最終話 いつかのお返し
レズビアンであることをカミング・アウトした私は、水泳部を退部した。
別段、何か嫌がらせを受けたとか、心ない言葉を吐かれたとか、そういったことはなかったが、更衣室で同性と一緒に着替えることが多い以上、いずれ、そうした自体に発展しかねないと思い、早々に、退部を決意した。
こうして、同性愛者というだけで、これからも色々なことを諦める必要に迫られるのだろう。
カミング・アウトしたといっても、それがどこまで広まっているかは私は知らない。
学校の中だけに留まっているのか、近所の噂にまで上っているのか、はたまた、他の学校にまで広まっているのか。
これからは、誰が知っているのかも分からず、恐々としながら、探り探り他人と接することになるのだろう。
学校ではレズビアンであることをオープンにした私だったが、これから先、大学や就職先、もっとプライベートなサークル活動や友達付き合いの中で、その度に、心のクローゼットをオープンにするか、しないかの選択を考えなくてはならない。
学校や職場などの公共の場、友達付き合いやサークルなどの私的な場。
どのような場所にいても、私たちのような性的マイノリティの生活は、クローゼットとは切っても切り離せない。
「カミング・アウトしたことを、後悔しているのかしら?」
『豊玉姫神社』の防波堤の前で、海を眺めながらトヨウミさんは言った。
カンカンと照りつける日差しが肌を焼き、夏の盛りを感じさせる。
「いえ、後悔はありません。香奈と一緒にいるために、選択したことですので」
「あなたたちは、幸運だったわね。理解し合える人が、ほんの近くにいたんだから」
「それでも、すごく、遠回りをしました」
「そうね。でも、だからこそ、あなたたちは今までよりもずっと、良い関係になれたと思うわよ?」
それは、恋人同士になれたという意味ではないのだろう。
私たちは、クローゼットの奥にある、深遠たる暗闇の一端に触れ、それを理解し合った。そして、そこに小さな火が灯った。
まだまだ、小さな火だけれど、私たちが手を取り合って生まれたその火は、いつの日にか、クローゼット全体を照らす明かりになるだろう。
決して、絶望や恐怖や怯え、そういったものばかりが詰まっているわけではないはずだ。
きっと、サフラン色の朝焼けのような美しさが、見つけられるはずだ。
そう、信じている。
「それじゃ、私は行くわ」
「……また、会えますか?」
「いつでも会えるわよ。私は、ずっと、ここにいるから」
トヨウミさんは、海へ躍り出たと思うと、一瞬光り輝いて、一匹の赤鯛となって海へぽちゃりと落ちた。
太陽を浴びて虹色に輝いた鱗の光が、いつまでも残っているような気がした。
「晴海!」
香奈は土曜日の今日、担任教師を交えた三者面談のはずだったが、一人でこちらに向かって走ってきていた。
「あれ? お母さんと車で行ったんじゃなかった?」
「お母さん、今日も仕事だっていうから、そのまま会社に行っちゃった。それより、今、トヨウミさんいなかった?」
「残念。一足先に、海に帰っちゃった」
「なんだ。少し、話したかったのに」
「またいつでも会えるってさ」
「そっか。そうだよね」
香奈は学校から走ってきたのか、汗の滴がこめかみから流れていた。フレッシュな
夏の薄着の制服と、香奈の黒髪が、海からの潮風で揺らめき、私は思わず、香奈の手を取っていた。
「ど、どうしたの?」
「あ、えっと……、三者面談、どうだった?」
「先生に配慮してもらって、晴海とくるみちゃんと、同じクラスにしてもらうことにした」
詳細を聞くことは
近いうちに、朝井に釘を刺しておこうとすら思ってしまった。
「じゃあ、私も今のクラスから移ることになるんだ?」
「うん。先生は、晴海の許諾が得られたらって言ってたけど」
「もちろん。香奈と一緒なら、どこでもいいよ」
私の、現在のクラスでの立ち位置は変わった。
今までは、なし崩し的に、スクールカースト上位のグループに入っていたが、私がカミング・アウトしたことと、友美との距離感が微妙になったことで、私はグループから自然と離脱した。
友美とは朝の挨拶程度はするものの、今までのように口を利いたり、喧嘩をするような、軽々しい仲ではなくなっていた。
どちらかといえば、私より、友美の方が私を避けているようだった。
友美は、私に対して、どう接して良いのか分からなくなっているように見えた。
その当惑が周囲にも伝染したのか、クラスメイトもそれに引きずられるように、私への距離の取り方を図りかねているようだった。
そういう意味でも、担任は私を別のクラスに入れようと考えたのだろう。
私は、いつの日か、学年が上がった時でも、卒業する間近でもいいから、もう一度、友美と二人で話合ってみたいと思っていた。
友美は、両親の影響によって
私はその手助けをしたい。
そして、友美が私や香奈を受けいれてくれる瞬間を、共に分かち合いたい。
同性愛者が、
夢物語のような理想。
それが叶う可能性が、目の前にあり、それ芽吹きだしている以上、私は、その花を咲かせてみたかった。
「ねえ、晴海」
「なに……」
返事をしようとした瞬間、急に甘酸っぱい香りと共に、柔らかくて、少し湿った感触が、唇に訪れた。
それが、香奈の唇だと分かった途端に、お風呂上がりのように身体がぽかぽかと暑くなってきた。
「ありがとう。私のこと、好きになってくれて」
唇が離れた後、香奈は柔和な笑顔を浮かべて、桜の花びらのような言葉を落とした。
私は急にキスされたことと、香奈の好きだという言葉に、猛烈な羞恥を覚えた。
「うわぁ。これ、恥ずかしぃ……」
「晴海が前に私にしたことでしょ」
「そうだけどさぁ」
熱い日差しの中、爽やかな海風にさらされながら、私たちはふざけあい、笑い合った。
ただそれだけのことが、もったいないくらい幸せで、楽しくて、嬉しかった。
香奈が傍にいるから、
ありとあらゆる光彩が心から溢れ出て、とめどない恍惚に浸れる。
本当に、生きていてくれて、ありがとう。
香奈が生きて傍にいてくれるだけで、私は幸せだった。
人魚へのキス 中今透 @tooru_nakaima
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