丹吉

松村進吉/小説 野性時代

【其ノ一 (1)】

其ノ一


 これは令和の御世における最新版の、〈阿波の狸の物語〉である。

 つまり、憎まれ役のおとぼけダヌキが他の畜生どもに一杯食わされて半泣きになったり、あるいは丁髷の連中が勝手に右往左往して「成る程! あれもこれもタヌキの仕業也」と独り合点した挙句こちらに全責任をなすりつけて終わる類の所謂〈昔話〉ではなく、いわば〈今様話〉。

 現代に蘇った畏怖すべき「真の化け狸」が、その鬼神の如き猛き術と、観音めいた深甚なる智慧でもって現代人を救い、癒し、絶大なる愛慕礼賛を集めた末、「金長」なんぞは屁でもない、豪華絢爛スペクタキュラーな祠に祀られてハッピー・エンドとなるものでなければならない。

 よろしいか。

 必ず、そうでなければならんのです。

 この点だけは最初にハッキリと申し上げておきます。

 何故ゆえにと申せばこの物語が他ならぬ、このワイを、主役として語られるものであるからであります。


 ――ワイの名前は、丹吉狸。

 仔狸の時分は「赤殿中」などと呼ばれていたこともあったけれど、それはホントに物心がつくかつかぬかという小僧の頃の話であって、もうその名では呼ばないで頂きたい。恥ずかしいから。

 長じて盛りがついてからは阿波の全域をその活動範囲とし、昨日はあそこの寺の尼、今日はこの村の後家といった具合に、国中の豊満なる女体を巡る、ちょっとエッチな大冒険を繰り広げておった訳だけれども、悲しくも避けがたいケアレスミスから地元の男衆に捕まり、死ぬ寸前まで棒で殴られた末、陰嚢の形をした卑猥な岩石の中へ封じられてしまったという次第である。

 大体において、モテない男というのは暴力的でいけない。

 そんなんだから夜這いを掛けても断られるのだ。そうでしょう。

 ワイちゃんがお相手してもらった女人らは、皆驚きこそすれ自ら布団を開いてくれた者に限られておるのだから、あんな風にタコ殴りにされる謂れはどこにもありませんでした。全部大人同士の諒解に基づいた、割り切った大人の関係だったのです。わかりますよね。

 なのに何だ。ワイが狸だから、殴ってええとでも言うんか。

 くそっ、ふざけやがって……。

 ほんま噛んだろか。尻。

 ……あっ、話が逸れましたね。まあええわ、とにかくそんなような歴史があって、ワイは現在、地元の粗末な祠に押し込まれておる訳です――。

 

 四国は徳島県徳島市方上 町に、弁天山という山がある。

 この山は田んぼの真ん中みたいなところにポツン、と置いたような恰好で鎮座する小山――というか、岩……? 岩だよなぁこれは……。

 一応山とは名乗っているけれども、正直これを山って言うてええんかというレベルの山であって、その標高は実に六・一メートル。

 ……フフッ。

 あっ、ごめん笑っちゃった。

 笑ったら怒るんよ、ここの弁天。今は留守ですけど。

 これはもう当然「日本一低い山」ということになるのだが、当の弁天に言わせれば、

「あんな、何べんでも言うけど、もっともっと小さい天保山ちゃんや、日和山ちゃんがおるけん! あの子らのほうが小さいけん……!」

 と、いうことらしい。

 しかし実際のところそれらはどちらも築山で、人間に喩えるなら小さな童がぬいぐるみを持ち出し、妹呼ばわりしているようなものではないだろうか。哀れな話だ。

 フフッ。フフフッ……。

 ともあれ斯様な場所ではありながら、地元の人間どもにはそれなりに愛着を持たれているようであり、毎朝必ず何人かの参拝者が訪れては小さな弁才天の社を拝んでゆく。

 そう、僅か三十秒で登頂できてしまう猫の額ほどの山頂には、一丁前に嚴島神社を勧請した神社があって――更に参拝者のうち何人かは、境内の隅に間借りしておるこのワイが封じられた祠にも、ついでに手を合わせていってくれる。

 有難いことである。

 それが単に毎日の習慣の一部に過ぎないものだとしても、人間が来てくれるのは嬉しい。

 悲しいことにワイは、暇だからだ。目の前でちょうちょが踊ったりカマキリが喧嘩したりするのを必死で見物してしまうくらい、めちゃくちゃに暇を持て余しているからだ。

 ましてや肉体を失い、単なる妙な形の石になってしまったこの身体を、ひと撫でしてもらえるとなれば尚更のこと。

 ――秋空も高く広がる、朝七時。

 今、扉がないものだから常にオープンな祠の中にこっそり手を入れ、ご神体であるワイをさらりと触ってから手を合わせた、この女。

 ひっつめの黒髪に、涼しげな目元。白いブラウス。

 地元のお百姓さんの娘で、今年の春、三十七歳になった。

 名前を松浦とち子という。

 

