第三話 小説家から逃げろ!

 編集部から逃げ出して一週間が経った。


 ……おかしい。なぜ川島さんは俺を追いかけてきてくれないんだ? 小説家といえば山奥の温泉宿とそこまで追いかけてくる担当編集だろう。まったく、近頃の編集さんはそんなことまで忘れてしまったのか。


 いや、さすがに俺も調子に乗りすぎたかな。ちょっと探りを入れてみるか。


 俺は直接川島さんに連絡するのは怖かったので、編集部に電話をしてみることにした。きっと忙しい川島さんは自分で電話に出ることはない。電話に出た人に川島さんの機嫌を尋ねてみることにしたのだ。



「あー、もしもし? 山城伍長ですけど」


「山城先生っ!? どこにいるんですかっ! こっちは山城先生がいなくなって大変だったんですよっ!」



 電話口に出たのはあの新人編集だった。ちょうどいい。こいつなら容易く川島さんの様子を知ることができるだろう。



「あのときは悪かった。謝ろう。それで、川島さんは今どうしてる?」


「ヤバイですよ。もう鬼の形相を通り越して仏の形相になってます。あの人は怒ってる顔よりも笑顔のほうが何倍も怖いんですから」



 あ、これはマジでヤバイやつだ。この新人編集の言った通りで、川島さんが笑顔のときがマジギレしているときである。これはちょっとやそっとのことでは許してくれそうにない。



「早いうちに謝ったほうがいいですよ、何ならこのまま電話代わりましょうか?」


「い、いや、今はまだ心の準備ができていない。またあとでかけ直すよ」


「早くしてくださいよ」


「ああ、わかった。ありがとう」



 ……とんでもないことになってしまった。まさかここまで怒るとは。しかし、そんなにも怒ることしたかな? まあ、川島さんが怒りっぽいってのは今に始まったことではないか。


 しかし、この状況はまずいな。どうにかして川島さんの怒りを治めなくては。さて、どうするか。



一、 メールで謝る

二、 電話で謝る

三、 直接会って土下座する



 どれも謝るという点では同じだ。つまりどれでもいいんじゃないか? 「二」の電話で謝るのは面倒だし、「三」の直接会って土下座するとか面倒な上にプライドまで捨ててるじゃないか。俺がこの選択肢を選ぶなんてありえない。というわけで、俺は素直に「一」のメールで謝ることにした。


 すぐさまメールの文章を打つ。とにかく真剣に謝ってる感じを醸し出すんだ。俺は小説家だぞ? こういうのは得意なんだ。


 俺は川島さんへの謝罪文として一万文字も書いてしまった。ここまで真剣に謝ればきっと川島さんも許してくれるだろう。よし、送信っと。あとは待つだけだな。


 しかし、何時間待っても川島さんから連絡はなかった。おかしい。川島さんはどんなに忙しくても一時間以内に必ず返信してくれる人だったはず……。それこそ夜中にメールしてもすぐに返ってくるほどの几帳面さだ。その川島さんがこんなにも連絡を待たせることがあり得るのか?


 俺は不安に思ってもう一度編集部に電話してみることにした。



「もしもし? 山城伍長です」


「あっ、山城先生っ! もう、どうしたんですか。まだ川島さんに謝ってないんですか?」



 電話口に出たのは再びあの新人編集だった。ありがたい。



「いや、すでに謝罪のメールを送ってるんだが、届いてないのか?」


「あー、やっぱりメールで謝ったんですね。ダメですよ。川島さん、山城先生のメールを受信拒否にしたって言ってましたから」



 そ、そこまでするかっ!? 川島さん、なんでそんなに怒ってるんですかっ! もっと心に余裕を持ちましょうよっ!



