第12話 約束のキス
異界の海はやけに澄んでおり、豊富な栄養を蓄えたスープのような近海とは、まるで違う様相を呈していた。
透明度の高い海中を、名器のような鯛が泳ぎ、深海魚であるはずのリュウグウノツカイが白銀の体を煌めかせながらひらひらと舞っている。
崖のように連なる珊瑚礁が鮮やかに海を彩り、深海魚と共に、おちょぼ口の黄色い背びれの熱帯魚や、カラフルなフエダイの群れが、共存して生活をしている。
近海では、絶対に見ることができないあり得ない光景の中に、香奈は当然のように溶け込んで、そこにいた。
「どうしても……、放っておいてくれないんだね」
「放っておけるはず、ないでしょ」
海中を漂いながら、私たちは正面を向いて、相対していた。
「もういいのに。私は、ここで生きる方が、性に合ってる。誰も傷つけてくる人はいない。ここにいる子たちは、みんな優しく、私を受けいれてくれる。私は、ようやく自分の居場所を見つけたの」
ぽっかりと暗い目をした巨大なホホジロザメが、香奈の身体に近づき、そっと撫でるように通り過ぎていった。
「香奈は、私のことが嫌いなの?」
そう聞くと、香奈は困ったように身体をくねらせた。
「そ、そんなこと、ないけど……」
「私は、香奈のことが好き。まだ、あの時の唇の感触が、忘れられないくらい」
香奈の顔が紅葉したモミジのように色づき、目尻が下がって、愛らしい表情を作った。
「分からないの」と香奈は言った。「私、誰の、どんな言葉だったら信じられるのか、分からない」
アウティングと、それによる周囲の反応が投影された人間不信は、新月の夜のように、暗い闇を香奈の心に落としていた。
「私、朝井と話したの」
「くるみちゃんと……? どんな、話?」
香奈は興味を惹かれたように、恐る恐る聞いてきた。
「朝井は、酷く後悔していた。アウティングして、香奈を追い込んでしまったことに、自分でも心の整理をつけることができずに、苦しんでた。それだけのことをしてしまったんだって、理解したからこそ、彼女は、私の前で泣くほどに悩んで、後悔して、謝りたいって、言ってた」
「……」
「朝井と話して、どうして香奈が朝井にカミング・アウトしたのか、分かった気がしたの。彼女は優しくて、純朴で、素直な子。でも、純粋すぎたからこそ、他人も自分と同じように同性愛を受けいれるだろうと思って、アウティングしてしまった」
「そう。私は、裏切られたの」
「だけど、朝井はその事実を受け止めて、反省するくらいには、誠実さも持っている。そんな彼女だから、香奈は、朝井を信頼できると思ったんだなって、そう感じたの」
「……もう、どうでもいいよ。そんなこと」
香奈は震えを止めるように自身を抱きしめて、顔を落とした。
「どうせ、みんな裏切るんだ。そして、みんなで後ろ指をさして、同性が好きなんだってからかって、笑って、傷つけてくるんだ。息苦しい。海の外は、息苦しい……」
香奈は投げ遣りになっていた。
すべてを放棄し、異界の海へと飛び込み、逃避の道を選んだ。
欧米の調査では、同性愛者の自殺率が大幅に高いという結果が出ているが、もし香奈に、トヨウミさんの血が流れていなければ、既に海の泡となって消えていただろう。
「ごめんね、香奈」
「……」
「私も、香奈を傷つけた……。香奈の気持ちを確かめずに、二度目のアウティングを、みんなの前でしてしまった。許して欲しいとは言わない。でも、このまま香奈と別れるなんて、私は嫌だ」
「そ、そんなこと、言われても……」
戸惑いとためらいが香奈の顔に浮かんだ。
「友美がね、香奈に謝りたいって言ってた」
「……嘘」
「ほんと。でも、友美は両親がキリスト教徒の影響で、同性愛を受けいれられないでいる。それでも、いつかは受けいれると約束してくれた」
「いつか……? いつかって、いつ?」
「……多分、時間がかかると思う。もしかしたら、卒業するまで、受けいれられないかもしれない」
「それじゃあ、何も変わらないじゃない!」
「変わるよ! 少なくとも、友美が、私たちを笑ったり、蔑んだりするようなことは、もうない! 同性愛者が後ろ指をさされるこの社会で、私たちを受けいれようとしてくれている人がいる事実がある以上、必ず社会も変わるよ!」
「私は……、そんな楽観的にはなれない……!」
私の言葉は、海水に吸い取られて、まるで香奈の耳に届いていないかのようだった。
「香奈……。私は、香奈と一緒に人生を歩みたい。香奈が抱えている恐さとか、辛いこととか、苦しいこととか、そういうものを全部、一緒に背負って生きたい。そうすれば、こんな社会でも、一緒に乗り越えられるよ」
静かに、柔らかい声で、語りかけるように私は言った。
香奈にこの言葉が届くように、祈りを込めて。
「私は、香奈のことが好き。好きだから、そう思えるの」
香奈は顔を背けて、頬を桃色に染めた。
「……わ、分からない……。私、晴海のこと、信じて良いのか、分からない……!」
頭を左右に振って必死に否定する姿は、もがきの極致ともいえる、葛藤の表れに見えた。
「……私、ずっと小説書いてて、香奈に読んでもらってたよね」
