第二話 編集から逃げろ!

 俺は編集部にカンヅメされていた。つまり拉致監禁されたのだ。このままでは川島という鬼に殺されてしまうかもしれない。何とか逃げ出さなければ。


 状況は最悪。編集部の狭い個室に俺と川島さんの二人っきり。出入口は一つで、その前には川島さんがパイプ椅子に座っている。この人、他にやることはないのか? 相当暇なんだな。変わってくれ。


 さて、ここは俺のとるべき道はどれだ?



一、 トイレに行くふりをして逃げる

二、 祖父が危篤だと言って逃げる

三、 真面目に小説を書く



 ふむ、どれもよさそうだな。だが、「三」の真面目に小説を書くのだけは最終手段だ。真面目に小説など書いていたら何日ここにカンヅメされるかわかったものではないからな。


 ええい、こうなったら全部試してやる。そうすればどれかは成功するだろう。


 俺は意を決して立ち上がった。



「川島さん、トイレに行かせてください」


「ん? ああ、わかった」



 おっ、素直にトイレに行かせてくれるのかな? もしそうなら楽勝だったな。そのまま編集部から抜け出して逃走してやる。


 だが、川島さんがとった行動は俺の想像を超えていた。



「はい、これ」


「……なんですか、これ」


「ペットボトルだよ。その中に用を足せ」



 マジで人権どこ行ったんだよ。拷問だろ、これ。この人、本気で言ってるのか? いや、目がマジだな。鬼だ、鬼がいるぞ、ここに。



「すみません、大のほうなんですよ」


「おまるならそこにあるぞ」


「なんで編集部におまるなんてあるんですかっ!?」


「お前が逃げようとするからわざわざ用意したんだよっ!」



 せめて簡易トイレを用意してほしかった……。


 俺はトイレに行くことをあきらめ、ノートパソコンの前へと戻っていった。


 くそう。それでも俺はあきらめないぞ。きっとここから逃げ出してやるっ!



 トイレ作戦は失敗した。だが、まだ終わりではない。もう一つの作戦である祖父が危篤ということにして逃げる作戦を決行するときが来た。


 ちなみに俺の祖父はぴんぴんしている。この前の健康診断でも異常はなかったし、今日も海でサーフィンをしている写真を俺のスマホに送ってきた。七十を超えた爺が何やってるんだよ……。


 だが、そんな真実などどうでもいい。悪いがじいちゃん、俺のために危篤ってことになってもらうぜ。


 俺はわざとらしく今気づいたようにスマホを取り出した。川島さんの視線が急に厳しいものになる。さすがにスマホは最大限に警戒するか。だが、川島さん、あんたはミスを犯した。見張っているから大丈夫だと思ったんだろうが、俺からスマホを取り上げなかったのは失敗だったな。スマホは遊ぶだけのものじゃないんだよっ!



「川島さん、実家から連絡が入ってるんですが、電話してもいいですか?」


「ダメだ、無視しろ」


「しかし、短時間に何件も来てるんですよ。もしかしたら、何かあったんじゃないかと心配で……。このままだと小説も手につきませんよ」


「……ちっ、手短にな」



 ふっ、チョロいな。川島さんは鬼だと思っていたが、ここで情に流されるあたり鬼としてもまだまだ二流だ。一流の鬼には程遠い。二流程度の鬼なら、俺にだって騙すことができるんだぜっ!


 俺は実家に電話するふりをして手早く「一七七」を押した。天気予報の電話番号である。本当に実家に電話することはできないからな。まったく、川島さんも甘い。俺だったらスピーカーにして会話しろと言うね。そんなことにも頭が回らないとは、つくづく甘い鬼だ。



「あっ、母さん? どうしたの、何度も電話して。えっ、おじいちゃんが危篤っ!?」



 この言葉を聞いてさすがの川島さんも俺を見る目が変わった。さすがにただ事ではないと悟ったのか、パイプ椅子から半分腰を浮かせている。



「うん、うん、わかった。すぐに帰るよ。じゃあね」



 俺は天気予報の電話を切り、川島さんのほうを向いた。



「川島さん、聞いてましたよね」


「おじいさんがまずいことになってるのか」


「はい。心苦しいのですが、今日はこのまま実家に帰らせて――」


「しかし、お前のおじいさんから今日の昼間にサーフィンをしている写真が届いてるぞ。ほら、すごい元気そうだ」



 おじいちゃぁぁぁんっ! なんで川島さんにまで写真を送ってるんだよっ! そしてなんで川島さんもそれをさも当然のように受け取ってるんだよっ! 何? この人うちのおじいちゃんとそんなに仲がいいのかっ!?



