カミサマ狂詩曲

長門拓

カミサマ狂詩曲(ラプソディ)

 私がそのカミサマと出会ったのは、真夏の昼下がりだった。カミサマは既に死んでからおよそ三十年が経っているという。きちんと供養されていたとしても、そろそろとむらい上げになる頃だ。女子中学生の私は生まれてから十四年が経っている。背丈は私とほぼ同じくらい。


「毎年、この季節になると何かを思い出しそうになる。それが私にとって幸福なことか、不幸なことかは問題ではない。私はどうしても思い出さなければならない。たとえそれが天地のことわりに逆らうことであっても」

 カミサマが深刻そうに言葉を紡いでる最中さなか、私は固すぎるバニラアイスと熱烈に格闘していた。駄菓子屋の軒下はひんやりと涼しく、店番の柴犬しばいぬが赤毛の体を怠惰に寝そべらせている。

「そうなんだ」

 私は生返事で返す。固くなりすぎたバニラアイスはもはや凶器の一種だ。三つ目の木製スプーンが折れたところで、私は怒りを込めて路地の向こう側に凶器を投げ捨てた。あり得ない金属音が夏にこだまし、犬の耳がピクリと動いた。

 カミサマは呆れた顔つきで託宣たくせんれる。

「……君、食べ物は粗末に扱ってはいけないよ。この瞬間も、世界には飢えた子どもたちが沢山いるんだ」

 知るか、と私は内心で独りごちた。

「じゃあ、あの固すぎるアイスを持ってってあげれば」

 やれやれ、とカミサマは肩をすくめる。首筋が驚くほどに白い。私の首筋が茶色に日焼けしてるのとは対照的だ。


 カミサマに性別はないという。見た目はどちらでも通りそうだが、私の眼には生意気な弟のようにも見える。あるいは高慢ちきな妹のようにも見える。もしくは兄のようでもあり、姉のようでもある。印象は固定することなくめまぐるしく浮動ふどうする。ただし黒髪は肩の辺りで美しく揃えてある。癖毛気味の私はそれを少し羨ましく思う。カミサマはしなやかな指で犬の背中をさすり、時々遠い目をしている。

「で、カミサマは何を思い出そうとしてるかを思い出そうとしてる、ということなの?」

 正直、あまり興味はない。この季節になると、カミサマは網戸を閉めても入ってくるぐらいうじゃうじゃいる。『える』のがうんざりするくらいだ。巫覡ふげきの家系をうらんでも始まらないが、いちいち付き合っていたら身が持たない。

 カミサマはうなずきながら答える。

「『それ』を思い出すことは必ずしも幸せなことではないかも知れない。むしろ不幸なことであるかも知れない」

「うん、それさっき聞いた」

「だが私はどうしても思い出したいんだ。もしかすると、私が思い出すことは天地の理にそむくことなのかも知れない」

「それも聞いた」

「……もう少し親身になって聞いてくれてもいいのではないか? 何しろ私の姿を視ることが出来るのは君だけなんだから」

 そう言いながらカミサマは犬の首筋をわしゃわしゃと撫でる。犬はカミサマの手をぺろぺろと舐めながら、くうんと甘えた声を出す。

「犬にも視えているようだけど」

「なかなか人懐こい犬だな。おおよしよし」

 私には一向に懐こうとしないくせに。この駄犬め。



   〇



 私ハ生マレタ時カラ神様ダッタ。ソレハトテモ当タリ前ノ事ダッタカラ、ソレヲ疑ッタ事ハナガラク無カッタ。父モ母モ私ヲ神様トシテ扱イ、一度ダッテ抱キシメテハクレ無カッタ。デモソレガ当タリ前ノ事ダッタカラ、私ハ当タリ前ノ事ノヨウニ神様トシテ振ル舞ッタ。私ニ名前ハ無ク、タダ神様トシテソコニ在ッタ。

