【其ノ二 (2)】


 その時だった。

 どこかで子供が泣いている。

 しくしくと。声を殺して。

「……迷子か? いや、違うな。隠れてる」

 ワイは鼻をヒクヒクさせ、風の匂いを嗅ぐ。

 まだ乳臭い餓鬼だ。三つか、四つというところ。

「近くに親はいない?」

「いないようだ」

「様子を見に行きましょう」

「あっちだな」

 なだらかな坂道の園路を回らず、ショートカット用の階段を上がる。

 変な鳥ゾーンへと続く横道を無視して、そのまま真っすぐ。すると、五十メートルくらいの長さのトンネル通路に行き着く。通路の内壁はギャラリーになっていて、モザイクタイルだか切り絵だかの動物画が、左右にずらりとはめ込まれている。

 その中央付近――ペンギンの画の前に設えられた、ベンチの陰。

 地べたに座り込んでいる子供がいる。

 白いダウンジャケットに紫のイヤーマフ。

 ふ~む、と顎を擦りながらワイは近づく。

「……丹吉、この子は」

「わかってるよ」

 子供が顔を上げた。

 幼すぎて性別が定かではないが、持っている物からして多分、男児だろう。

 泣き腫らした瞼の奥は黒目がちで、濡れた頬は凍えている。

 ワイはよっこらせ、とその横に腰を下ろす。

「よう。ワイの名前は、丹吉狸。かつて〈阿波の国にこの狸在り〉と、その名を轟かせる寸前までいったこともある、ご立派な化け狸様じゃ。お前の名は?」

「…………」

「今日からここはワイのパトロール範囲になったんじゃが、事情次第では、命までは取らずにおいてやってもよい。……いや、坊主に訊いてるんじゃない。お前だ、〈兎〉」

 ぴこぴこ。

 ぴんッ……、とダウンジャケットの懐から長い耳が飛び出し、くるくる回る。

 男児は慌ててそれを隠そうとしたが、続けてスンスンスンスン、とヒクつく鼻が迫り出し、身をよじり――やがてポーンッ、と大きく飛び跳ねた。

 ああッと男児が声を上げ、捕まえようとするが、その手は空を切る。

 宙を舞う、真っ白な――。

 冬毛のノウサギ。

「――こんぬぉやるおおぉぉぉ! おのれ妖怪、化け狸! あたしのケント君から離れるぉおお!」

「おわッ!?」

 兎はワイのストールを駆け上がり、頭の上に乗り、その場で地団太を踏んだ。

 地団太、と言っても単なる足踏みではない。ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や、と数を唱えながら凄まじいスピードで頭頂部を連撃してくる。

「これは踏み鎮め――天鈿女命の舞いから発した、鎮魂の技」

 蛇が、胸元で囁く。

 え、何それ。こ、こ、こいつは、い、一体。

「おりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!」

「は、はええええええ……」

「ぬおおぉぉぉりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!!」

「は、は、は、はええええええええええええ……」

 ワイの頭はバブルヘッド人形のようにブリブリ振動し、あっという間に気が遠くなる。

 いかん――。

 と、そこで緋のストールをかき分けて顔を出す黒い蛇。

 舌を出し入れし、鋭い擦過音を吐きながら兎をねめつけた。


「さがれ。わをんな、われらあなかしこきべんざいてんのみつかひとしれ」


 ビクン! と一度軽く跳ね、兎はワイの頭から男児の陰へと飛び、隠れる。

 ワイは白目を剥いて、すぐさまその場に突っ伏した。

 吐きそうだ。

「ヴォエッ……」

「……丹吉、大丈夫ですか。祓われてませんか」

「……あ、危ないところだった。単なる化け狸のままだったら――神使になってなければ、多分死んでた」

「神使〈候補〉ね。はい、無事で良かった」

「…………」

 チッ、いちいち細かい奴だなぁ……。

 ワイは何度かえずきながら、男児に庇われている兎を睨む。

 兎はまだ興奮した様子で、チラチラ顔を出してはフガッ、フガッ、と威嚇しつつ飛び跳ねている。

 まったく、どいつもこいつも!

