宮廷書庫長の秘蔵文書

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

宮廷書庫長の抗議文

 螢架けいか呈舜ていしゅんは決意していた。


 まさに『乾坤けんこん一擲いってきの時』が来たのである。


「働き方改革を! 提言しますっ!!」

「……は?」


 日もとっぷりと暮れ、闇だけが広がる宮廷書庫室。


 静寂と闇がとばりを降ろす中に、呈舜の唯一の部下である未榻みとう甜珪てんけいの低くドスの効いた声は静かに響いた。


 ──どうしよう、すでに心が折れそう……


 決死の宣言に返ってきた風さえ凍て付きそうな視線に一瞬呈舜の心臓が恐怖で動きを止める。


 ──いやいやいやいや! この時のために頑張って仕込みしたじゃないか自分っ!


「前々から言ってきたけど、僕達の働き方ってかなりよろしくないと思うんだよね! 開門鉦鼓とともに真面目に仕事を始めているはずなのに、退出鉦鼓が鳴ってから毎日二刻は残業している。こんなことでは心と体を壊すと思わない? 健全で真っ当な仕事は健康的な精神と体があってこそのものだというのに!」


 呈舜は己を鼓舞するとここ数日推敲を繰り返した演説をここぞとばかりにぶちまけた。甜珪はというと、呆れを顔に広げているが、一応仕事の手を止めて拝聴の姿勢を取ってくれている。全方向に厳しくて辛辣な甜珪だが、案外こういう所は律儀なのである。


「特に未榻君! 君の働き方、僕すごく心配してるんだからね!」


 その甜珪が呈舜の言葉を受けて眉を跳ね上げた。言葉にされなくてもその意味する所が『心外だな』であることは分かっている。


 ゆえに呈舜は甜珪に反論のいとまを与えずに畳み込んだ。


「いい? 冷静に考えてよ? 君は通い組だ。ここに住み込みで働いている僕と違って通勤時間というものが発生する。ちなみに君の家、どこにあるんだっけ?」

「……坊で言えば仁賢坊じんけんぼう、だが?」

「いつもどれくらいかけて出勤してるの?」

「徒歩で四半刻ちょっとだな。半刻まではかからん」

「君、一人暮らしで家のこともやらなきゃでしょ? 毎日朝どれくらいに起きてるの?」

「夜明け前には起きて支度をしているが?」

「……君、なんで仕官する時に寮を希望しなかったの? 希望すれば入れたでしょ、君の優秀さなら」

「……両親が残してくれた、数少ない遺品だからな」


 一瞬躊躇うような沈黙の後に返ってきた言葉に呈舜は思わず『んぐっ』と言葉に詰まった。何気なく向けてしまった問いに返ってきた言葉で想像以上に大変な部分を自分がえぐり抜いてしまったと気付いたからだ。


 ──未榻君のご親族って、未榻君が小さい頃に未榻君を残してみんな亡くなってるんだっけ。


 一族の集まりの場に妖怪が現れ、一族郎党皆殺しだったと以前チラリと聞かされている。いかにも唐突な死だったことだろう。妖怪に喰われた人間は死体も残らないという話だ。もしかしたら『家族が残してくれた家』というのは、甜珪にとっては『住処』や『遺品』で片付けられる以上の重みを持つ代物なのかもしれない。


「それに、祓魔寮ふつまりょうの学生だった頃から生活の流れは変わっていない。むしろ学生だった時代よりも寝れている。通いであることに問題はない」


 思わぬ地雷を踏み抜いたことに動揺している呈舜の内心を、甜珪はチラリと一瞥しただけで見抜いたのだろう。ふいっと視線を逸した甜珪は何気なく会話の軌道を元に戻してくれる。


「い、いや! 全然大丈夫じゃないから! 君の学生時代が過酷すぎただけで、今でも君は十分寝不足の域にいるからっ!!」


 その何気ない気遣いに甘えて話を元に戻しながらも、呈舜は主張を曲げることなくビシリと甜珪に指を突きつけた。


「ただの官吏だったら就業中の居眠りとかで罰則喰らうだけで済むかもしれないよ? でも未榻君の場合、夜は退魔師として現場に出てることもあるわけだよね? 睡眠不足は術の精度が鈍るって聞いたし、何より睡眠不足から判断を誤ったりしたら命に関わるんじゃないの? その辺り、玲鈴れいりん様にも心配されてるんじゃない?」


 必死に畳み掛けると甜珪の眉間にうっすらと皺が寄った。どうやら何かが図星を突いたらしい。残念なことに何が突けたのかまでは分からなかったが、特にそこが問題になることもなかった。


 呈舜が次の手を打つよりも、深々と溜め息をついた甜珪が諦めを込めてこう切り出す方が早かったので。


「……結局、どうしたいんだ?」

「それではこちらを御覧下さい!」


『待ってました!』とばかりに呈舜は懐に忍ばせていた巻物を取り出した。紐を外して端を放れば、呈舜が丹精込めて書き上げた『働き方改革提言書』はシャラシャラと作業用の長卓の上を広がっていく。


 そこに躍る文字を見た甜珪が軽く目をみはった。


「……見事だな」


 巻物の内側には墨痕鮮やかに行書体の文字が並んでいた。『提言書』と題された後ろには序文が続き、さらにその後ろには呈舜からの提言が並ぶ構成になっている。パッと見ただけならばこのまま額装して書画として飾っても十分観賞に耐えられる出来栄えだ。……内容はあくまで『働き方改革提言書』なので、間違ってもそんな扱いはされたくないのだが。