 入レ替ワリ立チ替ワリ、色ンナ人ガ私ヲアガメニヤッテ来タ。老若男女ルウニャクナンニョ、アラユル人ガ私ノ託宣ヲ聴キニ来タ。私ハアラカジメ決メラレタ脚本通リノ言葉ヲボソボソト呟ケバ良カッタ。ソレデ大抵ノ人ハサモ満足ソウニ立チ去ッテ行クノダッタ。私ハ彼ラヲアワレミ、ソレ以上ニ自分ヲ憐レンデイタ。

 長ズルニツレ、テレビヤ新聞トイウ物ガ世間ニハアル事ヲ知ルヨウニナッタガ、ホトンド目ニシタ事ハ無カッタ。学校トイウ物ガアルコトモ知ルヨウニナッタガ、一度モ行ッタ事ハ無カッタ。周リノ大人タチハ口々ニ「ソンナ物ハ必要アリマセン」ト告ゲルダケダッタ。私ニハ広イ世界ヲ知ル事ハ許サレテイナカッタ。イビツ規範キハンガ私ヲ支配シテイタ。私ハタダ神様トシテソコニ在ッタ。



   〇



 次の日の昼下がりもカミサマは、駄菓子屋の軒下の陰で犬とたわむれていた。

「おお、待っていたよ。頼んでたものは持って来てくれたかい?」

 私はトートバッグの中から一冊の薄っぺらい文庫本を取り出した。既に表紙はなく、薄茶色に日焼けしたそれは、持ってるだけでボロボロに崩れそうな触感だ。

「言われたとおりのものを持って来たけど、これで良かった?」

 目の前に差し出されたそれを、カミサマは慎重に受け取ろうとする。やがてその文庫本はカミサマの手にしっくりと納まる。成功したようだ。私は意外なものを見る目付きになる。

「『白秋詩抄はくしゅうししょう』か。いい暇つぶしになりそうだよ。ありがとう」

 カミサマは長椅子にごろんと寝そべりながら、パラパラと本をめくる。

「カミサマが本を読むのを見るのは初めて」

 私は思わずそう呟いた。

「一九三三年五月発行だから……もう百年近く昔の本になるみたいだな。古い本ほど相性が良いみたいだ。真新しい本は触れない。出来れば新刊も読み漁りたいんだが……、カミサマも難儀なものだ」

 カミサマは読書に集中し始める。時折、北原白秋の詩句をぼそぼそと口にする。犬はカミサマのすぐ側で行儀よく座りながら、目を細め心地良さそうに耳を傾けている。不思議な光景だと私はしみじみ思う。


 気を取り直して、私は駄菓子屋のカウンターに赴き、生体検知機能せいたいけんちきのうの具合を検分した。異常はなさそうだ。とは言え、昨日から利用客は私を含めて三人しか来ていないらしい。採算は度外視するしかないが、せめて冷凍庫の不具合の原因だけでもはっきりさせておきたいところだ。なぜかここ数日、アイスが異様に固すぎる。しかも金属のような硬度を保ったまま、まったく柔らかくならない。なぜなのか。

 軒下でくつろいでいたカミサマが、気だるそうに私に視線を寄越す。

「……そういえば気になっていたんだが、この店の主人はどこにいるんだ?」

「……もともとここのおばあちゃんが一人でやってたんだけど、この暑さで体調崩しちゃったの。今は入院中」

「なるほど。それで君が臨時の店番をしているというわけか」

「おばあちゃんには身寄りもないし、私が無理を言って開けてもらってるという感じ」

 小さな頃からの馴染みの駄菓子屋。ここが無くなるのは何となく淋しい。一向に私に懐こうとしないあの駄犬はぶっちゃけどうなっても構わないが、せめてこのお店だけはここに在って欲しいなと思う。

 だけど夏休みが終われば、私も学校が始まる。そうなったら今のようには行かない。それを考えると憂鬱になる。

 古びた木製のカウンターに頬杖を突きながら、私は眩しい路地を眺めるともなしに眺める。人気ひとけのない田舎町の夏のひとコマ。表通りに行けば数は少ないけどコンビニもあるしスーパーもある。好き好んでこんな裏通りの駄菓子屋に通う人などなかなかいない。まるでここだけが世界にぽっかりと取り残されたような気になってしまう。

