第6話 別れを告げて

 日が傾き、照る光の強さも緩んできた。もうじき太陽は赤みを増してくる頃だろう。


 ウィナは寸胴鍋の汚れを拭き取りながら、馬車の準備ができるのを待つ。


 昼食時には賑わっていた野営地も、今はほとんどの人員が作業のため坑道の中に入ってしまった。だから今は周りには警備の兵しかいない。作業用の二騎の魔装ティタニスも仕事がないのか、膝を折って待機しているような状態だ。


「そろそろ授業が終わる頃かな」


 ウィナは誰ともなく呟く。


 今日は仕事とはいえ学園を休んでしまった。友人たちが一堂に会する教室が恋しい。なにより一年を通して四六時中フィロメニアと行動を共にしているので、たまに離れるだけで妙に寂しく感じる。


 帰ったら皆でゆっくりお茶でもしたい。


 そう考えていると、木々に面したテントの横に積んであった木箱が音を立てて崩れ落ちた。誰かがぶつかって落としたのだろうか。念のためにリタを呼ぶ。


「リター?」


「はーい!」


 名前を呼ばれたリタは木箱とは反対側のテントから顔を出した。木箱を落としたのはリタではないようで、ほっと胸を撫でおろす。


 なんでもないよ、と手を振って、木箱を片付けようと近づいた、その時。



 ――青い巨大な目玉と目が合った。



「は」


 間抜けな声が聞こえた。突如緩やかに感じられるようになった時間の中で、それが自分の声であるとウィナは自覚する。


 それが何であるか、ウィナには認識することができなかった。だが、ウィナの【眼】は強く訴える。


 目の前の存在は赤――危険なものであると。


 瞬間、ウィナの生存本能が最大音量で警笛を鳴らす。全身の毛穴が眼前の脅威に粟立った。


 思考という過程を飛ばして右脚が地面を強く蹴り、ウィナは全力で後ろに跳ね跳んだ。直後、首元を空気を切り裂く不快な音が通り抜ける。無我夢中で蹴り出した身体はそのまま背後の木材の山に叩きつけられた。


「ぐあっ!」


 背中を強かに打ち付け、苦痛に息が詰まる。だが呼吸を気遣っている余裕はない。

 早く身体を起こさなければならない。震える足に鞭打って立ち上がり、今度は横っ飛びに地面を転がった。


 またしても背後で空気を斬る破壊の音。振り返ればウィナを受け止めて散らばった木箱が、鞭のような何かに粉砕されるところだった。


「ウィナお姉さま!?」


 横合いから悲痛な叫びが上がる。見ればリタが荷物を足元に落として目を見開いていた。視線の先にはウィナを襲ったひとつ眼の化け物がいる。

 化け物は複数の小枝のような足を地面に伸ばし、細身の胴体から鎌のような腕を掲げた。先ほど木箱を砕いたのはあの凶悪な鎌らしい。


 その全容を認識したところで、化け物の頭がぐりんとリタへと向くのが見えた。ぞくりとする嫌な感覚が背中を走る。右の鎌をわずかに掲げる予備動作が見えて、ウィナは叫んだ。


「リタ! 逃げて!」


「ひっ……!」


 絶叫にも少女の身体は動かない。ウィナの脳内に最悪のイメージが駆け抜ける。


 何かないかと地面を探った先で、木箱から散らばった剣が手に当たった。リタを助けるためには自分が動くしかない。リタとその間にさえこの剣を差し込めばどうにかなるかもしれない。剣でなくともいい。自分のこの身体でも構わない。


 ウィナは立ち上がり、駆け出す。


 踏み込む足が、鞘から剣身を抜き出す腕が恐ろしく重い。全身が泥に包まれているかのように、身体が重鈍に感じられる。

 しかし、同時にその重さを押し返す自身の膂力を感じ、リタの頭部へと振るわれる鎌の動きを明瞭に視認していた。


「うああぁぁぁぁ!」


 剣を抜き、地面を蹴るという単純な動作。しかし、その動きはウィナの体中の痛覚を刺激する。その感覚に、自分の意識の方が精鋭化されたのだとウィナは気づく。だが止まるわけにはいかない。


 爪先で大きく抉った地面を蹴った。


 身体が一瞬にして前方に押し出され、化け物とリタの間に割り込む。鎌はウィナの眼前だ。鞘から抜き放った剣を振るうため、制動をかけた左足に一層力を込めた。砂場にいるかのように足が埋まるがそれでいい。踏み固めた硬い感触に重心を預け、力任せに腕を振るい、身体を捻る。


 短く、そして鋭い金属音がさざなみのように広がった。


 ――斬った……!


