第9話 自分のために
視界を巡らせると、バルネットが走ってくるところだった。それを見て、なぜか微かな憤りを覚える。装従席の中であることを忘れて座ったまま声を上げると、拡大されて外界に響いた。
「なによ。今忙しいんだけど」
『なぜお前が行く必要がある!?』
バルネットの叫びに、今更なんなんだとウィナの不機嫌度が増した。思わず桿を動かしてしまい、ラグナの拳が地面に軽く打ち付けられる。それだけでも近くにいたのならば相応の揺れが伝わっただろうに、バルネットは足を止めない。
『他の領地からすぐに助けが来るはずだ! お前が危険を冒す必要はないんだ!』
「それが間に合わなかったらどうすんのよ!」
言いながらラグナの巨大な指で差すと、バルネットは苦虫を潰したような顔になったが、なおも叫ぶのをやめなかった。
『いいから、そんなところにいないで出てこい! お前は……守られていればいいんだ!』
バルネットの必死な、それでいて駄々っ子のような言い様にウィナの頭に血が上る。弾かれたように立ち上がって外に出ようとすると、慌ててミコトが装従席を開いてくれた。
「もっかい言ってみなさい脳筋! 今更出てきてなにいってんのよ!」
装甲から飛び降りたウィナは拳を握って、険しい表情のバルネットにズカズカと近づく。威嚇するように睨みつけるが、距離が詰まるにつれてバルネットの顔が――情けなく歪んだ。
「は?」
ウィナの強く地面を踏みつけていた足が、緩やかに止まる。
振り上げるはずだった拳が届く近さまで来た時、バルネットの大柄な体にウィナは抱き締められていた。
「ばっ、馬鹿……なにやってんの!? ちょっ、離してよ……!」
焦ったウィナはジタバタともがくが、体格差のある細い体は抜け出せない。バルネットの肩越しに遠くから見る兵たちの視線に気づき、頬が火照ってゆくのを感じた。
しかし、顔の横から微かに聞こえる鼻を啜る音に、ウィナは動きを止める。
「――また泣いてんの?」
「またとはなんだ……。数年は泣いていない……」
途切れ途切れの涙声で応じるバルネットの背中を仕方なく、ゆっくりと撫でながら「そうだったっけ」と呟いた。周囲からは好奇の目に晒されているが、その応報は後でしようと心に誓う。
「……わかったから、そろそろ離れなさい」
背中を軽く叩きながら言うと、バルネットの体が離れた。ウィナは大きなため息をついて、幼馴染の言葉を待つ。
「俺は……俺はお前が大切なんだ。 お前が傷つくのが俺は嫌なんだ……!」
バルネットは大粒の涙を流しながら、そう打ち明けた。普段は無愛想で変わらない表情が、今は随分と酷い有様である。
だが彼にそうさせたのは自分なのだ。人目も憚らずみっともなく号泣する男を前に、チリチリとした痛みを感じる胸を抑える。
「うん。知ってる」
「だから、お前を絶対に――」
「待って」
バルネットの胸に片方の手を当てて、ウィナは言葉を遮った。
きっとこの分厚い胸板の奥は、自分の胸の痛みと同じくらい痛いのだろう。でもその先を言われてしまうと、自分の覚悟が揺れてしまうような気がした。
「アンタが心配してくれてたのは、ずっと知ってた。ごめん。素直に受け止めきれなくて、ごめん」
ウィナはバルネットの顔を見上げる。言葉を聞いた男の顔が、徐々にしおれるように歪むのがわかった。
「お、俺も……素直に案ずることができなくて、すまなかった」
バルネットは当てられたウィナの手を握りしめる。
そこで初めて互いが互いの鼓動を感じられた気がした。ずっと近くで生きてきて、こんなときにやっと通じ合うなんて、自分たちは本当に馬鹿だと、バルネットと一緒に静かに泣きながら思った。
ウィナは手を静かに下ろす。バルネットの手が離すまいと伸ばされるが、掴まってしまえば自分はもうそれを振りほどけないだろう。
身をよじって避けると、その手は悲しく空を切った。
「……でも、アタシは行くよ。あそこにはフィロメニアがいる」
バルネットは彷徨うように伸ばした手を下ろして俯く。そんな彼を置いて、ウィナはラグナに向き直ろうしたが思い直した。
「そうだ。忘れてた」
声に出すと、バルネットが顔を上げる。
ウィナは右の手袋を外して彼の顔にそっと触れた。
「目、閉じて」
一瞬だけ目を丸くしたバルネットが素直に目を瞑る。
丁寧に前のめりになってくれたおかげで、実にやりやすそうだとウィナは口の端を吊り上げた。そして、素手の右手を振り被り――。
「いきなり抱き着いてんじゃないわよ!」
「ぶほぁッ!」
――思い切りバルネットの頬にビンタをかました。
皮膚を張る痛烈な音が鳴り響き、口の中の空気を無理矢理吐き出されたバルネットが、奇妙な声を上げて吹き飛ぶ。
その威力にキャンプの方からも慄きの声が上がった。
「まったく!」
踵を返してラグナに足を向ける。今のバルネットの声は中々に面白かった。頬が緩むが、どうしてだか一緒に涙が流れてきて、ゴシゴシと袖で顔を拭う。
装従席に戻ると、ミコトが声を出さずに口元を抑えて笑っていた。
同じくウィナも大きく笑って応えて、勢いよく座席に体を押し付ける。桿と鐙に触れ、出立の準備を進める。
