宮廷書庫長の反省文

 螢架けいか呈舜ていしゅんは謝っていた。


 普段から怒られっぱなしな呈舜だが、ここまで平身低頭で謝ることも中々ない。


「本っ当に! すみませんでした!!」

「……本当に反省してるんだろうな?」


 石床にこすり付けていた頭を恐る恐る上げると『絶対零度』という言葉さえ生ぬるく感じる凍て付いた視線が降ってきた。言わずもがな、呈舜唯一の部下である未榻みとう甜珪てんけいから注がれる視線である。


 そんな視線にさらされた呈舜はしおしおと石床に視線を落とした。ちなみに呈舜は今、石床の上に直接正座させられている。この書庫室ではもはやお馴染みの光景だ。


「してます……。いや、まさか、あんなことになるなんて……」


 口にしながら呈舜はチラリと後ろを振り返った。


 そこには雪崩れて山になった書物がデデンッと鎮座ましましている。……片付けをおこたったせいで床に直接積み上がり、結果起きた雪崩に先程まで呈舜が埋もれていて、それを見つけた甜珪が発掘作業に当たってくれた山だ。


「礼部から回ってきた古文書に夢中になって関連書籍を当たっていたら、知らない間に自分の周りに本の山ができてるなんて……」

「『知らない間に』もクソも、自分自身がやったことだろうがよ」

「うっ……」

「ったく……。『螢架書庫長のお姿が見受けられたいが、何処いずこにおいでか』って昨日からやたら問い合わせが来るなと思ってたんだ」

「ほんとごめんね、未榻君。連休取ってまで解決に当たらないといけない案件の最中だったのに……」

「全くだ」


 すげなく切り捨てる声に呈舜はさらに身を縮こまらせた。そんな呈舜に向かって溜め息をつく甜珪は、常の出仕服ではなく青を基調にした礼服に身を包み、菊花が彫り込まれた琥珀の佩玉を腰に下げている。その姿は今の甜珪が『宮廷書庫室司書の未榻君』ではなく『玻麗はれい屈指の退魔師・未榻甜珪』として動いていることを示していた。


 ──確か『筋からの依頼』、だったっけ?


 呈舜唯一の部下である甜珪は、優秀な官吏である以前に当代屈指の退魔師だ。そんな彼がなぜ本職に退魔師を選ばなかったのかというとかなり深い事情があるのだが、とりあえず彼が敏腕副業退魔師であることに変わりはない。


 現役の本職退魔師達に切り札的扱いをされている甜珪は、本業の傍らちょくちょく退魔の現場に駆り出されているらしい。ただし、本人がその依頼に気が乗れば、という条件付きなのだが。


 ──未榻君がそう言って、本業に穴を開けてまで対応する相手ってことは……玲鈴れいりん様、というよりも、胡吊祇うつりぎ様関係かな?


 未榻甜珪という人間は、どこまでも権力や地位といったものに興味がない。むしろそれらを毛嫌いしている節もあり、気が乗らなければ皇帝が土下座で依頼をしてこようとも眉ひとつ動かすことなく袖にするような人間だ。ただし義理や人情には厚い所があり、特に幼馴染であり相方である玲鈴とその関係者に対しては義理堅い所があることを呈舜は知っている。


 生真面目で業務はどこまでもキッチリカッチリ片付けたがる甜珪が連休を取ってまで副業に臨むような依頼元は、恐らく胡吊祇家か師匠筋くらいしかないだろう。


 ──本来胡吊祇本家の人間しか着れないはずである青襲の礼装を未榻君が着てるのも、その辺りが関係してるのかな?


「とにかく、俺はまだ向こうの仕事が片付いてない」


 甜珪はもうひとつ溜め息をつくと席を立った。


 ちなみに甜珪が先程まで足を組んで座っていたのは呈舜が普段使っている椅子である。呈舜を石床に直接座らせてお説教する時、甜珪はなぜか必ず呈舜の椅子に座るのだが、おさのために用意されているはずの椅子がそういう時の甜珪には妙によく似合う。