「クソッ、この動物園は化け兎まで飼育してんのか!? 何なんだよお前は!!」

「いや化けてんのはあんたでしょ!? あたしは出雲の国から来た立派な神使、つーかなんで妖怪が弁天様にお仕えしてんの? 意味わかんないんだけど!」

「よ、妖怪とは何だコイツ、失敬な……。蛇、何とか言ってやれ」

「丹吉は本当に妖怪みたいなもんですから否定できません。それより、兎は何故こんなところにいるんです? この子供は?」

 みたいなもんって……。

 いやまあそら、大きな括りではソッチ系かも知れませんけど……。

 兎は、蛇と男児を交互に見てから、少し耳を折る。

 そして何やら、とんでもなく甘ったるい三温糖のような声で話し始める。

「あたしは――あたしはね、その、何て言うか色々あって、五年前からこの動物園のふれあいコーナーで、人間を癒す仕事をしてるの。ケント君はいつもあたしを指名してくれる常連さん」

「なるほど」

「でも、ちょっと今日はケント君、見てのとおりテンションがおかしくなっちゃって。無理やり店外に誘われて、ここまで拉致られちゃったんだ。多分今頃、ウェイターやケント君のお祖父さんが、必死に捜してると思う……」

「はい」

「……て言うのもそろそろあたし、店年齢的に限界だから、どこか別の箱に移籍しようと思ってたんだよね。やっぱほら、他の娘がどんどんお婆ちゃんになって死んでくのに、あたしだけ元気だと――浮いちゃうじゃない?」

「なるほど」

「で、ケント君にそれとなく、その話したの。あたしここ辞めようと思ってるんだーって。そしたら! ……お別れするのヤダよ、僕が飼う! って叫んで、ピューッ! ……凄くない? まだ四つなのに、カッコいいよね。ちょっとジ~ンと来ちゃったよ、アハッ!」

「はい」

「――いや待て待て。蛇。なるほど・はい、なるほど・はい、じゃないだろ何でこんな奴の話をご清聴しとるんじゃお前は」

 ワイは漸く身体を起こし、ストールの隙間から生えた蛇と、眼前の性悪兎を見比べる。

 兎は丸い尻尾を二、三度振り、小首を傾げてこちらを向く。

 なぁに? とでも言いたげな顔である。

「ケッ、カワイ子ぶりやがって……。ワイはその手には乗らんぞ。貴様、自分を神使だと言ったな? でもそりゃ妙だ。遥々出雲から遣わされた神使が、こんな辺鄙な場所で何年も客商売なんかしてる訳がない。お前の正体は何だ、ここで何をしてる! 言え……!」

「……うぅ、うぇぇ~ん! ケントくぅ~ん! このオジサンがあたしをいじめるぅ!」

 男児はハッとして兎を抱き上げると、再び己の懐の中に隠した。

 そして小さな唇を引き結び、ワイを睨む。

 なんとも健気なことだが。

「フスーッ……。坊主、そいつは普通のウサギじゃない。お前の家では飼えんと思うぞ」

「う、うるさい。あっちに行けっ。バニーちゃんは僕のだっ」

 お、おう。……どうするんだこれ。

 妖じみたシュガーボイスで人間を、それもこんな餓鬼をたぶらかしやがって。

 この小僧、性癖が歪んでしまうのと違うか。

「丹吉。しかしこの兎が、神使の力を持っているのは間違いありません。そして出雲から来たというなら、その主は多分、大国主命です」

「えっ……。まじー?」

「我々神使はお役目に遣わされるか、あるいは自分自身の修行を許された時しか、主の元を離れない。そしてその修行の形というのは、それぞれの裁量に任されています」

「え、待ってくれ。裁量って、じゃあ結構フリーでウロウロできるのか?」

「フリーではありません。たとえ修行でも、厳とした目標を立てて出発するので、その誓いが果たされるまでは帰還も許されない」

「はは~ん……」

 話が見えてきたぞ。


 つまり、この兎は。

「じゃあ、例えばその目標が達成できないまま、どっかで行方不明になったり――子供相手の妙な仕事に手を染めて、そのまま悪堕ちしちゃったりするような神使も、いなくはない……?」

「悪、まで行くかどうかはわかりませんが。あまりに難儀な目標を立ててしまうと、挫折して野生に還るものも、ゼロではないかも」

「ちょッと! ふざッけんなよ!」

 大声を上げ、ピョンッ、と飛び出して来る兎。

 またぞろ頭を蹴られてはかなわないので、ワイは尻をついたまま素早く後ろに退いた。

 兎は、捕まえようとする男児の手を振り払い、前歯を剥いて噛みつきそうな勢いで反論する。

「あのね、言っときますけどあたしは今でも毎朝、大国主様に頭を垂れてご挨拶してんの! 確かに修行の道半ばっちゃあ道半ばだけど――もう二十年くらい出雲に帰れてないけど、それも全て大国主様に全力でお仕えするためのことだし! 帰還するころにはもうそりゃ間違いなく、いつもお傍に置いて頂けるくらいの強キャラになってるからね、あたし! そもそもあんたらみたいな田舎者は知らないでしょ、主様がどんなにカッコいいか!? ねえ? お目通りしたことあんの主様に? ないよね!? あったら兎を疑ったりするわけないもんね!? ねぇ知ってる? そういうのを、えっと……す、し、しま、揣摩臆測っていうんだよ! 見当違いの当てずっぽうって意味!! 自分の国から出たこともないような奴らが、この兎様に向かってご無礼コイてんじゃないわよ! ねえ、聞いてる!?」

