第18話
九月も半ばとなり、あと一週間もすれば小学校で体育大会が始まる土曜日に、淳美は露原家を訪れた。久しぶりにスパゲティ・デーを催そうと浩哉が言い出したからだ。言い出しっぺの法則としてちゃんと手伝うよう通達したところ、二つ返事で了承したので、今回は浩哉と二人で台所に立つことになったのだった。
「まあ、美味しい。家庭でも再現できるのね」
佳奈子が頬を押さえて、感嘆の声を漏らした。ちゃぶ台の向かいに座った淳美と浩哉は顔を見合わせて、「やったね」と小さく喜び合った。
二人が今回挑んだのは、
「佳奈子さんとこないだ行ったお店のスパゲティ、秋刀魚なんてスパゲティに合うの? って食べるまでは不思議で仕方なかったのに、すごく美味しかったですもんね。お店レベルにはなれなくても、美味しくできて嬉しい」
「それにしても、いいなぁ。あっちゃんと母さん、俺が大学に行ってる間に、二人でランチに行くなんて。俺を置いていくなんて酷いじゃん」
「仕方ないでしょ、学生の本分は勉強なんだから」
「俺の気持ちを分かってくれるのは、じーちゃんだけだよ。なあ?」
嘆かわしそうに言った浩哉が、同意を求めて振り返った。
和室の隅、真新しい仏壇の前に並べた小皿に、秋刀魚のスパゲティの赤がよく映える。遺影の菊次は、先々月の菊次より十歳は若いそうだが、淳美には違いが分からない。ただ、病に倒れる前よりは頬の輪郭がふっくらしていて、
「もっと、お世話をさせてほしかったのに」
「じーちゃん、秋刀魚を食べ損なったね。今頃は地団太を踏んで悔しがってるよ」
「そうだね。秋刀魚だけじゃなくて、もっといろいろ作ってあげたかったな」
秋の訪れを知らせる風が、窓から吹き抜けていく。凛、と幻の鈴の音が、夏の名残のように鳴った気がした。予後、予後、赤い予後。淳美の大切な存在が、瞳に映した夕焼け色。彼方に紺碧の海が見える窓の向こうを眺めていると、佳奈子が空いた食器を片づけ始めた。
「淳美ちゃん。一つ、謝らないといけないことがあるの」
「えっ、佳奈子さんも?」
淳美はぎくりとした。露原家の人々は、誰かに謝る時にはこういう前振りをすると決めているのだろうか。いったい何を言われるのかと身構えていると、佳奈子は遺影を振り返り、遠い目つきをした。
「淳美ちゃんがまだ小学生の時に、学校へ行かずにお義父さんの部屋に遊びに来ていたことがあったでしょう」
さらにぎくりとした淳美は、表情の作り方に困った。小学校の先生になってからその話題に触れられるのは、以前にも思ったがなかなか気まずいものがある。佳奈子はくすりと優しい笑い方をしてから、浩哉と同じ色の髪を耳にかけた。
「あの頃からお義父さんは、淳美ちゃんのことが本当に可愛くて仕方なかったのよ。ある時、食事の席で言っていたもの。儂はあの子のことを、もう一人の孫のように思っている、って」
「え……?」
――孫。思わず浩哉を見たが、とうに承知しているのか、肩を軽く竦めて笑うだけだ。夏空のように清々しい笑い方につられてか、佳奈子の微笑の寂しさが、ほんの少しだけ和らいだ。
「私はそれを聞いた時にね、いけませんよ、お義父さん、って窘めたの。淳美ちゃんは隣のおうちのお子さんなのよ、淳美ちゃんのご両親の耳に入ったら失礼ですよ、淳美ちゃんにも孫だなんて言わないでって、釘を刺してしまったの。私は、頭の固い人間なのかもしれないわね。ひょっとしたらお義父さんと淳美ちゃんには、寂しいことを言ったかもしれないって、それを悔いていたの」
佳奈子の打ち明け話の声が、遠い。淳美は熱に浮かされたみたいにぼんやりしたまま、仏壇の遺影を見つめた。菊次の声が、聞こえた気がした。
――じーちゃんが悪かった。じーちゃんが悪かった。
以前よりも日が傾く時間が少しだけ早くなった分、和室に入る西日が眩い。
「母さん、食器を片づけよう」
「ああ、そうね。淳美ちゃん、コーヒーを淹れてくるから待っててね」
浩哉の声で我に返ったのか、佳奈子が立ち上がった。浩哉も食器を盆に載せて立ち上がると、
長い夢の抜け殻のような白いベッドの枕のあたりを、淳美は一人で見下ろした。少しの勇気が必要だったが、浩哉が作ってくれた淳美と菊次のための時間をちゃんと大切にしたいから、すっと息を吸い込んで、初めて口にする呼び方で、小さな声で呼んでみた。
「ありがとう。大好き。おじいちゃん」
<了>
予後、夕焼け、スパゲティ 一初ゆずこ @yuzuko
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