりは、藤枝先生に教わりたくて専攻を決めたらしい。半分真面目、半分心配性の性格。いつもせかせかと気を回している様子は、背が低いこともあいまって、ハムスターを連想させた。
「澪は、他に何か聞いてる?」
「なんにも。朝、ふたりに教えたとおりだよ。藤枝先生の家から大学に、先生の行方がわからなくなってるって連絡があったみたいで、それでいろいろ対応してるって」
ということは、わたしが想像した通り、先生は自宅にも戻っていないということだ。
「やっぱり事故か何かなのかな。心配だよね」
「うん、そうだね……」
それで話は終わったはずなのに、澪はまだ何か言いたそうだった。こちらを見て、口を開きかけて、やめる。普段の澪なら、きっぱりした態度で、言うべきことなら言うし、そうでないなら、わざわざ
「ねえ、ほかにも何か聞いてるなら、教えてよ」
「え?」聞き返されると思わなかったのか、澪ははっとした。「あ、別に、たいしたことじゃないの。たぶん関係ないと思うし」
「まあ、言うだけ言ってみたら?」
わたしにもそう促されて、澪はそれでもちょっとだけ迷ってから、続きを話した。
「実は、文学部で人がいなくなるの、初めてじゃないんだって」
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