第10話 愛しき者たちのために
最初は誰かが悪戯をしているのだろうか、と思うほど遠くで聞こえる鐘の音だった。
それは教会のものとは違い、軽く高い金属音が短い間隔で打ち鳴らされる。そのうち、街中にいくつも備え付けられた鐘が波紋を広げるように鳴らされ始めた。
川辺で遊んでいた子供たちが不思議そうに空を見上げる中、いち早く気づいたのはその親達だ。すぐさま自分の子を担ぎ上げ、炊事の火を消し、手を引いて教会を目指す。親が子を、子が親を呼ぶ中、誘導を行う将兵や役人の声が飛んだ。
――忌獣が来る。火を消し、お屋敷に向かって走れ。歩けないものは教会に行け、と。
混乱の中、民衆はその手に家族以外の何も持たず、ひたすら街道を走る。
街道の石に躓き、少年は地面を転がった。背中を踏まれなかったのは運がよかっただろう。痛みに顔をしかめ、よろよろと立ち上がろうとした少年に、白い手が伸ばされた。
「立てるな?」
少年はその手の主を見上げる。銀の髪を揺らしながら、藍色の制服を身に纏った女性が立っていた。とても綺麗な人だ、と月並みな感想を抱くが、それどころではない。少年がべそをかきながら頷いて手を取ると、女性はぎゅっと握り返してきた。
「強いな。では私と一緒に教会へ向かおう。さぁ……」
「フィロメニア様!」
女性が手を引いて坂道を登ろうとしたところ、後ろから声がかけられた。外套を纏ったメイドが、焦った様子で駆け寄ってくる。
「お屋敷まで共に避難を! お急ぎください!」
「私は小さな子や老人を教会に連れていく! お前も避難の誘導に回れ!」
フィロメニアと呼ばれた女性は喧騒の中、声を張り上げて指示した。
「しかし……!」
「屋敷にいようが私には何もできん! 急げ!」
狼狽して目を泳がせるメイドを一喝したフィロメニアに、少年は手を引かれる。
「ふぃ、フィロメニアお嬢様!」
後ろから懸命に名を呼ぶ声が聞こえるが、すぐに街中に響く怒号や悲鳴に巻き込まれてかき消えてしまった。
◇
『各自、固定いいな! 一射ずつ、確実に当てていけ!』
魔法で増幅された声が空気を震わせる。指揮を執るコンラッドの叱咤に、騎士たちから「応!」と声が上がった。
ライニーズの外壁の上、この街にあるほぼ全ての
忌獣襲来の報せを受けてから態勢を整えるまでに、日はまだ沈んでいない。本来ならば数日の期間を持って準備に当たるはずの戦いを、この短時間で形にしたのだからこの街の軍は正常に機能したといえるだろう。
だが既に魔物はその進軍による土埃が肉眼で確認できるほどの距離にいた。少なくとも、街の中で鳴らされ続ける鐘の音を百数えるまでには、こちらの攻撃が届く距離だ。
『構え!』
隊長格の
倣うように他の
『風神ケライス、我らが戦友に勇気を……』
外部に聞こえるかどうかの声で、コンラッドは祈りを捧げる。
壁上に並んだ射手たちが弦を一斉に引いた。金属の弦を引き、針葉樹丸々一本に近い矢を飛ばすだけの力を剛腕が生み出す。つがえた矢の周囲に青白い光が灯った。
『放て!』
弦が鋭い音を立てて、その張力を解放した。弦から放たれた矢は弓の中心に備えられた筒を通り、その切っ先は風の魔法により空気の壁を無視する。同時に付与された火の魔法が、更なる加速と破壊力を乗せ、光を伴って吐き出された。
巨人にとっても短くはない距離を、魔力の矢が高さを落とさず一直線に伸びてゆき、忌獣の群れに吸い込まれる。それは足を折り、尾を貫き、頭を破裂させた。
騎士たちから感嘆の声が上がる。だが、それも束の間。すぐさま慄きに変わった。忌獣は仲間がやられたことを意に介さず、躊躇なくその屍を踏み砕いて前進を続けている。そして、その背後にひと際巨大な尾が持ち上がるのが見えて、騎士たちは後退った。
『第二射用意! 準大型を狙え!』
気圧された仲間を鼓舞するように、コンラッドは指示を叫ぶ。だがその時には、忌獣たちの尾が妖しく灯る光景が騎士たちの目に飛び込んできていた。土煙の中でいくつもの光が明滅する。
『来るぞ――!』
叫びを遮るように、耳を覆いたくなるような連続した爆音が轟く。同時に強い衝撃を受けてコンラッドの
――装甲だけでは耐えられんか……!
