【其ノ一 (2)】


        *


「という訳で、あんたにはこれからあたしの御使いとして、世のため人のために働いてもらうことにしたけん」

「……ええっ!? ワイがですか!?」

「あんたは、まあどうしょうもない下品な性悪狸やけんど、一応四つ足がついとるんやけん、あたしの蛇にはできんこともできるはず。これからはあたしとあんたで、この阿波の国の平和を守っていくんじょ」

「……ええっ!? 徳島全域をですか!?」

「……なに。なんか気にいらんのん?」

「いや。別に……」

「なんかあんた、さっきからわざとらしぃない? イラッとするんやけど……」

「…………」

 大方予想もついていた展開の中で、驚いて見せるのは苦労する。

 ワイは化け狸ながら、演技が苦手なのである。

「とにかく豊宇気毘賣神さまのところの狐に負けんぐらい、頑張ってもらいたいんよ。わかった? こう、次から次へと現れる妖怪変化を、獅子奮迅の活躍でちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」

「うん。要は〈鬼太郎〉や〈うしとら〉みたいな感じをイメージしとるんやね。それはわかりました――けどなプチ弁天、流石に今の時代、そんなアクティブな活動する妖怪はおいそれと出現せんと思うよ」

「……いいや、おる! 学校帰りの童らが、鬼やら、妖怪やらの噂をしておったもん」

「それこそテレビとか漫画の話と違うか、常識的に考えて……」

「もぉーっ、うるさい! 近場におらんのだったら、国中回って探してきて!」

「ハハッ。探すってお前、こんな岩の中におる身でどないして探せって――」

 ピカー、と突然弁天の身体が五色に光る。

 のんびりウロコ雲が浮かんでいた秋の空に彩雲が走り、彼女の絹の衣の内側で、どことなく烏賊じみた幼児体型が透けて見えた気がしたがワイはロリコンではないので全然ピンと来なかった。

 はえ~……、とワイが形而上の口をぽかんと開けて見つめていると、目の前の光り輝く幼女から、ほんのりと甘い若花の香りがした。

「……あれっ? 香りがする。お前の匂いが、あっ」

 ワイの鼻が。ヒクヒク。

 顔が。手足が。身体が。ブルルッ。


 ――ある。

 ワイは徳島県徳島市方上町弁天山の山頂で、再び、この世に受肉していた。

 茶色い毛皮に黒い隈取。太い尾。

 そうだ、これが本来の姿。ワイは決してキンタマ岩なんかではない。

 狸。阿波の国の、化け狸なんじゃ――。

 

「……ああっ、アオオオオーッ!!」

 興奮し、両の眼を爛々と燃やし、遠吠えを上げながら思わず二足立ちになった次の瞬間、ワイの胴回りでビリビリビリビリッとけたたましい音を響かせて真っ赤な布地が裂けた。

 着ていた殿中が破れたのである。

「ゲエエエーッ!!」

 ショックのあまり、ワイはその場にうずくまる。

 まずい。大切な殿中が。

 ああっ……。

「……えっ、狸、だいじょうぶ? あたしのせい?」

 輝きをやめた弁天は、少し驚いた顔でふよふよとワイの周りを漂った。

 封印の解き方に何か手違いがあったかと思ったのだろう。

「いや……、お前は悪くない。ワイのせいじゃ。石の中におった百数十年の間に、この身体はすっかり豚も同然になってしもうておった……。復活の日に備えて精神的な鍛練を怠らなければ、こうはならんかった。嗚呼どうしよう、ワイの殿中が。殿中が……」