(……やだなぁ。どうして女だからって我慢させられるんだろう。つらいなぁ……)


 彼女の心の声が聞こえる。

 端的に言って、筒抜けである。

 これは別にワイが盗み聞きを働いている訳ではない。

 とち子は柳腰でクールな感じの女だから、正直まったくワイの陰嚢には響かない。

 そういった話ではなしに、神域では、その身を清めて真摯に手を合わせれば、誰でも多少なりとこちら側と交信めいたことが可能になる。しかもとち子の場合は年に三百日以上ここを訪れてはその度にワイを撫で、たっぷり数分手を合わせてゆくという、ガチ勢も唸らざるを得ない接触を、実に三十年以上続けている。

 となれば、この祠を通じて開いたワイと彼女とのパイプが、最早通じる通じないの次元ではなく強固な「結びつき」とも言えるものに育つのは必定で、彼女の見聞きするもの全てが、望むと望まざるとにかかわらず次から次にワイの中にとめどなく流入してくるため、ワイはこの女人を通して、今の世を知ることになった。

 今の人間。今の社会。今の日本。

 とち子が学んだことを、ワイも学んだ。

 とち子が読んだ本や閲覧したウェブページ、SNS。遊んだゲームに、観た映画。その他全て。

 であるからして、年季の入った無慈悲な化け狸である筈のワイの意識が、まあ若干、平成、そして令和風味にアップデートされてしまったのも、これは致し方ないところと言えよう。別に歳を食って丸くなったとか、精力減退と共に日和っただとかいう話ではないので、そこのところについては誤解なきようお願いしておく。ワイは今でも阿波の国の化け狸、鬼神の如き猛き術と――おっと。

 まだ何か言ってるぞ……。

 

(……仕事に行きたくない。仕事はすき。たのしい。でもあの男に、またあんな目で見られたくない。鎧を着て行きたい。甲冑姿で仕事をしたい。つらい……)


 ふーむ……。

 これは例の、固太りの件だな。

 仕事の取引先の担当者があいつになってから、元々薄かったとち子の化粧がほとんど粉をはたいただけというか、パウダーをのせただけの質素なものに変わっている。

 でもとち子は薄いほうが似合うから、これはこれでええんちゃうかなとワイは思う。

 あんな羆の出来損ないみたいな奴のことで、気分を沈ませんでよろしい。お前のその鋭い目でひと睨みしたったらええんじゃ。そしたら大概の奴は萎え萎えの冷え冷えで、セクハラどころでは――。

 

(……嗚呼。また帝釈天騎象像に会いたい。広目天を見上げて拝みたい。仏像に囲まれて生活したい。生活したいんです……)

 

 ……あ、うん。

 そういうのはね、ここで拝みながら思わなくていいから。下山してから考えてね。というか君、今更ですけど、ワイを何だと思って拝んでるんですか……?

 神様だと思ってたらそんなお願い、多分しないんじゃない?

 チッ……、もうええわ。ホラ、そろそろバスの時間だぞ。仕事に行きな――と、ワイが彼女には聞こえぬ声なき声で呟いた、その時。

 北西の空からひと流れの彩雲が棚引き、こぢんまりした本殿とこの山頂に、柔らかな光を落とした。とち子は背に温かさを感じ、ふっと表情を緩ませて顔を上げたようである。心地よかったのだろう。

 が、ワイはその光条の中をふよふよと降下してくるこの山のヌシの姿に、いささかの不穏な予感を覚えて身じろぎした。

 コトコト。

「……あ~、もう宴会は終わったんか? 今年はなんか、元号が変わったせいで神様連中も皆相談せなあかんことが多くて忙しいとか、言うてなかったっけ?」

「うるさい。ちょっと黙っとって」

 赤と白の衣をまとい、ウクレレみたいなサイズの琵琶を持った小さな弁才天は、ほっぺたをぷっくり膨らませて何やらワナワナ震えながら本殿の中へ吸い込まれて消えた。

 なんという愛想の悪さであろうか。折角とち子が来ているのに。

 背恰好が童なら、中身も童に似るのかも知れない。イヤイヤ期かも知れない。

 とち子は小学生の頃、この山の弁才天を「小さくてかわいい山だから、ここの弁天さまもプチ弁天さまだね」と評したことがある。以来、ワイも彼女をプチ弁天と呼んでいるが、本人からはやや不評のようだ。

 悪くはないと思うんやけどな。……あかんか?