 カミサマは相変わらず長椅子に仰向けに寝そべりながら、百年前の詩句を声に出して読んでいる。


 「両手モロテソロヘテ日の光スクフ心ゾアハレナル。

  掬ヘド掬ヘド日の光、

  光リコボルル、音モナク。」


 私と犬にしか聞こえないカミサマの透きとおった声が小さく響く。寄せては返す波のように、時に高く、時に低く。それが眠気を誘う。



   〇



 私ハ生マレタ時カラ神様ダッタ。ソレ以上ノ生キ方ヲ知ラズ、ソレ以下ノ生キ方ヲ知ラナカッタ。神様ハ私デアルト同時ニ、私ハマギレモ無イ神様デアッタ。誰モソレ以外ノ生キ方ヲ教エテクレ無カッタカラ。

 ドンナ異変ガ生ジタノカ、今モッテワカラナイ。最初ノ兆候チョウコウハ、私ノ託宣ヲ聴キニ来ル人ノ数ガメッキリ減ッタトイウ形デ表レタ。全ク人ガ来ナイ日ノ方ガ珍シカッタ位ナノニ、誰カノ来ル日ノ方ガヤガテ珍シクナッタ。

「悪魔ニ魅入ラレタ不心得モノノセイデス。気ニスルコトハアリマセン」

 私ノ父デアル筈ノ人ガ、ウヤウヤシクコウ言ッタノヲ覚エテイル。不心得モノトハ誰ノ事ダロウ。不心得モノガ何ヲシタノダロウ。ソレガドンナ経緯ケイイデ、私ノ処ニ人ガ来ナクナッタノダロウ。ソウ訊イテモ、ハグラカサレルノガ常ダッタ。

 私ハ仕方ナイト思イ、ソレ以上ノコトヲ知ルノヲ諦メタ。神様ハ全テヲ知ロウトシテハイケナイノダ。何故ナラバ神様ダカラダ。神様ハ脚本ニ書カレタコトヲ読ミ上ゲルダケデイイノダ。ソレガ神様ノ仕事ノ全テナノダ。ソレ以上ノコトハ誰カラモ教ワラナカッタカラダ。

 私ノ仕事ガ暇ニナルニツレ、私ノ周リカラ大人タチガ一人マタ一人ト居ナクナッテ行ッタ。ソノ中ニ私ノ母デアル筈ノ人モ含マレテイタ。私ハ悲シマナカッタ。彼女ハ一度ダッテ私ヲ抱キシメテハクレナカッタカラ。一度ダッテ名前ヲ呼ンデハクレナカッタカラ。デモソレハ仕方ノ無イ事ダ。私ハ神様ナノダカラ。神様ハ普通ノ幸セヲ望ンデハイケナイノダ。

 人気ヒトケノ無クナッタ私ノ家ニ、私ト父デアル筈ノ人ガ取リ残サレタ。彼カラハ絶エズ、オ酒ノ匂イガスルヨウニナッタ。掃除ヲスル人モ居ナクナリ、家ノ内部ハチリホコリデ乱雑ニナッタ。私ハ何ヲスルデモナク、タダ流レニ身ヲ任セテイタ。

 破局ハキョクノ日ハ、ソウ遠クハナカッタ。



   〇



 おばあちゃんが亡くなり、簡単な葬式を済ませてからも、私は駄菓子屋の店番をし続けた。来週からは学校も始まろうとしている。それを思うと憂鬱になる。私はこれからどうすれば良いのだろう。この駄菓子屋をどうするのが正しいのだろう。

 そんな私の心を映す鏡か何かのように、朝から雨がひっきりなしに降っていた。

「好きなようにしたらいいじゃないか」

『白秋詩抄』を熟読しながら、軒下の長椅子でカミサマが気軽に言う。

「言う方は気楽でいいよね」

 私は素っ気なく言う。というかカミサマはまだ彼岸に帰ろうとしないのだろうか。普通はお盆を過ぎたら「此岸」からはいなくなるものなのだが。

「ちょっとやることを思い出したんだ。だから戻るのはもう少し先になる」

「『思い出し』たの?」

 カミサマは首を振る。

「そのことじゃない。本当に思い出さなければならないことは、まだ思い出せてない。それとは別のことだ。それより」

 そう言いながら、カミサマは真面目な顔で私に向き合う。「私は曲がりなりにもカミサマだ。それに君にはひと方ならず世話になった。だから君が望むならそれをサポートするにやぶさかではない。君が選んだ未来ならば、私はそれが上手く行くよう取り計らおう。どうだ、悪い話じゃないだろう?」