 びゅうう、と冷たい風がワイの四つ足の間を抜けてゆく。

 だめだ。ぼろぼろの中綿もその風に巻かれて飛んでゆく。

 これは、あの女人につくろってもらった、ワイの命より大事な。

 大事な、大事な。

「――昔の人間は、使えなくなった衣類を仕立て直して、布地が擦り切れるまで使っていました。丹吉もそうすれば良いのでは」

 にょろりと草陰から顔を出し、そうアドバイスしたのは小さな黒い蛇。

 プチ弁天の神使である。一見すると標準的なサイズのカラスヘビにしか見えない。

「蛇。仕立て直すってお前、簡単に言うけどな……。こんな、大規模神社の社務所より小さいような山で、どうやって裁縫道具やらなにやらを――」

「道具があっても丹吉には無理でしょうね。とち子に縫ってもらえば良い」

「……えっ?」 


        *


 ――はい。そしてワイは今、方上町某所にある松浦家の前まで来ています。

 こちらはとち子の実家であり、とち子は農業を営む両親と祖母の四人で暮らしています。

 なんとなく興奮しますね。

 こんな風に夕暮れ時に、草むらの陰から人の家を覗くってのはね。ヒヒッ。

「最初から気になっていたんですが、どうしてちょくちょく敬語になるんですか。何か不安なんですか」 

「えっ。お前も第四の壁を破れるのか」

「はい――まあ、俺は丹吉のお目付け役みたいなポジションかと思われたので、丹吉が破ってるのを見て、破りました」

「嘘だろ、そんな簡単に……。えっ、ていうかお前は俺のお目付け役なの?」

「俺たち神使は自らの修行の時か、何かお役目がある時でもなければ、山を離れませんからね。ここについて来ているということは、そういうことです」

「あ、そう……」

 なんか邪魔だなあ。

 急に出てきてなんだコイツ。

 チロチロ舌出しやがって、何を嗅いでるんだ。

「プチ弁天は、現状の丹吉では使いものにならないと判断してとりあえず一度だけ、人間に化けることを許可しました。なのでうまいこと言ってとち子にその襤褸布を渡し、仕立て直してもらって下さい。失敗した場合は計画を全部白紙にし、丹吉を岩石に戻した後、俺を嚴島神社へ修行に出すそうです」

「待て、なんだその話。アイツそんなこと言ってたか?」

「今言ってます。山頂で」

「あっ、なるほどお前アイツと通信できるんだね」

「はい。神使なので」

「あ、そう……」

「チロチロ舌を出すのは只の癖です。蛇なので」

「あ、はい……」

 なんだこれ、めちゃくちゃやりにくいな……。

 くそっ、まあええか……。

 とち子の帰宅時間はおおよそ把握している。

 今日はどうやら、取引先との慰労会という名の飲み会に出席しているようなので、帰ってくるのは早くとも二時間ばかり先だろう。

 ワイは仕方なく蛇を相手に、ワイの全盛期の武勇伝をあれやこれやと語って聞かせた。

 酒を飲んで術にかかりやすくなった村人を狙い、ひと晩中牛小屋の周りを歩き回らせ、モウモウ牛を鳴かせたこと。

 土産の葬式饅頭を、馬糞と入れ替えて頂戴したこと。

 そしてワイ好みのとある後家を手籠めにしようとした若旦那を、肥溜めに叩き落として殺したこと――。

「――それは駄目ですね。丹吉、アウトです」

「アウトってお前、だって相手は強姦未遂犯だぞ。殺してもいいだろ別に」

「殺しは忌事です。もし丹吉がプチ弁天の神使という立場になり、その上で殺人を犯したとしたら、丹吉の居場所はこの世にもあの世にも無くなるでしょう」

「……怖っ、なにそれ。どういう意味?」

「言葉どおりの意味です。丹吉は消えて無くなる。悪堕ちすら許されず、消滅させられるでしょうね」

 ワイの背筋の毛がモワモワと逆立った。

 消滅とは。

「成仏とかとは違うよね?」

「成仏と聞き間違える要素がありましたか?」

「ありませんでした」

「はい」

「はい」

「それくらい、神の理というのは厳格なものなんです。その時は諦めてね」

 チロチロ、と舌を出す蛇。

 ちょっとなんだか、想像以上にヤバい仕事のような気がしてきたワイであるが、今更やめますと言っても石に戻されるだけである。久しぶりに踏みしめる大地の感触はこの上なく確かで、やっとこの世に戻って来られたのだという実感を、肉球ごしに伝えてくれる。

 青臭い草花の匂いも、髭をそよがせる秋風も、そして昔と変わらずちまちまあくせく暮らしている人間たちの姿も、全部が全部ワイにとってのかけがえのない現実だ。

 二度と失いたくない。

「……わかった。努力するよ」

 そう答えるしかあるまい。

 蛇はクリクリした目でワイを見上げ、ちょっと何かを考えていた様子だったがすぐにまた、松浦家に視線を戻した。

 ――とち子が救難の祈念を発したのは、その時であった。

 

(嫌です。ホント無理なんで、帰らせて下さい。帰ります、私)

(気持ち悪いんですあなたの目が。性的な対象として見られてること自体が、耐えられないんです)

(これって完全にパワハラのセクハラじゃない? 訴えたら勝てる? でも裁判なんか起こしてあの職場にいられる? 私の味方をしてくれる人がこの会社にいる? みんなどこ行っちゃったの? どうしてコイツと私をふたりきりにしたの?)

(ああ無理無理無理、くさい。駄目。お願い、死んで……。死んで……)


 これらは全て、心の声である。

 口頭では「あー、いや流石に三軒目はちょっと……。帰ってやんなきゃいけない仕事も残ってるんで……」と、努めて事務的な態度を装いながら、その場を切り抜けようとしている。ワイととち子との間に通じるパイプの向こうに、それが見える。

 しかし彼女は酒を飲まされすぎたようだ。表情と裏腹に足元がおぼつかない。

 相手の男はそれを狡猾に見抜いている。

 飲み屋の灯りも少ない、繁華街の路地。

 一緒に帰る筈だった同僚はいつの間にか消えてしまって、とち子は男とふたりきり。 

「さっきの角を曲がる前に、同僚の女どもは別の男性社員に誘導され、違う店に入った。こいつは仲間の協力を得ての、計画的な犯行だ」

「……犯行?」

「この男は、今夜、とち子を手籠めにするつもりなんだ」


(ずっと手握って引っ張ってるんだけど、これって暴行じゃない? 警察呼ぶ?)