「しかし、それから急に容態が悪くなったってこともあり得るよな」


「そ、そうです。きっとそうなんですよっ!」


「ふむ」



 よ、よし、このまま押し通せるか。



「ちょっとお前のおじいさんにLINEで連絡を取ってみるか」



 なんで川島さんが俺のおじいちゃんのLINEを知ってるんだよっ! 本当に川島さんとうちのおじいちゃんの関係ってなんなのっ!?



「あー、すいません。慌てていて言い間違えてました。おじいちゃんではなく父が危篤なんです」


「ふむ。そうか、それなら君のお父さまにLINEで連絡を――」



 なんでうちの親父のLINEまで知ってるんだぁぁぁぁぁっ! いつの間にLINE交換したんだよ、お前ら。俺は知らねえぞ?



「ちなみにお前の交友関係のほぼすべての人とすぐに連絡は取れるようにしてある。地元の友人から社会人時代の上司まで、すべてだ」


「な、なんでそこまで……」


「お前の担当編集ってのはここまでやらないとやっていけねえんだよっ! 自分の日頃の行いを反省しろっ!」


「……小説を書いてきます」


「おう、そうしろ」



 俺はあきらめてノートパソコンの前に戻っていった。だが、逃げることをあきらめたわけではない。このままで済むと思うなよ、川島さん……。俺は絶対に逃げ出してやるっ!



 俺はしばらく真面目に小説を書いている――ふりをしていた。川島さんも俺がすでに万策尽きたと思っているのだろう。最初のころのピリピリした空気からだいぶ緩んできてるぜ。


 そう、俺は待っていたのだ。川島さんも人間だ。必ず限界がある。きっとどこかで見張り役を交替するはずだ。俺はそれを待っていた。


 時刻は午前二時を回ったところだ。川島さんも大きなあくびをしている。そこにこの部屋のドアがノックされた。



「川島さん、交替の時間です」


「ああ、頼むよ」



 川島さんは俺のほうを向くと、最後の気力を振り絞って鋭い視線を放ってきた。



「山城先生、俺がいなくても真面目にやってくださいよ」


「わかってますよ」



 俺は真剣にやっている風に見せかけるためにノートパソコンの画面から目を放さない。実際は小説の内容なんて何も思い浮かばないからWordで一人しりとりをして遊んでいた。


 川島さんがいなくなり、新しい編集さんが見張りとしてやってきた。どうやら新しくこの編集部に入ってきた人らしい。若くて見たことがない。これは騙しやすそうだ。


 俺は新しい編集さんが暇になって自分の仕事を始めたことを確認し、行動に移す。こういうときのために用意していたUSBを財布から取り出した。中には過去の小説のデータが入っている。それをノートパソコンの中に移し、タイトルだけを書き替えてあたかも新しい小説が完成したかのように偽装した。



「よーし、完成だっ!」



 俺は大げさに喜んで見せた。この辺の演技も何度も家でかなり練習したからな。川島さんならともかく、新人編集さんには嘘か本当かなんてわからないだろう。



「お疲れ様です。思ったよりも早かったですね」


「まあ、本気を出せばこんなもんよ。このあとチェックがあるんだよね?」


「そうですね。あー、でも川島さんはもう帰って寝てるでしょうし、チェックは明日になると思います」


「それなら俺も帰っていいよね?」


「あ、それはダメです。川島さんに山城先生の帰宅は許可がおりない限り許すなと言われているんですよ」



 あの鬼め、ここでも邪魔をするか。だが、脇が甘いんだよっ!



「それならせめてソファーで寝てもいいかな? 大部屋にあったよね? あそこならまだ編集者が何人か残ってるから君が見張っていなくても大丈夫だと思うんだけど」


「う~ん、そうですね。もう作品は完成しているようですし、そのくらいはいいと思います」


「ありがとう。それじゃあ俺は川島さんが出勤してくるまでソファーで寝てるよ」


「はい、おやすみなさい」



 こうして俺は新人編集の監視の目から脱出することができた。ここまで来ればあとは簡単だ。部屋を出るとそこはすぐに大部屋である。残っている編集者の数を確認。……三人か。楽勝だな。俺はその三人の編集者の視界に入らないように編集部内を移動した。そして、まんまと編集部から逃げ出すことに成功したのである。


 まったく、川島さんも甘いぜ。俺は誰にも縛られないっ! 小説家ってのは自由を謳歌する生き物なんだっ!


 俺はその日のうちに旅行の準備を整え、山奥の温泉宿へと向かったのだった。

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