 だが、そう確信した瞬間。


「ぁがっ!?」


 雷に打たれたかのような鋭い激痛が全身を駆け巡った。


 視界が火花が散ったかのように明滅し、滑らかに動いていたはずの手足がおもりを繋がれたかのようにズンと重くなった。ゆっくりと世界が傾斜してゆくのを感じて、まだ停止していない思考で強く訴えかける。


 ――まだだ。まだ倒れるな……!


 己に言い聞かせ、歯を食いしばってなんとか身体を支えた。何かが身体から零れ落ちるような感覚があったが、気にする余裕がない。不幸中の幸いか、鎌を斬り飛ばされた化け物は体液を撒き散らしながらたじろいでいる。


 その隙にリタの下へ駆け出し、その手を取って走った。


「――!」


 坑道へ逃げよう、そう叫んだはずの自分の声が聞こえなかった。正面に見えているもの以外の形が識別できず、周囲の状況が理解できない。


 悲痛そうな顔でリタがなにか叫んでいる。剣を抜いた瞬間は研ぎ澄まされていたはずの感覚が、今は酷く茫然としている。真っ直ぐに走るという単純な動作ができないという事実すら、他人ごとのように俯瞰していた。


 そして気づく。リタを引っ張っていたはずが、いつの間にか逆に自分が引っ張られている。



自分の思い通りに前に足が出ない。上がらない。



 ウィナはリタの手を離そうとしたが、小さな手が離すまいと逆に握り返してくる。前を行くリタの横顔に大粒の涙がいくつも零れ落ちるのが見えて、それでも手を引いてくる彼女をぼんやりと頼もしいと感じた。


 やっとの思いで坑道の入口へ辿り着いたウィナ達は岩の影に身を潜める。立ち止まった瞬間に力が抜け、膝から崩れ落ちた。ウィナは内側から込み上げる嘔吐感を抑えられず、その場に吐瀉した。


「おえぇっ……げほげほっ」


「ウィナお姉さま……!」


 名前を呼ばれて聴覚が戻ったことを悟る。横でリタが息を飲む気配がした。

 何かと思い地面を見ると、ウィナが吐き出したものは胃の内容物などではなく――血だった。


 相当な量の血が広がっている。吐血した分だけではない。剣を握る腕や膝からも血が滲み出ていた。自分を中心に、地面に血溜まりが出来ている。


 先ほど剣を振るった瞬間――あのときに、自分の体が壊れたのだと直感した。


 気がつけば外からは怒号と爆音、金属を打ち合う音がこだましている。あの一匹だけではなく、複数の化け物に野営地が襲われているのだろう。反対に坑道の中からは戦いの音が聞こえない。なら向こうは安全かもしれない。


「リタ、奥に走って……。立てそうにないや」


 ウィナは坑道の奥を指差す。


「嫌です! 一緒に来てください……!」


 リタはウィナの体を支えようと肩を貸す。だがいくらウィナが同年代と比べて小さいとはいえ、リタが支えて歩くことは厳しい。必死で自分を運ぼうとするリタの健気さに、作り笑いなどではなく自然と笑みがこぼれた。


「いいから、大丈夫だから……。いい子……だから」


「立って! 立ってください! ウィナお姉さま……!」


 リタは優しいから見捨てるという選択肢が存在しないのだろう。リタは頭がいいからどうにかして共に逃げる方法を必死で思案しているのだろう。


 できれば言いたくはなかった。リタなら理解してくれると意を決して、告げた。



「――ごめん。たぶん……助からないから、アタシ」



 そう言い切ったのはリタのための嘘ではない。流した血の量と痛みすらなくなった感覚。そして、ウィナにはもうリタの表情が判別できていなかった。【眼】だけがリタの輪郭を囲み、そこにいると教えてくれる。きっとそこには泣き腫らした小さな顔があるのだろう。


 それを聞いたリタの身体から、力が抜ける。彼女はウィナに縋りついた。


「い、嫌ぁ……」


 きっとこの子を抱き締めるのはこれが最後になる。泣き喚くリタを抱こうとして右腕がひしゃげていることに気づき、左腕で掻き抱く。終わりに銀髪の張り付いた額へ口づけすると、小さな身体を押した。


「走って……」


「あうぅ……」


「走れ!」


「――うわああぁぁぁぁぁあああ!」


 ウィナの一喝に、リタは感情を爆発させながら走り出した。


 よかった。きっとあとはバルネット達が上手くやってくれるだろう。


 残されたウィナは糸の切れた人形のように地面へ倒れ込んだ。徐々に小さくなるリタと思しき反応を見ながら、ずっと我慢していた言葉を漏らした。


「死にたくないなぁ……」


 【眼】がウィナの背後に何かを察した。警告しているのだ。今のウィナにもわかるほど重く硬い何かを打ち付けるような衝撃が、一定の間隔で響いていた。そして、それは徐々に大きくなっている。