 普段は飄々ひょうひょうとしているくせに、急に真剣な眼差しになるからドキリとする。私はそんな内心の動揺を、努めて表情に出さないようにする。

 少しだけ悩んだ。

「せっかくだけど、遠慮しとく」

「どうして?」

 カミサマは心底ふしぎそうな顔をする。

「あなたは彼岸のモノだから。どんなに困っても、彼岸のモノと取引してはいけないというのがわが家の家訓なの」

「ふむ」

 カミサマは少しだけ不機嫌そうな顔をする。しかしすぐに思い直したように、いつもの雰囲気で笑う。

「それもそうだな。いや、済まない。今の話は忘れてくれ」

「そうする」

「君がうらやましいよ。君が生きているということもあるけど、生前の私は何の選択もすることが出来なかったからね。全て他人が決めた物語をなぞるだけの人生だった。本当なら私は生まれるべきではなかったのかも知れない。初めから死んでいた方が良かったのかも知れない。君は君だけの物語を紡ぐことが出来る。たとえそれが間違いや過ちに満ちていたとしても、それは君の物語だ。私にはそれがない。本当に何もないんだ」

 カミサマは今にも泣きそうな姿だった。私は何と言って良いのか測りかねたままだったが、そっと手を伸ばし、黙ってカミサマの手を包んだ。足元では悲しそうな駄犬がカミサマの足に身を寄せていた。私たちはしばらくそうしていた。軒先の路地は夏の終わりの雨にけむっていた。

 ひと雨ごとに秋になる。雨は季節を呼ぶのだ。亡くなったおばあちゃんのその言葉をふと思い出し、こらえ切れず、私は泣いた。



   〇



 私ハ生マレタ時カラ神様ダッタ。ケレドソレハ誰ガ決メタ事ダッタノダロウ。少ナクトモ私デハ無カッタ。モシ世界ニ私一人ダケダッタトシタラ、誰モ私ノ事ヲ神様トハ呼バナカッタダロウ。誰モ一人キリデハ神様ニハナレナイ。ソシテ今ノ私ハ文字通リ一人キリダッタ。ツマリ私ハ神様ニハナレナイ。イヤ、ソモソモノ所、私ハ神様デハ無カッタノダ。私ハ無力ナ子供ニ過ギナカッタノダ。

 私ハ誰モイナイ家ノ中デ父ヲ探シタ。トアル暗イ部屋ノ中、父ガ着テイタズボンガ靴下ノ付イタママ天井ニブラ下ッテイタ。変ナ臭イニ耐エ切レズ、スグニソノ場ヲ離レタ。

 一体父ハ何処ニイルノダロウ。私ヲ置イテ何処ニ行ッタノダロウ。

 ケレドモ、元々本当ノ父デハ無カッタノカモ知レナイ。本当ノ父ナラ本当ノ子供ヲ置イテ行ク筈ガ無イ。本当ノ母ナラ本当ノ子供ヲ置イテ行ク訳ガ無イ。ダケド本当トハ一体何ダロウ。本当ノ神様デハナカッタ私ニ、果タシテ本当トイウ言葉ヲ使ウ資格ガアルノダロウカ。

 私ハ偽者ノ神様ダッタ。ソノコトダケガヨウヤク分カッタ。

 ソレデモ、偽者ノ神様デアッタトシテモ喉ハ乾ク。オ腹ハ減ル。私ハ動物的ナ本能ニ従ッテ、家ノ中ヲ彷徨サマヨイ歩イタ。水道ノ水ハ止メラレテイテ一滴イッテキモ出ナカッタ。食ベ物ラシキモノハ見当タラナカッタ。段ボールヲ千切ッテ口ニ入レテミタケド、耐エ切レズスグニ吐キ出シテシマッタ。