 ワイが更にコトコトコトと揺れたので、とち子は小首を傾げてからまたこの身体をひと撫でしてくれた後、「いってきます」と囁き、参道を下りて行った。


        *

 

 毎年旧暦十月には出雲で神様の会議があって、日本中のほとんどの神様がそこへ集まるらしいと、この国の人間たちは無邪気に信じているようだが、それは事実である。

 彼らは本当に毎年、十一月中旬、島根県出雲市大社町杵築東195の出雲大社に集合している。

 遠路はるばる雲に乗り、全国各地からわざわざ出向いて顔をそろえる以上は、そこでなにがしかの儀式と談合が行われているのは間違いない。一説によれば全国の男女のマッチングサービス的なアレをしているとも、あるいは単に飲めや歌えの大宴会をしているとも、はたまた表ヅラは鷹揚に構えつつ御身のご威光ご霊験を競い合い比べ合い、いつ終わるとも知れぬマウンティング合戦を繰り広げているとも言う――。

 実際のところどうなのかについてはまぁ、未来永劫招待状が届く予定もない畜生のワイなどには知る由もない話であるから、想像で語るしかないだろう。

 なのでここからはワイちゃんの空想による、令和元年出雲におけるプチ弁天の、受難のひと幕となる。

 

「――莫迦にせんといてもらえますか! あたしやって、御使いの一匹や二匹おります!」

 ガチャン、と荒々しく置かれた盆の上で徳利が鳴った。

 無辺の広さの座敷のそこかしこで、さわさわと静かに交わされていた神々の会話が、その瞬間ぴたりと止む。

 幼稚園生くらいの形をしながらも、とたとたと神々の間を走り回って懸命に仲居のような雑事をこなしていたプチ弁天だったが、今は座敷の中央で仁王立ちになっている。

 これは彼女が座敷の中心で叫んだからではない。無限の広がりをもつ座敷に三次元的な意味合いでの中心はない。つまりは生身の人間なら即死&消滅しかねない強度の神々の視線が一斉に、彼女の身に集中したため、そこが今この時、この空間のセンターとして設定されたのだと認識して頂くのが良いかと思う。

 真っ青になって慌てふためく、見目麗しい他社の弁才天ら。こうなってしまうとプチ弁天に近づくことはすなわち神々の視線を遮ることになり、その目を塞ぐという意味を生じさせてしまう。遥か上位の神階の神々もおわすこの場において、おいそれと為すべき不敬ではない。

 プチ弁天の握りしめた拳が震えているのは、怒りゆえか。それとも怯えか。

 そんな彼女の様子を見下ろしつつ、千年経っても糸すじほども変わらぬであろう微笑みを浮かべた豊宇気毘売神が、絹のような光を零しながら口を開いた。

「あらあら、堪忍しとくれやす。貴女はんを阿呆にしたつもりはないのんよ。そら小そうても立派な弁才天様でいてはりますもんなぁ。貴女はんに似てかいらしい、お蛇さんをお使いなんですやろなぁ」

 この言葉で、座敷に存在する全徳利の内部に不老長寿の霊酒が出現し、ザバザバとあふれ出した。どこかの髭ヅラの神様が驚き「おっとっと」と、大喜びでそれを啜っている。

 一方プチ弁天は、丸い顎を戦慄かせてはいるが、気丈にもその場を下がらない。

 よほど腹に据えかねた様子である。

「あたしの蛇は、とてもよく目が見えます。物覚えもいいです。あたしの代わりに、色んなところへ行ってきちんと報告をしてくれます」

「ええ、ええ。きっとそうなんどすなぁ。貴女はんに似て几帳面なお蛇さんで、偉いわ」

 酒が湧き、「おっとっと」とまた口をつける髭。

「……そら、うちの子はまだ小さいから、悪い妖怪が出ても退治したりはでけません。そういう時は、もっと育った蛇をお連れのお姉さまに頼むか、近くの山の天狗さんに頼むかしています」