 うわぁ……。

 ガチ切れしちゃったぞ、これ。

 ワイはこういう具合に、正面切って女人にケンケン来られるのが苦手なんじゃが。参ったな。謝ったほうがええんか……?

「……ああ、いやちょい待って。わかったワイが悪かった。お前は歴とした修行中の神使なんやな。はえ~、なるほどねぇ」

「そうよ! そんであんたは妖怪!」

「うぐっ……」

「兎。この丹吉は化け狸ですが、神使候補でもあります。我々の弁才天がそう任じたので」

「えっ……、まじー? ……ふーん、変わってるんだね、あんたたちの主様……」

「まあ、そうですね。それは否定できません」

 兎は怪訝そうにワイをじろじろ見上げる。

 まあええ、とりあえずお互いの素性はわかった。モノノケの類でないのなら、こっちに用はない。下手に関わり合いになるとややこしい。

 ワイは立ち上がり、ストールを直して尻をはたいた。

「ええと。ほな、ワイらはこれで……」

「……待って。ここで会ったのも大国主様の思し召しかも知れないし、お願いがあるんだけど」

「えぇ……」

「あんたじゃないから。ねえ蛇くん、ちょっといい?」

「何ですか」

「蛇くんは、忘術って使える?」

「使えますね」

「おー。じゃあちょっと、このケント君にお願いできるかな……? 最後にお別れがしたくって」

 

 ――人間は、幼い時分の記憶をのちのちに書き換えてしまうものだ。

 あり得ぬところにあり得ぬものを見たり、動かぬはずのものが動いたり、あるいは動物が喋ったり、という怪異に遭遇したとしても、大人になる頃にはそれらを夢か、空想の産物だったと思い込んでしまう。

 勿論本当に、単なる夢想に過ぎなかったパターンもあろう。

 しかし全部がそうではない。

 淡い、半透明な思い出としてのみ残ることを許された、真実の記憶もある。

「……お前もそのつもりで、この坊主に話しかけてたんじゃないのか。わざわざ忘れさせなくても、夢か現か、フワッとさせておいてやればいいじゃないか」

「勿論そのつもり。今までもずっとそうして来たし。……でもね、ケント君とはヨチヨチ歩きの頃からの付き合いだから、きちんとさよならが言いたいの」

 きちんとって? と、ワイが訊ねかけた瞬間、兎の身体が淡雪の如き白光に包まれた。

 フワフワの冬毛が輝く粉になり、彼女の姿を包む。広がる。

 そしてそれらがパアッ、と散ったあとに――。

 ひとりの女人が佇んでいる。

 長い黒髪に真っ白な肌。目の前の男児とおそろいの服。

 微笑む口元からは八重歯が覗いている。

 わあ……、と男児が小さな息を漏らすのが聞こえた。

「――ケント君。今までどうもありがとう。お迎えが来ちゃったから、あたしは月へ帰ります」

「……ママ? バニーちゃんが、僕のママだったの?」

 何?

 いや……、そういう事か。

 この子には――。

「離れていても、ずっとケント君のことを思ってるからね。立派な大人になってね」

「ママ……」

 やがてどちらからともなく、ふたりはギュッと抱き合う。

 幼い身体の中に圧倒的な安堵の波紋が広がってゆくのが見える。

 それは薄暗いトンネルの中を満たし、何もかもを呑み込み、師走の冷気を退かせる。

 

 時間が止まり、粉雪が舞う――。

 

       *

 

 兎に手を引かれ、男児はふれあいコーナーまで帰って行った。

 そこで蛇の忘術が起動し、子供の記憶からトンネル内での出来事が消失する。

 男児は少しポカンとした顔で、そのまま真っすぐ歩いてゆく。

 