 私ハソノ時、扉ノ向コウ側ニ助ケヲ求メルベキダッタノカモ知レナイ。窓ガラスヲ割ッテデモ、誰カヲ求メルベキダッタノカモ知レナイ。ケレド、私ハ一度モ扉ノ向コウ側ニ行ッタコトハ無カッタ。世界トイウモノハ壁トガラスノ内側ダケデ完結シテイテ、ソレ以上ノ広ガリヲ持ツモノダトハ知ラナカッタ。イヤ、違ウ。私ハ知ッテイタ筈ダ。世界ハモット豊カデ広イモノデアル事ヲ、コノ向コウ側ニハ学校ガアリ、テレビヤ新聞トイウモノモアル事ヲ。世界ハ私ノ知ラナイ事柄デ満チ満チテイル事ヲ。知ッテイナガラ私ハ知ラナイ振リヲシタノダ。私ハ知ラナイ振リヲシテ目ヲ背ケ、神様デアル事ヲ選ンダノダ。、神様ヲ演ズル事ヲ選ンダノダ。

 ダケドソレハ本当ニ選ンダト言エルノダロウカ。

 モウ私ニハ分カラナカッタ。モウ何モカモドウデモ良カッタ。

 二日三日ト時間ガ経ツ内ニ、目モ見エナクナッテシマッタ。暗闇ダケガソコニ在ッタ。

 不思議ト気分ハ落チ着イテイタ。コレカラ私ハ何処ニ向カウノダロウ。ズット昔ニ似タヨウナ風景ヲ見タ事ガアル気ガスル。アレハ何時イツノ事ダッタロウ。目覚メル前ノマブタノ裏ニハ、同ジヨウナ暗闇ガアルモノダ。生マレル前ニモ同ジヨウナ暗闇ガアルトスレバ、コノ風景ハソコニ繋ガッテルノダロウカ。暗闇カラ私ハ始マリ、暗闇ニ私ハ終ワルノダロウカ。

 暗闇ガ全テデアル。ソウ思ッタ。ドウシテ人ハワザワザ生マレヨウトスルノダロウ。ソンナ面倒クサイコトナドセズニ、元ノ暗闇ニイレバヨカッタノニ。生マレタノガ間違イダッタ。私ナンテ、初メカラ死ンダママデイレバ良カッタノダ。



   ◎



 ここで一つの物語が幕を閉じる。過去は変えられない。既に起こってしまったことは修正出来ない。私ノ命ハ確カニソコデ尽キタノダ。ダガ私ノ空想ノ翼ガ羽バタイタノモ確カニソノ時ダッタ。ソレハゴク自然ノ成リ行キノヨウデモアッタシ、在リ得ナイ奇蹟キセキデアッタヨウニモ思ウ。

「過去は変えられない」

 私ニヨク似タ誰カノ声ダッタ。透キ通ッタソノ声ハ衰弱シタ私ノ耳朶ジダニ心地良ク響イタ。

「ソウダ、過去ハ変エラレナイ。母ニモ捨テラレ父ニモ去ラレタ。誰モ私ノ死ナド気ニ掛ケル事ハ無イ」

「しかし未来は変えられる」

「ソンナノハ嘘ダ。コレカラ死ヌ私ニ未来ナドアル筈ガ無イ。死トハ無ニ還ル事ダ。虚無ニ未来ナド無イ」

「まだ君は無ではない。目が見えなくなっても、心は光を覚えている。そこに君が見るべき未来がある。そこで夢を見よう。かつて君であった私が手を差し伸べる。いずれ私である君はもう孤独ではない」


 ソレハ私ノ知ラナイ場所デアリ、経験シタ事ノナイ時間ダッタ。幼イ私ハ眩シイ真夏ノ田舎道ヲ歩イテイタ。ソウダ、私ハ田舎ノ学校ニ通ウ、平凡ナ小学生ナノダ。私ノ幼イ心ハイヤオウニモハズンデイタ。待チニ待ッタ夏休ミガコレカラ始マル。ヤリタイ事ハ小サナポケットニ沢山詰マッテイル。真ッ白ナ肌ガコンガリト日焼ケスルホドニ遊ンデ遊ンデ……。