巨体が膝立ちから立ち上がった頃、正気を取り戻したバルネットと駆け寄ってきたリタが声を上げた。
「ウィナ! フィロメニアを頼む! また、また三人で、城の庭で……!」
「ウィナお姉さま! 私も信じています! お姉さまは私を守ってくれたから!」
それを見てウィナは心に熱いものが灯る。
両親が出立する際、街の皆からの祈りと激励と共に送り出されていたのをよく覚えている。留守番をするウィナは寂しくとも、それが誇らしくて、だからこそ両親は絶対に帰ってくるものだと信じ切っていた。
だが今ならわかる。
両親だって怖かったのだろうと。幼い自分を置いていくことは辛かっただろうと。だからウィナは涙も、喝采も、激励もいらない。ただその目に焼き付けてくれていれば、帰りを待ってくれていれば、それで――。
「――それでいいんだよね。お父さん、お母さん」
そう呟いて、思い浮かべた在りし日の二人の背中は、以前よりも近く感じられた。
『”ラグナ”出撃します』
ラグナの周囲にミコトの声が響き、バルネットがリタを連れて離れる。
ミコトは装従席の正面に回って、桿を握るウィナの手にその手を重ねた。互いの視線が強くぶつかる。
「……しょうがないなぁ!」
ウィナは桿と鐙を押し込んだ。
瞬間、ラグナの背後から勢いよく火炎が噴射される。
同時に、繰り出された跳躍により、巨体は一気に空へと押し上げられた。
ウィナの体は装従席に押し付けられ、【眼】に映る数字は凄まじい勢いで値を増やす。
歯を食いしばりながら顔を上げると、そこには遥か向こうの地平線までもが見渡せる景色が広がっていた。
「うわあぁ……! あはは!」
ウィナは口を開けて声を上げ、笑う。
空を飛ぶということが、大地を見渡すということがこんなにも胸を躍らせるものだとは知らなかった。
城から見える景色が全てだと思っていたウィナにとって、この光景は今までの自分が矮小な存在だと感じるほどに壮大だった。
「凄い……! 綺麗! 広い! ねぇ、ミコ……おっ?」
何かの警告音が響き、背後で排出されていた火炎の音がなくなったことに気づく。空を駆ける楽しさで夢中になっていたウィナは、視界の端で文字が赤く点滅していることに気づけていなかった。
「うあっ……なに!?」
体を背後に押さえつけていた力ががくんと弱まった。続いて、臓腑が持ち上がるような感覚を覚える。というより、ウィナの長い前髪がふわふわと浮かんでいた。
「――止まった!?」
言うや否や、それまでの浮遊が体を持ち上げるような落下に変わる。それどころかラグナは無作為に回転を始め、ウィナは装従席で目を回した。
「うわぁぁぁ!」
『出力急速低下。ウィナフレッド、落下しています』
「落ちてんのはわかるうぅぅぅ!」
注意を引く短音が鳴り、叫ぶウィナの【眼】に情報が飛び込む。
『出力、徐々に回復。高度三百時点で姿勢制御スラスターを噴射してください。時機を通告します』
「す、すら……!? それどうすんのおぉ!?」
【眼】に映っているのは地面に激突する予想図と、これを回避するための想定図だ。ご丁寧にラグナがバラバラになるところまで描かれていて、ウィナの焦りを加速させる。
『ウィナフレッドはこの機体の操縦を既に習得しています』
「み、ミコトっ……!」
回転方向に体が押し付けられ、ウィナは苦しさに呻いた。
ウィナはラグナを感覚に任せて動かしているだけだ。少しでもタイミングを外せば硬い地面に打ち付けられ、ラグナ諸共、自分の体は確実に潰れるだろう。
失敗すれば死だけが待つ状況にウィナの心がすくむ。
「っ……!」
遠心力で手が桿から離れようとして、だがすぐに押し込められた。
『信じてください。当方を』
恐怖に震えるウィナの手を、ミコトが支えている。射るような眼差しがウィナを捉え、【眼】に表示されている激突までの予想時間越しに、二人は視線を交わした。そこに感じるのは信じろという強い意志だ。彼女自身と、そして――。
『――ウィナフレッドを』
ウィナは奥歯をぎりっと噛み締め、ラグナを躍動させた。
「うおあぁぁぁっ!」
背部から火炎が噴射され、装従席を激しい振動が襲う。視界が吹き荒れる土砂と粉砕された木々で埋まり、雷鳴のような衝撃音が鳴った。
だがウィナは慄かない。ここは耐えるべきところではない。踏み出し、飛び込むのだ。
ラグナ各部の推進器が前方に向かって火を噴く。同時に地面に足を打ち込み、激流のように眼下を流れる大地を――駆けた。
視界が晴れる。
気がつけば、ラグナは地面を斬りつけるような強引な着地を経て、森の中を飛翔に迫る速度で駆け抜けていた。
「っ!」
『♪』
ウィナはミコトと再び視線を交わす。彼女の顔に浮かぶのは屈託のない笑顔だがその瞳に獰猛さを垣間見て、きっと自分も同じような顔をしているのだろうと思った。ミコトはウィナを信じ、ウィナはそれに応えた。互いの自信を二人で裏付けた事への、快感に近い抑揚が口端を引き上げる。
二人の少女を乗せた巨人は猛烈な勢いで大地を疾駆した。
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