「あんたが本の雪崩に埋もれて行方不明になってた仔細は、全部が片付いてこっちに帰ってきたらきっちり説明してもらう」

「ひっ……と、ところで未榻君」

「あ?」

「ヒェッ……そ、その『向こうの仕事』、あとどれくらいで片付きそう?」


 甜珪が醸し出す冴え冴えとした冷気や凍て付いた視線に怯えながらも、呈舜は思い切って訊いてみた。そんな呈舜に甜珪が眉をね上げる。


「何だ? 自分がいつまで仕事サボって本に埋もれていても大丈夫か、期限が知りたいってか?」

「な、何で仕事サボってるって知って……、じゃなくて!」


 一瞬ヒヤッと心臓が撥ねたことを押し隠しながら、呈舜は少しだけ威儀を正した。もっとも、石床の上に直接正座させられた状態では威儀も何もないのだが。


「その、仕事の進捗が、ね……よろしくなくて、ね……?」


 この場合、『仕事』というのは普段主に甜珪が受け持ってくれている部分……書架の整理や貸出資料の用意といった業務のことだ。


 収蔵目録が一行に仕上がらないのは呈舜が趣味にかまけて仕事に取り掛かっていないせいなのだが、こちらの部分は甜珪が抜けているせいで純粋に人手が足りないのが主な理由だ。甜珪が普段下手な官吏の五人分くらいの仕事量をこなしてくれているから忘れていたのだが、そもそも今の仕事量を呈舜一人でこなせるはずがないのである。一昔前の『仕事をしない』ことで有名だった書庫室だったらいざ知らず、最近の書庫室は甜珪がバリバリ仕事をこなしてくれるおかげでそれに甘えてくる人間も増えたので。


 そんな内心を込めて両手の人差し指同士をちょみちょみと突き合わせながらソロリと甜珪を見上げる。さとい甜珪はそれだけで呈舜が言わんとすることを察したのだろう。書架に返却されずに積み上げられた書物の山を見遣り、処理されていない資料依頼票の山を見遣った甜珪は深々と溜め息をつく。


「俺が五日空けただけでこのザマなのか……」


 ──むしろ僕は君が五日も空けて対応しなきゃいけない案件が発生してることにおののいてるよ……!


 ……などとは、口が裂けても言えないのだが。


「あと二日だ。もうほぼ事後処理と各所への報告だけだから、明々後日しあさってにはきちんとこっちに戻る」


 頭の中で何やら計算を巡らせた甜珪はキッパリと断言するとピッ! と呈舜に指を突きつけた。


「それまでにとりあえず、テメェの仕事はとっとと片付けろ。今回の一件に対する業務改善提言書も纏めておけ」

「え? つまりそれ、反省文……」

「分かったな?」


 いつになく圧がある『分かったな?』に呈舜の心臓が一瞬恐怖で動きを止める。


 この場合、呈舜が口にできる言葉はただひとつ。


「……はい」


 素直に首を縦に振る呈舜の前で、甜珪はその返事に重々しく頷いたのであった。




  * ・ * ・ *




「……うーん、こんな感じ?」


 人気が消えた書庫室に呈舜の声だけが緩く響いた。


 日はとっくの昔に暮れていて、呈舜の卓を取り囲むように配された燈明の灯りだけが呈舜の声を受けて微かに身を震わせている。普段ならばとうの昔に業務など放り出している刻なのだが、氷の大魔王……もとい甜珪の怒りにさらされた呈舜は珍しく単独で真面目に業務に当たっていた。


 もっとも、今の作業を『業務』と呼ぶか否かは、正直言って微妙だとも思うのだが。


「反省文なんて……書いたのいつぶりだろう?」


 書き上がった反省文を眺め、呈舜は小さく溜め息をついた。『初めて書いた』と言えない自分が悲しい。昔から『書馬鹿』で鳴らしていた呈舜は、それなりに色々やらかしてきたため、はるか昔には上司に叱られて反省文……もとい業務改善提言書を何枚か提出している。


「まさかこの歳になって、部下に叱られて反省文を書くことになるなんてなぁ……」


 そう言えば、昔書かされた反省文は一体どうなったのだろうか。時の上司はきちんと処分してくれたのだろうか。


 ふと、そんなことを思った。


 ──万が一、どこかの収集家とかに買い取られてたりしたら嫌だなぁ……


 一応、これでも昔はそこそこに己が有名書家であったことは自覚している呈舜である。今でも自分の作品……より正確に言うならば『はく旺供おうきょう』の作品をどこぞの好事家達が買い集めていることも知っている。宮中に上がる前から上がったばかりの時分の若い頃の作品は珍しいらしく、中々なお値段で取引されていることも知っている。


 ──残ってたら確実に黒歴史……!