 一軒ノ駄菓子屋ガ目ノ前ニ現レタ。私ハポケットノ中ヲゴソゴソト探ス。オ母サンカラ貰ッタオ小遣イハマダ沢山アル。キンキンニ冷エタアイスニシヨウカ。泡ガシュワシュワト出ルラムネニシヨウカ。焦ル事ハナイ。夏ハマダ始マッタバカリダ。

 小サナ女ノ子ト柴犬ガ軒下ノ長椅子ニ座ッテイタ。私ハソノ子トソノ犬ニ会ッタ事モ無カッタノニ、妙ニ懐カシイ感ジガシタ。アルイハ、コレカラ私タチハ巡リ会ウノカモ知レナイ。過去ハ変エラレナイガ、未来ハ変エラレルノダ。

「可愛イ犬ダネ」

 私ハソット犬ノ頭ヲナデナデシタ。犬ハ始メハ緊張シテイタガ、次第ニ心地良サソウニ私ヲ受ケ入レル。女ノ子ハ綺麗ナ目ヲ丸クスル。

「その犬、私には全く懐かないのに。凄いねぇ」

 私ハ誉メラレテツイ嬉シクナル。

「ネェ、一緒ニアイスヲ食ベヨウ」

「うん、丁度私も食べたいと思ってたところ」

 ユックリト悩ンデ選ンダバニラアイスハトテモ固イケド、夏ノ日差シデスグニ柔ラカクナルダロウ。木ノスプーンデ掬ッタ真ッ白ナアイスハ、火照ホテッタ体ヲヒンヤリト涼シクシテクレルダロウ。私達ハズット昔カラノ友達ノヨウニ、仲良ク遊ビ回ルダロウ……。

 ソシテ……。



   〇



 夏はやがて終わる。秋が訪れ、四季はめまぐるしく移ろうことをやめない。そんなある日、カミサマは前触れもなく私の前から姿を消した。『白秋詩抄』はカミサマと一緒にどこかへ行ってしまった。きっとカミサマが彼岸でも愛読しているのだろう。

 駄菓子屋は結局店じまいすることになってしまったが、おばあちゃんの遺言で私が譲り受けることになった。法律的にいろいろややこしいことはあったけど、その種の事柄に詳しい父が事務的な一切を引き受けてくれた。少ないけどおばあちゃんの貯金も残っているので、建物の維持だけは何とかなるらしい。学校が休みの日などは、私が時折お掃除もしている。

 私に一向に懐こうとしない駄犬はどうなっても構わなかったが、しれっとわが家の飼い犬というポジションに収まることになった。母が大の犬好きだからだ。それでも私に懐こうとしないというスタンスは微塵みじんも変化することはない。本当にこの駄犬ときたら気に食わない。

 しかも休日の散歩は私の仕事にさせられてしまった。ガッデム。


 そして翌年。

 今年も無事、夏休みが訪れる。僅かな商品を入荷して、久しぶりに駄菓子屋を開店しようと思い立つ。気に掛かっていた冷凍庫の不具合は嘘のように復旧していた。内部のアイスからは金属質の固さが一掃いっそうされていた。あれは一体何だったのだろうと、今でも度々不思議になる。

 蝉のじゅわじゅわいう路地裏には、相変わらず人気がない。それでも地道な営業活動が功を奏したのか、去年よりは利用客も来るようになった。店番の柴犬も八方美人的に愛想を振りまいている。悔しいが、正直助かる。

 お盆が近づく。じわじわと彼岸からのカミサマ達が姿を見せるようになる季節。



   〇



 古びた木製のカウンターに座り、売り物のラムネで喉をうるおそう。薄暗い屋内から、眩しい夏の光に満ちた路地を遠い目で眺めよう。軒下の犬はいつになくそわそわと、何かの訪れを待ちわびているようにも見える。何かの予感が私達には等しく与えられていることを感じる。

 やがて飲み干したラムネ瓶を手まさぐりつつ、今年もカミサマの帰りを見届けよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カミサマ狂詩曲 長門拓 @bu-tan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