コンラッドは歯噛みする。攻撃の正確さと威力が想定以上だ。
『各騎、自由に放て!』
既に弦を引き絞り終えていた
『効いてないのか!?』
『何かマズいぞ!』
騎士から驚愕の声が上がる。魔法矢の直撃を物ともしない準大型は尾の先端に光を灯していた。それは他の魔物の尾とは異なり、雷光と低い唸りのような響きを伴っている。
『防御魔法を張って屈め!』
コンラッドは咄嗟に叫び、自身も防御の姿勢をとった。
衝撃が来る。
一瞬の出来事だった。コンラッドの隣に屈んでいた
光が止み、その奔流を受けた
彼が遮蔽としていたはずの壁は熱を伴って膨張し、赤泥のように溶けた石材を垂らしながら抉られていた。魔法で組成を変化させ、強度を上げた壁のはずだった。
『馬鹿な……!』
『エドモンはどうした!? 落ちたぞ!?』
『やつは死んだ!』
助けに降りようとした仲間に怒鳴り返す。コンラッドは見ていた。エドモンの乗っていた巨人が落下する直前、装従席を備える胸部、それ自体がなかったことを。
『あの様子じゃこんな壁、すぐに突破されるぞ。コンラッド、わかってるな?』
仲間の念押しに覚悟を決め、コンラッドは拡声魔法を全開にして叫ぶ。
『一から三班、壁上から降りて南東の門から奇襲をかける! 弓と矢は置いていけ! それ以外は壁上から攻撃を続行! ジルベール、ここを……おい、どこへ行く?』
指示の途中で壁上から降り始めたジルベールを呼び止めると、彼はひらひらと巨人の手を振らせた。
『逆だ。俺じゃ指揮を執れん。あんたが残ってくれ。合図だけ頼んだぜ』
『待てジルベール……おい!』
ジルベールは制止を聞かず、奇襲班を率いて門へと向かう。
『勝手なことを……。準大型はやつらに任せる! とにかく数を減らせ!』
敵の攻撃によって外壁の縁が次々と吹き飛ぶ中、壁上に残った騎士たちは負けじと矢を放った。
◇
相手はひたすらに突貫してくる恐れを知らない怪物だ。白兵戦になれば乱戦は避けられない。戦いが始まる前に済ませたはずの決意が、心が揺らぐ。だが逃げ場はない。退いたとしても、自分よりも誰かが先に死ぬだけだ。故に足掻くという選択肢のみが、騎士たちに残された道だった。
ジルベールは掠れた声で低く唸り、咆哮した。
『全騎抜槍! いいか、あんなデカブツの相手、常識的には俺たちの役目じゃねぇ! 英雄サマの代わりに直に殴り合えるなんざ光栄じゃねぇか! 楽しめ!』
次々と
装従席の中でジルベールは鼻を鳴らした。
そうだ。この世界には化け物を倒す化け物みたいな騎士がいる。適材適所というやつだ。だがここにいないのであれば、自分たちが束になって、命を賭してその役目を引き受けるしかない。
騎士たちは装従席で恐怖に抗い、震え、奥歯を噛み締め、涙を流す。しかし、不思議とその祈りは一様に言葉を同じくした。
――水神レゼの愛を、我らが愛しき者たちに。
あの準大型の忌獣にとって、頑丈なはずの外壁はもはや障害物にならない。取りつかれれば容易に街への侵入を許すこととなり、民を守る物はなくなるだろう。
その前に、ここにいる騎士たちが最後の砦となるのだ。
祈りを捧げた騎士たちを撫でるように静かな風が吹く。
『ここで死んでも家族が残ってりゃ俺たちの勝ちだ!』
絶望的な状況にあってなお、騎士たちは勝利という到達点に希望の光を灯し、槍を黄昏の空に掲げた。わずかでも忌獣を街から遠ざけるため、震える足を前に踏み出すためだけに。
門が開かれ始める。
それが開き切ってしまったら、ジルベールは命じなければならない。己の弱い心が叫ぶ。何かの間違いで門が開かなくなってしまえばいい。引き返して家族を抱えてどこかに逃げればいい。けれど、そんなことをすれば娘は自分を誇りに思ってはくれないだろう。
学園に通う娘の顔を思い浮かべた。
「父ちゃんは生きて帰るからな」
視界が完全に開ける。
そして、ジルベールは叫んだ。
『突撃ぃぃ――ッ!』
『うおおああああぁぁぁぁ!』
恐怖を振り払うように怒号が上がる。大地を踏み砕き、槍を構えた巨人たちが一斉に忌獣の群れへ突っ込んでいった。
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