「山城先生、どうしますか? やっぱりこの電話で川島さんを――」


「い、いや、それはいい。こっちで何とかするから、君は自分のことをやりなさい」


「そうですか? でも、早くしてくださいよ」


「ああ、ありがとう」



 通話を切ったあと、俺は一つため息をついた。まさかここまで怒ってるとはな。さすがにメールではダメだったか。しょうがない。あまりやりたくはなかったが、川島さんのスマホに電話して謝るとするか。うう、嫌だな。俺、人と話すの苦手なんだよ。



「とりあえず、温泉に入って心を落ち着かせよう」



 俺はひとまず露天風呂へと向かった。



「ふう、さっぱりした」



 温泉に入ってさっぱりした俺はだいぶ精神力を回復していた。この調子なら川島さんに何を言われても何とかなりそうだ。よし、思い切って電話してみることにするか。


 俺はスマホで川島さんへと電話してみた。だが――。



「……出ない」



 いや、そもそもコール音すら鳴らない。これはいったいどういうことだ? もしかして、川島さんのスマホが壊れてるのか? まったく、あの人は物を粗末に扱いすぎなんだよな。


 俺は仕方なく編集部に電話することにした。さすがに編集部に電話すれば川島さんと話すことができるはずだ。まったく手間をかけさせるぜ。



「もしもし、山城伍長ですけど」


「あ、山城先生、大変ですよっ!」



 電話口に出たのはやっぱりあの新人編集だった。しかし、何か慌てている。何がそんなに大変だというのだろう?


「山城先生、もしかして川島さんに電話しませんでしたか?」


「ああ。だが、電話しても通じなかったぞ。川島さんのスマホ壊れてるんじゃないのか?」


「違いますよ。山城先生があまりにも謝ってこないから、もう川島さんがマジギレして通話も拒否にしてしまったんですよ。電話も取り次がなくていいって」


「へっ?」


「しかも、川島さんが編集長に直談判してもう山城先生に小説を書かせないようにって話し合ってるようです。今、その話し合いが会議室で行われてるんですよ」


「……はい?」



 えっ? どういうこと? つまり、このままだと俺、もう小説書けないの? 小説家じゃなくなるってこと?



「……マジ?」


「マジです」



 俺はしばらく無言になったあと、そっと通話を切った。そして無言で部屋の荷物を片付け、旅館をチェックアウトする。



「さてと」



 旅館の外に出たあと、俺は準備運動をして気合を入れた。


 これは――ガチでまずい。



「うおぉぉぉぉぉっ!」



 俺は全速力で編集部へと戻ることにした。それはまずい、それはまずい、それはまずいっ!


 俺は血がにじむような苦労をしてようやく小説家になったんだっ! それなのに今更小説が書けなくなるとか、命を絶たれるようなもんじゃねえかっ! もう会社だって辞めてるんだぞっ! 頼む、何とか間に合ってくれっ!



 編集部に着くとそこにはちょうど川島さんがいた。何という幸運。探す手間が省けた。



「か、川島さんっ!」


「ああ、山城先生ですか」


「申し訳ございませんでしたぁっ!」



 俺は滑り込むようにして土下座を敢行した。その見事な土下座は採点をするならきっと芸術点百点だっただろう。



「もう逃げたりはしませんから、まさか、俺から小説を取り上げたりはしませんよね? 大丈夫ですよねっ!?」


「山城先生……」



 川島さんは仏のような笑顔でふっと笑った。俺もつられて笑顔になってしまう。



「もううちの編集部にあなたはいりません」



 目の前が真っ白になった。



「ど、どうしてですかっ!? 何が悪かったんですかっ!?」


「すべてですよっ! あんた、あんだけのことをやっておいてまだうちで小説書けると思ってたのかよっ!」


「ごめんなさい、ごめんなさいっ! 反省していますから、どうか許してくださいっ!」


「山城先生……」



 川島さんは目を伏せて首を横に振る。



「あなたは編集から逃げているみたいでしたけど、編集だって小説家から逃げることはあるんですよ」



 俺は何も言えなかった。


 今まで俺は逃げ続けてきた。俺が逃亡者だと思っていたのだ。しかし、逃げることができるのは追いかけてくれる人がいるからできることなのだ。それを俺は忘れていた。



「まあ、また別の編集部でがんばってください。応援していますよ」



 こうして、俺は締切や編集から逃げ続けた結果、締切や編集を追いかけることになったのだった。


 ――小説家は逃げたらダメだ。



                  了

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小説家という名の逃亡者 前田薫八 @maeda_kaoru

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