「それが、どうしたの?」
「……うんと、その、ね……」
ものすごく言いづらく、恥ずかしく、もう黒歴史として封印したいと思って、誰にも言わないでおこうと思っていたことを、私は口にした。
「い、今まで書いてた恋愛ものの小説って、実は……、全部、香奈がヒロインなの……」
「……え!?」
「さ、最後に読んでもらった小説だって、将来、香奈とあんな関係になれたらって思って書いたやつなの……」
「最後のって……、え、嘘、あの過激なやつ……! そ、そんな卑猥なこと……」
「ひ、卑猥って言わないでよ! 文学作品だったら、別に珍しくもないでしょ!」
羞恥の興奮のあまり、水中だというのに、身体が火照ってくるのが分かった。
「じゃ、じゃあ、晴海は……、その、私と、そういう関係になりたい、ってことなんだ……」
「う、うん……」
肯定するには非常に大きな勇気が必要だったが、私は首肯した。
香奈は私の答えに、両手で口元を押さえて、大きく目を見開いていた。
「そ、そっか。本当に、私のこと……」
「だから、何度も言ってるでしょ。す、好きだって」
こうも短時間に何度も告白をしていると、流石にまいってきてしまう。まるで、じらされているようで、身体の芯が疼いてくる。
「私は、香奈の気持ちが知りたい。告白の、答えを聞かせて欲しい」
「……で、でも、私、まだ恐い……。現実に、戻りたくないの……」
香奈の恐怖の源泉は、
社会の変革など、一朝一夕で叶えられることではないし、これまで
香奈の恐怖を完全に取り除くことはできない。
だから、私にできることは、一つしかなかった。
「きっと、人生の中で、今みたいにくじけそうになる瞬間は、たくさんあると思う。レズビアンである私たちは……、尚更。だから、約束しよう」
「約束……? どんな?」
「辛いとき、悲しいとき、苦しいとき。どんな時でも、一緒にいること。そして、お互いが、支え合える関係でいられることを」
『人は、独りで生きるものではない』。
トヨウミさんは、『見るなの禁止』を破られ、異形の者であったことが明るみになって人間社会にいられなくなった。
そんな彼女の言葉だからこそ、深海の水圧のような力を持って、私の中に響いた。
「……な、なんか、結婚するみたいな、約束だね……」
「そ、そう捉えてもらっても、全然、いいけど……」
永遠ともいえる数秒の沈黙があった。
気まずさという厚いビロードの幕が垂れ、私たちの間を隔てようとしていた。
「だ、だから、もう教えてよ! 香奈は、私のこと好きなの!?」
私の無理矢理な沈黙の爆破に対して、香奈は指をクロスさせて、恥ずかしがるように人魚の尾ひれを左右に揺らした。
「ど、どうせ、くるみちゃんから聞いてるくせに……」
「聞いてない。でも、どうして、私じゃなく、朝井にカミング・アウトしたかは、ずっと考えてた……」
「じゃ、じゃあ、もう察しはついてるんでしょ!」
「香奈の口から、直接聞きたいの!」
もはや羞恥の押し付け合いのような様相を呈してきて、私は何が何だか分からなくなってきた。
「あ、う……」と香奈は呻くように言った。「す、好き……、です」
一瞬の内に、歓喜が体中を駆け巡り、血液が沸騰したように熱くなった。
「き、きこえない」
もう一度聞きたいというわがままが、自然と、棒読みの言葉を口に出していた。
「き、聞こえてたでしょ! す、好き! 私も、晴海が好き! くるみちゃんに恋愛相談したのだって、晴海にどうやって告白すればいいか、相談したの! もう、分かってるでしょ!」
「し、信じられない」
「な、何言って……」
「だから、キスして」
「え!?」
私の心は、欲望のままに突き進みながらも、理性の欠片が舌に一つの言葉を乗せた。
「約束。もう、辛いこととか、嫌なこととか、傷つくことがあっても、自分独りで抱え込まないことの、約束。一緒に、考えて、乗り越えていこうっていう、約束のキスをして」
「……私……、まだ、恐いよ?」
「私だって、恐い。でも、香奈と一緒なら、大丈夫。香奈のことを、信じているから」
私の言葉を受けて、香奈は器用に人魚の尾ひれを動かして、私の傍まで来た。
香奈は逡巡したように、顔を逸らし、やがて決心したように目をつむった。
香奈の顔が近づき、私も瞼を閉じた。
ふんわりと柔らかく、少し唾液で濡れた口づけは、幸福感を心に
惜しむように唇が離れると、すぐ近くに香奈の昂揚した顔があり、とても愛おしく思えた。
「本当は……、私も、晴海のことを、信じたい……。くるみちゃんのことも、友美のことも、信じたい。人を、信じられる自分でいたい」
「なら、最初に、私のことを信じて。私が、香奈のことを、好きだって気持ちを」
「うん」
「そうしたら、きっと、二人で一緒に人生を歩める、最強の二人になれるよ」
「ふふ。何それ」
「最強」
「晴海、たまに変なこと言うね」
私たちはお互いの手を
薄く開いた目が、香奈の下半身から鱗が剥がれ落ちていくのを捉えた。
唇を離した時にはもう、香奈は人魚ではなくなっていた。
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