白い絵の具

御角

白い絵の具

 私はよく、白い絵の具を余らせる。黒や藍色は手元のキャンバスを染め上げ、あっという間に消費されていくのに「白」というのはどうにも使えない。

「よし、出来た」

 それもそのはず、アトリエに立てかけられた無数の絵は、どれも夜空の向こうを切り取った私の自信作だ。光すら自らの役目を忘れ、たじろいでしまうほどの深い闇。そこに白が入り込む余地などは1ミリもない。

 でもやはり、何かが足りないような気もする。その差を、隙間をどうにか埋めたくて、私は空に手を伸ばした。


 今夜は月がよく見える。綺麗な満月が、周囲の雲を散らすかのようにその輝きを放っている。その美しい円に、あなたの微笑みがぼんやりと重なった。

 優しくて、真面目で、時々ふにゃりと顔をくずすあなたの顔が、今日も私の記憶にとどまる。だから私はこうして、くる日もくる日も空を眺めては黒く染まった筆を走らせているのかもしれない。

 あなたは今、どうしているのだろう。この無限に広がる夜空の上で、一体何を思って微笑んでいるのだろう。吸い込まれそうなほどに暗いキャンバスに尋ねても、答えなど出るはずもない。まだ、この絵は完全ではない。


 薄汚れたパレットに一粒、余った真珠をたらしこむ。まだ何者にも染まらぬ筆でその光をすくいあげ、キャンバスの下、闇がしたたるその端っこに大きく弧を描いて塗りつぶした。わずかに湾曲したその余白は、言われなければわからないほどささやかでつつましい。

「おかあさん、なにしてるの?」

 もう布団に入ったと思っていた娘が、ベランダの網戸を開けて、とてとてとこちらに歩み寄る。

「絵を、描いていたの。見る?」

 その問いに大きく頭を縦に振った少女を、私はそっと抱きかかえた。

「おかあさん、おかあさん」

「ん? なあに?」

「ここ、ぬりわすれてるよ」

 そう言って、幼い娘は絵の下に浮かび上がる余白を指差した。

「これはね、そういう絵なの」

「じゃあ、このしろいのはなに?」

 今度は私が、天に向かって指を伸ばす。

「それはね、お父さんだよ。あの月からこっちを見て笑う、お父さんの頭」

 娘と二人、どこまでも続く空を仰いで、遠くはなれた衛星にそっと思いを馳せた。


 あなたは、もう月についただろうか。その大きな足跡を、あの満月に残せているだろうか。今度はいつ、家に帰ってくるのだろうか。

 その時が来るまで、私はこの余った絵の具を少しづつ消費していく。そうやって、白いあなたを待ち続ける。

 変わらぬ愛を、その宇宙スペースにこめて。私達は、いつでもあなたを思っている。

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