 よほど捜し回っていたのだろう。男児の姿に気づいた祖父は、額にびっしりと汗を浮かべたまま、半泣きで彼を抱き寄せた。職員らもホッとした様子で胸を撫で下ろしている。

 兎はそんな様子を、少し離れたところから見つめている。

「……どうもありがと、蛇くん。やっぱあたしも忘術覚えよっかなぁ」

「神使ってのは、なんつーかこう、それぞれ使える術とそうでない術があるんか」

「うん。あたしこう見えて武闘派だから、人間の心に入る術はあんまり勉強してなくてさ」

「はえ~」

「狸さんも神使になるんだったら、色んな勉強したほうがいいよ。どんなお役目が来ても応えられるように。すいません出来ません、じゃカッコ悪いでしょ」

「なるほどなぁ……」

 ワイは素直に感心した。

 若干、毒気を抜かれてしまったような気分。

 この兎は兎なりに、たとえそれが脇道であったとしても、神使としての在りようを全うしようとしているのだろう。

 その行いが、人の記憶に残るかどうかは問題ではない。

 それが確かにあったという事実のみが、本質なのだ。

 ワイととち子の、あの夜のように。


 ――さて、と兎は片足を上げて小さく回る。黒髪が波を打つ。

「あたしもこれで、こことオサラバだから。とりあえず、あなたたちの山に連れてってよ」

「はっ?」

「もう疲れちゃったんだ、正直。二十年もあっちこっち回ってるとさ。丁度いいから、しばらく、狸さんの傍にいることにする」

 悪戯っぽく笑い、兎はスタスタと、動物園出口に向かって歩き始めた。

 歩幅が広い。後ろ姿に迷いがない。

 ワイは動揺し、小走りにそのあとを追う。

「いや、わからん。待て。何を言うとるんじゃお前は。あんな小さい山に、神使が三匹も住めるかよ」

「丹吉は神使〈候補〉ね」

「蛇は黙れ」

「……フフッ。どうしてだか、わかんない?」

「わからん。わかるかよ、そんな急に言われて」

 ニッ、と八重歯を見せて笑う兎。

 無邪気な笑顔だが、ワイはその瞬間、嫌な予感がした。

「……あたしの修行の眼目はね、妖怪を退治して帰ること。でも出雲から石見、安芸、備後に備中に備前に、讃岐に阿波――どこへ行っても妖怪なんて、一匹もいなかった。二十年もの間探し回って、どこにも。いよいよ諦めかけてたそんなあたしの前に、今日、あなたが現れた」

「…………」

「化け狸は妖怪。あなたが神使候補の資格を失えば、その瞬間、妖怪に戻る」

「つっ……、つまりお前は、ワイが何かしくじってお山をクビになった瞬間――」

「――殺す。そしたらあたしは、晴れて大国主様の元へ帰れるじゃん!? イエーイ!」

 いやいや……。

 いやいやいやいやいや。

 なんて恐ろしいことを言い出すんだコイツは。

 何やら腹に一物ありそうな女だとは思ったが、まさかワイの首を狙うのか。

 マジで?

「マジだお。付け狙うお。おっおっ」

 おっおっおっ、とふざけた手振りで踊りながら、クルクル回る兎。

 とんでもないことになった。

 どうしよう。また睾岩に封印されるというならまだしも、死ぬのは流石に。

「いや……。これは案外、願ってもないことかも知れません。兎の戦闘能力はおそらく丹吉と互角か、それより上。不意を突かれれば丹吉に勝ち目はない。命懸けとなれば、もう少し真面目に、お勤めを果たそうという気になるんじゃないですか」

 蛇、冷静に分析するのやめろ。

 くそっ、くそっくそっ。


 からりと晴れた空の下、車一台通らない田舎の県道。

 悠々と空を舞う鳶からは、ひと組の男女が動物園デートを終えて帰ってゆくように見えるかも知れないが。その実はたった今、とんでもなく恐ろしい構図が描かれようとしている――。

「待て、待ってくれ兎。妖怪がどこにもいない、って言った……?」

「いないよ。少なくともこの国にいるのは多分、狸さんだけだよ」

 頭が混乱する。

 ワイは、妖怪退治が与えられたお役目。

 それが果たせなければ本当の神使にはなれない。

 プチ弁天が業を煮やして妖怪探しを諦め、ワイを解任した瞬間、同じく妖怪退治が目的のこの兎がワイを殺す。

 殺されたくなければ、妖怪を探すしかない。

 しかし妖怪はもういない、と兎は言う。

 即ち。

 

「……詰み!!」

 ワイはその場でブリッジし、泡を吹いた。

 きゃっ、と兎が飛びのいた。



※続きは書籍『丹吉』でお楽しみください。

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丹吉 松村進吉/小説 野性時代 @yasei-jidai

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