第11話 異界――豊海大神の領域
今夜は、満月だった。
明るい月夜の下で、トヨウミさんは『豊玉姫神社』の石造りの鳥居の前に佇んでいた。
まるで、私が今夜、ここに来ることを見越していたようだった。
「それで、答えは出たのかしら?」
昼間の会話がまだ続いているかのように、彼女は振り返りながら言った。
「あなたの正体は――、
トヨウミさんは肯定も否定もせず、続きを促すように、にこりと微笑んだ。
「古事記の『山幸彦と海幸彦』の神話では、山幸彦が、兄の海幸彦から借りた釣り針をなくしてしまい、
『山幸彦と海幸彦』。
古事記では、山幸彦は
そして、豊玉姫命のお産の際に、火遠理命は彼女の正体である
最終的に、二人の子どもは、豊玉姫命の妹である
「赤海鯽魚の記述は、喉から海幸彦――
私は一度言葉を切って、少し不安になりながらも、自身の仮説を口にした。
「
日本においての鯛の在り方は、他の魚とは一線を画している。赤い色を貴色とする仏教・儒教の影響を受けて、江戸時代には『魚の王』とまでもてはやされるようになったように。
「水産業を主な生業とするこの地域においては、『大漁満足』や『安全祈願』のために海の神を祀る必要があった。そして、伊勢神宮に奉納されるほどの神聖な存在である鯛は、鯛漁業が盛んなこの地域においては、ことさら特別な存在とされていたはずです」
神道に限った話ではない。
仏教やイスラームにおいても、魚は信仰の従属的な神聖な存在であり、神と共にある生き物として捉えられている。
「そこで祀り上げられたのが、『綿津見神宮』の赤海鯽魚――海の神である綿津見神の神使である、あなたです」
トヨウミさんは、私がその正体を突きつけると、場違いな拍手をした。
「正解よ。私は綿津見神に仕える鯛であり、神使として、神の使者としての役割を担ってきたわ。ま、所詮は神使に過ぎない私が、まさか『豊海大神』なんて名で祀られるとは思ってもみなかったけれどね」
自嘲気味にそう言うと、トヨウミさんは私に歩いて近づいてきた。
「そこまで行き着いたなら、私の領域に入る資格も、手に入れたのよね?」
私は無言で、
トヨウミさんは、私の掌から釣り針を摘まみ上げた。
「『釣針喪失譚』、ですよね?」
「ふうん。あなたたち人間は、そういう呼び方をするの?」
「『山幸彦と海幸彦』の神話と類型の事例が、インドネシアやミクロネシアなど世界各地に存在し、その中核をなすのが、釣り針なんです。往々にして、釣り針をなくすことで、海の彼方や海底にある異界に至り、異界の者に出会う。つまり、釣り針は、異界にコンタクトする手段として成り立ちます」
『山幸彦と海幸彦』において、赤海鯽魚の喉から釣り針が見つかるのであれば、尚更、釣り針は豊海大神の領域に入る資格になるはずだ。
トヨウミさんは摘まんだ釣り針を、ぱくりと口に放り込んで飲み込んだ。
「はい。これであなたは釣り針をなくしたわ」
「……痛くないんですか?」
「小骨が刺さった程度よ」
そう言ってわずかに首を傾ける動作は、すごくチャーミングだと思った。
「さあ、連れて行ってあげるわ。綿津見神に与えられた、私の領域へ」
トヨウミさんの差し出す手を、私が握りしめると、彼女はコンクリート造りの防波堤へと歩き出した。防波堤へ足をかけると、彼女はそのまま、私を連れて海へと飛び込んだ。
予期していたとはいえ、何の準備もなしに飛び込むとは思わず、私は息をあまり吸い込むことができないまま、水中へと潜った。
「大丈夫よ。直ぐに着くから」
どういう原理か、水中でトヨウミさんの声がはっきりと聞こえた。
トヨウミさんの下半身は鯛のそれへと変貌しており、漁船をはるかに超える速度で、私を連れて泳ぎだした。私は彼女の腰に掴まり、振り落とされないようにするので必死だった。
息が続いたということは、それほど遠くまで泳いでいないのだろう。
気がついた時には、呼吸が楽になり、全身が海水に濡れる感覚もなくなっていた。しかし、たしかに水中にいるのだということが、体の浮遊感から分かった。
瞼を開けると、私は、青々しい、
そこには、数え切れないほどの無数の鯛が泳いでいた。サクラ色の鱗に紺色の斑点がはしり、どこからか降り注ぐ光を浴びて、虹色に輝いている。
星の海のようだ。
私はそんな、海の天の川に見蕩れていた。
気がつくと、トヨウミさんの姿はなく、珊瑚礁の周りで、タツノオトシゴと戯れる人魚の姿を捉えた。
私が泳いで近づくと、人魚も気がついたように顔を上げた。
「嘘……。晴海?」
海に咲いた花弁のようだと思った。
珊瑚礁とタツノオトシゴに囲まれた香奈は、まるで妖精のように幻想的で、ゆらりと揺れる黒髪がどこからか差し込む光を浴びて、艶やかに輝いていた。
「綺麗だよ、香奈」
さあ、橋を架けよう。
香奈の深層へと繋がる橋を。
私の言葉が、その架け橋になると信じて。
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