 何せ一番の黒歴史が国宝として皇帝執務室に長い間飾られてしまうという中々ない経験をしてしまった呈舜だ。あの反省文達も丁寧に表装されてどこぞかに飾られていたっておかしくはない。


「うわぁ、さすがは螢架書庫長。内容が反省文でも見事な書だねぇ」

「どぅわっ!?」


 そんなことを考えていたものだから、気配すら覚らせずいきなり目の前から響いた声に呈舜は変な悲鳴を上げながら椅子ごと思いっきりのけ反った。


「あわわわわっ!?」

「おっと」


 危うくそのまま椅子ごと後頭部から石床に向かって転がりそうになったのを、伸びてきた手が呈舜の手首を取って引き止めてくれる。いきなり肌に触れた温もりに反射的にその手を振り払ってしまいそうになったが、呈舜の手を掴んだ力は存外強くて呈舜は無事に元の態勢に戻ることができた。


 元通りになった視界に、呈舜にいきなり声をかけ、ついでに窮地を救ってくれた人物の姿が飛び込んでくる。


「未榻君から聞いていたけれど、螢架書庫長ってほんとにおっちょこちょいなんだね」


 そしてその人物が誰であるか分かった瞬間、呈舜は『ヒュィッ!?』と変な悲鳴を上げたまま固まった。


「前々から未榻君に『螢架書庫長が書を書いている所を見てみたい』って言ってあったんだよね。そしたらさっき会った時に『今書庫室に行けば反省文書いてるはずなんで、鑑賞ついでに監視しといてもらえると助かります』って教えてくれてさ」


 年齢不詳な若作りな顔には柔和な笑み。ゆったりした装束に隠されてはいるが、そこそこ以上に鍛えていることは先程手を取られた時に分かった。


 灯明の明かりの下でも分かる、鮮やかな青襲の装束。下に重ねた衣が深い藍色なのは、己の名にかけてのことか。


「だから、思わず来ちゃった」


 玲鈴によく似た涼やかに整った顔で、その人はニッコリと呈舜に笑いかけた。


「う……」


 その笑みを前に、呈舜はようやく何とか言葉をひねり出す。


「胡吊祇中書省内史令……?」


 玻麗と歴史を共にする、玻麗で最も古く、由緒正しき貴族の名門。その本家当主であり、宮廷の覇権と、長姫の東宮妃立后を以って次代の後宮の覇権まで握ったと言われている宮廷の重鎮中の重鎮。


 ついでに言えば、玲鈴の実の父であり、甜珪とも交流があるらしい人物。


「いつも未榻君がお世話になってるね、螢架書庫長。彼の保護者を自認する者の一人として礼を言うよ」


 胡吊祇藍宵らんしょう中書省内史令は、呈舜の手を取ったまま柔和な笑みを深めた。


 しかし呈舜は笑みを返す返さないどころの話ではない。


 ──なんっっっっで胡吊祇内史令がこんな場所にっ!?


 中書省内史令と言えば、皇帝、宰相に次いで権力を握るお偉いさんの中のお偉いさんだ。間違ってもこんな場所にいていい人物ではない。当人が気にしなくても恐らく周囲が許さないはずだ。


「ふふっ、螢架書庫長の部下である未榻君をここ数日、こちらの事情で独占してしまっていたからね。その件を直接お詫びしたかったっていうのも、ここに来た理由のひとつだよ」


 黙り込んだまま目を白黒させている呈舜の内心が藍宵には伝わってしまっているのだろう。


 呈舜の腕から手を離した藍宵は、唇の前で人差し指を立てるとパチリと片目をつむってみせた。


「私だって、お詫びには自分から出向くさ。お詫びしたい相手を自分の所に呼びつけるような不届き者なんて世間にはいないだろう? そのお詫びをしたい相手が、息子同然の子が日々お世話になっている相手なら、尚更」

「む、息子同然……?」

「あれ? 未榻君から聞いてない? 未榻君の後見は私なんだよ?」

「へぁっ!?」

「と言っても、呪術師として名を馳せ始めてからは、もっぱら御師匠様達の方が後見として力は強くなっちゃったけれどね。でも、退魔師としての身分を引っ剥がしてただの未榻甜珪として見た時、第一の後見は私だと主張しておくよ」


 ──待って未榻君、そんな話、欠片も聞いたことがないんですけどっ!?