「まあ、まあ。それはよろしおすなぁ。皆が貴女はんを助けてあげたい思てくれてはんねやね」

「おっとっと」

「ほなけんど、あたしも、これでも弁才天なんです。やっぱり自分の霊験で村の人たちを助けてあげたいと思って、どりょくしよんです」

「あらー、そうなんやねぇ」

「おっとっと」

「がんばんりょんです」

「あらー、ええ、ええ」

「おっとっと」

 うっ、うっうっ、とプチ弁天の大きな眼に、透き通った涙が膨れ上がる。

 その時、彼女の肩に後ろからポン、と手が置かれた。

 一帯に甘い蓮の花の香りが漂う。

 近辺におわした何柱かの男神が、あからさまに鼻の下を伸ばしたので、ムッと眉を顰めた女性の神々もあった。

「……あんたが頑張っとんのは、うちもよう知っとるけえ」

「……大姉さま」

 背後に立っていたのは安芸国一の宮、嚴島神社の弁才天。他ならぬ、プチ弁天の勧請元である。

 この関係性はここでは、母に近い姉のようなものだと思ってもらってよかろう。

 艶美な半眼の麗しさは、高天原が誇るかの天宇受賣命にも引けを取らない。

 豊かな黒髪を螺鈿の簪で留め上げ、紅白の薄衣は出るところが出たグラマラスな肢体に、あるところは張り付き、あるところは甘い風をはらんで膨らみ、ちょっとやりすぎではないかというくらい強調している。

 世の男という男をバブみに狂わせかねない、美しくも凜々しい顔つき。

 大姉の声を聴き、ボロボロボロッ、と零れた涙が座敷の青畳を濡らした。そのまま振り向いてしがみつくのかと思いきや、しかしプチ弁天は尚も、古き大神を見上げる姿勢を崩さなかった。

「……あたしは。あたしはこれでも、一人前の」

「もうやめんちゃい。わかっとるわかっとる。ちーと、天女様の言葉にけんがあるような気がしたんじゃの? あんたのそがいな性根はあたし譲りじゃけえ、しようがない」

 アッハッハ、と大らかに笑って見せる嚴島弁才天――だがその言葉で、ひくり、と豊宇気毘賣神の眉が揺れたのに気づいた神は、少なくなかった。

 プチ弁天の頭を撫でながら、ぺこり、と嚴島弁才天は頭を下げた。

「そがいな感じで、すまん。子供の言うことじゃ思うて、堪忍しちゃってつかぁさい」

 ほいなら、とふたりの弁天は五色の輝きを残しながらゆっくりと背を向け、歩き出す。

 婉然と揺れる嚴島弁才天の尻に、思わずポカンと口を開けてしまった何柱かの男神が、女性の神々から忌まわしげな目を向けられていた。

 残された豊宇気毘賣神はややあってから、ひらひらと衣をはためかせ背中を向ける。そして成り行きを見守っていた神々に、「あら、どないかしはりましたか」とでも問うような鷹揚な態度で首を傾けた。

 固唾をのんで見守っていた神々の間から、ほっ、と安堵の息がいくつか聞こえた。

 豊宇気毘賣神は微笑みのまま、優美に指先を動かし、神々の膳にあらためて沢山の神饌を生み出し、宴を再開させた。

 すると、彼女の足元に控えていた真っ白な狐がケンッ、とひと声鳴いた。

「……ふふっ。せやねえ。おまえは私が生んだ穀物より、自分で捕まえてくるくちなわの方が好物やったかしら。もうちょっとだけ我慢しよし。神議りが済んでお国に帰ったら、好きなだけ獲ったらええわ」

 日本生え抜きの古神らの、控えめな追従笑いが漏れた。

 ――ぴたり、とふたりの弁天の足が止まる。振り返りはしない。

 あからさまな当てこすりではあったが、先に挑発したのは嚴島弁才天のほうである。

 真偽のほどは不明ながらも、かつて豊宇気毘賣神が地上で水浴中に羽衣を隠されたという噂は日本国中の神々も知るところであるし、そうでなくても伊邪那美命の直系を「天女」呼ばわりできる度胸の神は、めったにいなかった。

 この弁才天、生半可な神将などより遥かに肝が太い。

「……ケッ。イキりくさって、たいぎい奴じゃ」

「大姉さま、ごめんなさい。あたしが盾突いたけん……」

「あんたはなんも悪うない。気にせんでええよ。うちは前々から、あいつのことが好かん」

「…………」

 自分にもっと、力があれば――。

 本当に一人前の弁才天として、自由自在に神使を使役し、氏子の人たちを助けてあげられていたら。プチ弁天はうつむいたまま、ぎゅっ、と唇を引き結ぶ。

 

 ――座敷のどこかで、「げえっ、酒が小便になっちゅうがや」と騒ぎ始めた髭を、他の神様がぽかりと殴って黙らせた。

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