(……でも酔っぱらってたからって、酒の席でのことだからって、いつもみたいに笑ってごまかされるんだ、どうせ。こっちが神経質な被害妄想患者みたいに言われるんだ)

(昭和かよ)

(ああ……。どうしよう。もう面倒だなホントに)

(何もかも面倒)

(死にたい)

(面倒)

(……こいつ、一回させてやれば、それで納得するのかなぁ……)


「駄目に決まってんだろ莫迦!!」

 ワイは襤褸布を咥えたまま草むらを飛び出し、風神の如き勢いで国道を駆け出した。


        *

 

 薄の原に鎌鼬が舞い、スパスパ穂を刈り取る。

 ビュンッ、とすれ違う車の運転手がワイの姿に驚き、目を丸くしたのが一瞬見える。

 糞田舎に吹く真っ黒な夜風を切って、ワイは走る。

「……丹吉。落ち着いてください。どこへ行くつもりですか」

「ふぐぐ……。とち子のところだよ! 当たり前のこと訊くな!」

「行ってどうするんですか。丹吉はまだ神使ではない、勝手な行動は許されない」

「神使じゃないから勝手に行動するんだろうが! とち子にこの殿中を縫わせるまでは、ワイはまだ、首輪のない一匹の化け狸なんだろ? 違うか!?」

「……なるほど、確かに。とんちが利きますね」

 のんびりしたことを言いやがる。

 初速からMAXスピードで駆け出したにもかかわらず、蛇はちゃっかりワイの尻尾の付け根で輪になって絡みつき、ついて来ている。流石に並の蛇などよりは素早いらしい。

「しかし、もう少し速度を落としてもらわないと俺が落ちます。俺が丹吉を見失った瞬間、丹吉は神使候補の資格を失い、岩の中へ戻されます」

「マジかよクソッ」

 ワイは少し思案してから、道ばたの縁石に飛び上がりそれを踏み台にしてクルクルクルッ、と空中で三回転した。

「あっ……」

 と尻尾からすっぽ抜けた蛇が声を上げたが、ワイはそれを咥えて軽く振り、輪の形にしてそこへ首を突っ込んだ。

「蛇、自分の尾を噛め!」

「尾を」

 パクッ、と咄嗟に言われるがまま円環の形となった神使を、まさしく首輪のように太い首に嵌め、ワイは再び走り出す。

「なんちゅう屈辱的な……。自分でこんなもんを着けさされるとは」

「…………」

「……あっそうか、その恰好ならお前、喋られんな。ハハッ、こりゃいい」

 殿中ごと輪っかで留めてもらった状態なので、ワイのほうは犬歯にそれを引っかけておく必要もなくなり、喋りやすい。

 真っ赤な殿中の残骸をバタバタとマントのように翻しながら、ワイらはとち子の許へと急いだ。

 が――ほどなく。

「いかん。タクシーに乗りやがったぞ……」

 ワイはタタタタタッ、と速度を緩めることなく手近な電信柱を直角に駆け上がった。

 その天辺で、遥か彼方の街の光を見晴るかす。

「……プハッ。丹吉、落ち着いてください。車より速く走るなんて無茶だ。頸動脈の拍数が尋常じゃなくなってる。今の丹吉には肉体があるんです、無理をすると死にますよ」

「……どうせずっと死んでたようなもんだ。それにこれから先も、半分死んだような飼い狸の一生を送ることになる。ワイが、ワイの意志で自由に駆けられるのは、今宵限りよ」

「なるほど。確かに、丹吉のこれからに自由はないですね」

「……ちょっと今、目の前が暗くなったかな。まあええけど」

 吹きっ曝しの電柱の上にワイは立つ。

 二足立ちである。

 そのまま夜空に目を凝らして風がくるのを待ち、ほどなくパシッ、と宙を掴んだ。

「……なんです?」

「変身アイテムだよ。……おっ、萵苣の木か。ええな」

 肉厚で丸々とした、虫食いもない落ち葉。その軸を爪先で抓み、くるくる回す。

 久々の高揚感を覚える。

「どうすっかなぁ……。この状況で人間に化けても、とち子を助けられるとは思えんしなぁ」

「人間ならまずこの電柱から降りられませんね」

「やっぱり、とち子の好きなものになって助けてやったほうが、アイツも喜ぶんと違うかなぁ」

「何か成りたいものがあるんですか」

「いや。特にこうというイメージがある訳ではないんじゃが……」

 あえて言うなら。

 幼子の頃から見守ってきたとち子が、今この瞬間に求めている救い主の姿は。

「……まあ大体、こんな感じだろう」


 ボッ、と両目に火が灯る。

 落ち葉を額にあて、霊験をフォーカスする。

 草木を通じて大地と繋がる。

 大地を通じて万物と繋がる。

 たとえそれが、束の間の幻だとしても――。


「変化……!」

 ぼふんッ!!

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