 文武両道博学多才、玻麗最強退魔師で優秀な官吏である呈舜の部下は、後見まで最強人物を備えていたらしい。


 ……恐らく今呈舜が内心で叫んだ言葉を当人に聞かせたら、ちょっと嫌そうな顔で肩をすくめて『そんなことをわざわざ言う必要性もなければ、そんな話題になることもなかっただろうが』とすげなく切り捨てられるのだろうが。


「そんな子がさ、日々お世話になっている人だもの。色々理由をつけて会ってみたくなるじゃない?」


 怒涛の勢いで押し寄せる驚愕にもはや呈舜は何と答えていいかも分からない。


 ただ、藍宵がそう言って微笑んだ瞬間、はたとあることに気付いた。


 ──玲鈴様と、同じ目だ。


 深い漆黒の瞳に宿る理知的な瞳。柔和な笑みが湛えられた瞳は、相対する相手に安心を与えることだろう。


 だがさらにその奥には、別の感情が潜んでいる。


「……胡吊祇内史令は、未榻君の人柄を気に入っているのですか?」


 その色に気付いた瞬間、呈舜の口から勝手に言葉が零れていた。


「それとも、有能さを利用できるから、気に入っているのですか?」


 彼らの瞳の一番奥に潜んでいるのは、呈舜を値踏みする色だった。冷静に、冷徹に、彼ら親子は呈舜の一挙手一投足を観察している。大貴族名門胡吊祇家の人間として、相手の真価を見定めようとしている。心の半分までは本当に穏やかに笑っていても、残りの半分では冷酷さを忘れていない。


 玲鈴のそれは、甜珪を守るためのものだと感じた。権力に興味関心がなさすぎる甜珪が、当人が気付かない間に権力抗争に巻き込まれてしまわないように、甜珪に代わって関わる人間を監視し、必要ならば甜珪に気付かれないうちに処分してしまおうという意図が、玲鈴からは感じられた。


 だが藍宵の意図が、呈舜には分からない。


『息子同然』という言葉がどのような意味を持つのか。どんな意図の下、藍宵が甜珪に接しているのか。


 ──未榻君の人間関係に口を挟む権利は、僕にはない。


 呈舜は背筋を正すと藍宵を真正面から見つめた。


 ──だけど、僕だって未榻君が誰かに利用される所は、見たくない。


 そんな意志を込めて、藍宵に相対する。


 その瞬間、スッと藍宵の瞳がすがめられた。


「……未榻君は、良い上司に巡り会えたようだね」


 細められた瞳が形取ったのは笑みだった。


 今まで浮かべていたどこか感情を掴ませない笑みとは違う、本当に心の底から笑っていると分かる笑みを呈舜に向けた藍宵は、表情と同じく心の底から笑っていると分かる声音で言葉を紡いだ。


「まぁ、未榻君がせっせと世話を焼いて、玲鈴が存在を許した時点で、貴方あなたが未榻君にとって良い人なんだということは分かっていたんだけどね」

「胡吊祇内史令?」

「まぁ、会ってみたくもなるじゃない? 二人に存在を許される『大人』って、本当に稀なんだから」


 一方的に語った藍宵はヒラリと席を立った。登場した時と同じく、その動きは衣擦れの音さえ伴っていなくて、ひどく気配も薄い。


「未榻君の父君はね、私が初めて宮城に上がって吏部に配属された時の上司で、私の命の恩人なんだ。そして未榻君本人は、玲鈴の命の恩人でね」


 恐らくそれは、藍宵が意図して気配を殺しているからなのだろう。ただ立っていれば圧倒的な存在感を放つ御仁であることは知っている。呈舜が見てきた歴代の胡吊祇当主は皆そうだった。


「いわば私達親子は、二代に渡って未榻家に命の恩がある。いくら尽くしても尽くしきれないっていうのに、肝心の未榻君が私達に尽くさせてくれない」


 ヒラヒラと青い装束を翻しながら歩を進めていた藍宵がチラリと呈舜を見遣って笑った。


「世界広しといえども、この私を『ただの幼馴染の親父』、玲鈴を『ただの幼馴染』として扱える人間は……大貴族胡吊祇家を『ただの幼馴染ん』と何の裏もなく言ってしまえる人間は、あの子しかいないんじゃないかな?」