 このままゆっくりと終わりたかったが、そうはいかないらしい。

 上へと、ひしゃげた腕を伸ばし、ウィナは主の名を呼んだ。


「アタシ、頑張ったよね……? フィロメニア……」


 両親に救われてから始まった自分の人生が脳裏に蘇る。夢の記憶ではない。自分だけの記憶を必死に抱き締めた。


 駆け巡る走馬灯は、父と母が帰ってこなくなった日で止まる。ベッドで毛布に包まって枕に顔を埋めている少女の姿。それは三人で暮らした家に、一人きりになってしまった自分だった。


 ――あれは悲しくてそうしていたんじゃない。アタシは祈ってたんだ。


 そうしていれば、いつか母が頭を撫でてくれるんじゃないかと、いつか父が毛布ごと抱き上げて外に連れ出してくれるんじゃないかと、ずっと願い続けていた。フィロメニアとバルネットが手を引いてくれなければ、自分はまだあのベッドの中にいたかもしれない。


 そんな過去の自分に、リタの顔が重なる。


 ウィナは残された側だった。両親がどれだけ偉大で、悔やまれる存在だったと他人に言われても、そんな事はどうでもよかった。偉大でなくとも、誇りがなくとも、二人に帰ってきてほしかった。傍にいてほしかった。


 どうして自分を置いて逝ってしまったのかと、どす黒い感情を両親に向けたこともある。しかし、記憶の中の二人を思い出すと、自分をないがしろにするとはどうしても思えなかった。


 きっと二人とも、何としても自分の所に帰りたかったはずだ。最後の最後まで、自分の事を愛してくれていたはずだ。


 なら父と母に憧れた自分が諦めるわけにはいかない。好きな人たちに同じ思いをさせたくはない。


 自分は知っているはずだ。残された側がどんな思いで過ごすのかを。


 ――その時、澄んだ鈴の音がした。


 左腕に巻かれた鈴が、しゃらんと揺れた。つけた覚えのない鈴の音色が、淀んだ世界の中ではっきりと聞こえる。一度だけ鳴った鈴の音色が、ウィナの意識を呼び起こすように頭の中で反響する。


「お父さん、お母さん……」


 ウィナは身体を起こしにかかる。身体から染み出た血がねっとりと糸を引いた。足が地面を踏んでいる感覚も、身体を支えられる力も、とうに無い。だが――。


「アタシの……」


 ウィナは立ち上がる。


 視界が色を取り戻した。外を見ればすぐそこに、この坑道と同じくらいの大きさの化け物が迫っている。恐怖はない。ただ在るのは他者を想う、自分自身への祈りのみ。


「アタシの中の神様……!」


 左腕に揺れる鈴が、しゃらんと揺れた。心の中で誰かが囁く。



 ――もし許してくれるのならばもう一度、名を呼んでください。今度は器の名ではなく、当方の名を。



 この鈴の音は自分の心の音なんだろう。それも、きっと一人では鳴らせない、繋がりの音。誰かの心が響き返してくれなかったら、この鈴は鳴らなかったんだろう。


 腕輪を掲げる。鳴らす方法など知らない。必要ない。これは自分の心なのだから。


 目をつぶると、両親と共に住んでいたあの家の香りがした。悲しい香りではない。懐かしくて、優しい香りだ。思い出さないようにしていたはずが、自分はまだこの香りを忘れていなかった。それが妙に嬉しくて、一滴の涙が頬を伝うのがわかった。


 ――ウィナの心が、しゃらんと揺れた。


 今ならばこの声が届く。彼女に。あの場所に。

 ウィナは叫んだ。



「ミコトォォぉぉぉぉぉぉ!」



 世界に亀裂が走る。


 空間を砕き割り、巨人がその姿を現した。


 耳をつんざく破砕音と共に、空間の境界に閉じ込められた光が、ガラス片のように煌びやかに撒き散らされる。


 化け物の前に躍り出た巨人は、雄叫びにも似た駆動音を響かせ、剛腕をその顔面に叩き込んだ。ウィナの十倍にも迫る巨体。その鉄の身体から繰り出される膂力は、余すところなく破壊力へ変換される。拳を受けた甲殻が音を立ててひしゃげ、体液をまき散らしながら化け物が吹き飛んだ。


 2つの巨体がぶつかり合う衝撃にリボンが揺れる。だが、猛然たる一撃の足元でもウィナの体がたじろぐことはない。


 己の心に応え、現れた巨人の姿に、自分の運命が大きく変わってゆくのを感じた。


 もし今日ここに来なければ、昨日と同じ日々がずっと続いていただろう。今日の夜には館に戻り、明日は主に一日中付き添って、明後日は友人たちと菓子作りに励んでいたかもしれない。


 そんな平穏な未来の可能性に別れを告げる。


 ウィナはただ、魔装ティタニスを見つめていた。

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