 心底愉快でたまらない、といった笑みだった。


 温かでありながら、どこか泣き出しそうな気配をはらんだ笑みでもあった。


「私達は、そんな彼が、ただただ好ましく、愛おしい」


 ただ静かに、真っ直ぐ藍宵を見据えている呈舜に、藍宵は視線を向け返した。その瞬間には先程まで浮いていた笑みが消えている。


 後に残されたのは、一切の感情が消えた、触れた物全てを切り裂くような鋭さだけ。


「だからこそ、彼を不当に扱う人間を、私達は許さない」


 大貴族胡吊祇家当主たる圧を隠すことなく言い放った藍宵から、呈舜は視線を逸らさなかった。逸したら喰われると、思ったから。


 あるいは、見定めたかったから。


 そう言い放つ彼らこそが、甜珪を不当に利用しようという思惑を隠していないかを。


「……まぁ、貴方は大丈夫だと分かったから、ひとまずは安心だね」


 そんな呈舜の感情が視線を受けただけで分かったのだろう。顔に再び柔和な笑みを浮かべた藍宵はヒラリと軽やかに足を進めだした。


「今後も、何卒宜しく頼むよ? 螢架書庫長」


 そして青の装束は、闇の中に溶けて消える。


 呈舜はしばらくの間、藍宵が消えていった闇を見つめていた。その後、崩れるように椅子の背もたれに身を投げ出す。


「いやはや……なんっつー人を味方につけてるの、未榻君……」


 藍宵と対面していた時間はほんのわずかだったというのに、どこかに穴でも開いたのではないかと思うほど気が抜けてしまっていた。指先を動かすことさえ億劫なほど体が重い。皇帝と対面してもへっちゃらな呈舜が、だ。


 つまりそれだけ藍宵との対談に気力を持っていかれた、ということなのだろう。


 ──多分、意図的に圧を掛けてきてたんだろうなぁ……。いかにも貴族らしいやり方じゃない。


「……ま、でも」


 小さく呟いて、呈舜は何とか口元に笑みを浮かべてみせた。


「内史令にとっては、それだけ未榻君が大切なんだってことだね」


 実の親が子を守りたいと思うように、藍宵は甜珪を気にかけているのだろう。だからこそわざわざこうして自ら機会を作って、わざわざ自らの足で呈舜の元に赴いてきた。


 そんな『保護者』が甜珪にいるというのが、何だか呈舜には嬉しかった。


「さぁて。……仕方がないから、仕事の続きしますかねぇ……って、うん?」


 胸の内に広がった温かな気持ちを活力に変えて、呈舜は椅子に座り直すと机の上に視線を落とす。


 その瞬間、そこにあるべきである書類がなくなっていることに、呈舜はようやく気付いた。


「……え?」


 藍宵が登場する直前、確かに書き上げたはずの反省文。


 その姿が、机の上のどこにもなかった。


「ちょっ……え? 待って、どーゆーこと?」


 椅子ごと引っくり返りかけた時に床に落としたのかと卓の周囲まで探してみたが、反省文の姿はどこにもなかった。捜索の範囲を広げてみても、書物が積み上げてあるばかりで『書類』と呼べる紙はどこにもない。


 その事実を噛み締めた瞬間、呈舜の全身からジワリと血の気が引いた。


「まさか……」


 反省文は藍宵が現れるまで確かに机上にあって、引っくり返りかけた後にもあったかどうかは記憶にない。そして藍宵は席を立った後、指先を全て袂の中にしまい込んでいて手元を見せていなかった。


『前々から未榻君に『螢架書庫長が書を書いている所を見てみたい』って言ってあったんだよね』


 あの発言も、紛れもない本心であったならば。


 藍宵が呈舜の書に興味を抱いていたというならば。


「……未榻君の所まで率先して運んでくれた、とか、そういう展開、ないかな……ないよなぁ……」


 考えうる限り最悪な筋書きに思い至った呈舜は、そのままヘタリと卓に突っ伏した。




 この後、呈舜は書き直した反省文を白南宮はくなんぐうの神にも奪われ、計三回同じ反省文を書き直すことになる。


 さらに後に初稿の反省文が丁寧に表装されて胡吊祇本邸に飾られていたことを甜珪から知らされその場に膝から崩れ落ちることになるのだが、それはさらに先のお話。




【 宮廷書庫長の反省文・了 】

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