「『楷のちょう、行のおうに草のみん、何につけてもはくの筆』って言葉は聞いたことがあったが……。改めてこうして見ると、あんたすごい人間だったんだな」

「いや、それほどでも……って! そうじゃなくてっ!!」


 思わぬ場面で向けられた真っ直ぐな賛辞に思わず照れてしまったが、そんなことを言っている場合ではなかったと呈舜は気を引き締めた。今ばかりは書の出来栄えを褒めてほしいわけではなく内容に目を留めてほしかったのだと、内心でニヤニヤしてしまう自分自身に全力で張り手をかまして思考を元の位置に引き戻す。


 ──いやでも、未榻君に褒められるのって、なんかすごく嬉しいね。


 恐らく甜珪の口から零れ出た言葉が、一切裏がない心の底からの賛辞だと分かったからだろう。甜珪が『世辞』や『忖度そんたく』という言葉から縁遠い性格をしているということは、呈舜もよく知っていることだ。


「目を留めて欲しいのはそこじゃなくて内容! いい? まず第一に……」

「あ」


 嬉しさに浮き立つ内心を必死に押さえて言葉を紡いだ瞬間、書に視線を落としていた甜珪が気の抜けた声を上げた。ここまで気が抜けた声を聞くのは初めてではないかと思うほど拍子抜けした声に顔を上げれば、組んでいた腕を解いてスッと甜珪が書の一点を指差す。


「ここ、一本線が抜けてるんじゃないか?」

「えっ!?」


 思わぬ言葉に呈舜はガバッと甜珪が指差す先へ顔を寄せた。


 甜珪が指差しでいたのは、書の末尾に記された呈舜の署名の部分だった。確かによく見れば『呈』の横線が一本足りない。


「え、嘘……僕としたことがこんな初歩的な間違いを犯すなんて……!」

「いい出来なんだ。せっかくだし、今からでも書き足したらどうだ?」


 賛辞に浮ついていた心が地の底まで叩き落されたような気がした。


 思わぬことに衝撃を受けた瞬間、スッと横合いから筆を差し出される。チラリと視線を向ければ、いつの間にか甜珪が墨で満たされた硯と呈舜愛用の筆を用意していてくれた。どうやら呈舜が盛大にヘコんだ一瞬のうちに呈舜の卓まで取りに行ってくれていたらしい。


『やけに準備が良くない?』と呈舜が視線を上げれば、甜珪はいつも通りの厳しい顔で呈舜のことを見ていた。


「半端な仕事は良くない。それに……」


 その表情が、次の言葉を口にする一瞬だけ、ふわりと緩んだ。


「この書が完璧に仕上がった所を、俺は見てみたい」

「未榻君……」


 その表情と言葉、どちらに心を動かされたのかは分からない。


 だが気付いた時には呈舜の手が差し出された筆を取っていて、サラリと動いた指先が欠けていた横線を『呈』の字に足していた。


 甜珪がしてやったりと不敵な笑みを浮かべたことにも、微かな風が書に纏わりついたことにも気付かずに。


『クスッ』


 はっと呈舜が我に返ったのは、筆が紙から離れた瞬間だった。幼い子供の微かな笑い声が耳朶をくすぐったと思った瞬間、パッと目の前が明るくなる。


『今回も良い出来だこと』


 その瞬間、呈舜はなぜこの文字の線が欠けていたのか、その理由を思い出した。


「あ!」


 マズい、と思った瞬間に手を伸ばしていたがすでに遅かった。燐光を纏った呈舜の『働き方改革提言書』は呈舜の手をかいくぐるように光の粒となって姿を崩すと、次の瞬間には南天の実に化けている。あるいは呈舜の手に当たり、あるいは呈舜の手をかいくぐり長卓の上に落ちた南天の実は、バラバラと呈舜を讃えるかのように賑やかな音を立てた。


「あー!!」


 能書家・螢架呈舜の傑作は、時折南天に化ける。


 それは呈舜を召し抱え、定命を奪った……すなわち不老不死にした神が、呈舜の書を酷く愛していて己の手元に独占したがるからだ。


 の神は、自分が気に入った呈舜の書を南天と引き換えに勝手に持っていってしまう。それが書画であろうが、仕事の書類であろうが、私用の手紙であろうが関係ない。取られたら最後、返ってきた試しもない。


 不老不死になってから云十年。重要書類を幾度となく神に取られて都度書き直すハメになってきた呈舜は、次第に重要な書類ほどどこかに『穴』を作るようにしてきた。完成させないことで神に目を付けられないようにする、という術を身に着けたのである。


 今回で言えば、一本足りなかった横線がその『穴』だった。


 ──感情が乗っていつになく上手く書けたとは思ってたんだ……! そしていつものごとく寝食を忘れて没頭して書いたから、ここに穴を作ったってことを忘れてた……!


 ついでに言うならば、甜珪に思わぬ所で褒められたせいで心が浮ついていた、というのもある。


「ほぅ? まさに『画竜点睛』だな」


 不意に聞こえた笑みを含んだ低い声に、呈舜は首をカクカク言わせながら振り返った。そこにいる甜珪は呈舜の想像通り、柔らかく口元に笑みを含ませている。


 もっとも、その笑みは先程浮かんでいたものとは真逆の、寒気や黒さを孕んだ代物であったのだが。


「ところで、俺はまだ提言書とやらの内容を確認できていなかったのだが……その前に提言書の方が消えてしまったなぁ?」


 その黒さに呈舜は思わず凍り付く。


 そんな呈舜に、いっそ優しささえ感じさせる声音で、甜珪は言葉を向けた。


「つまり今回の提言は最初からなかった、ということでいいか?」


 ──はかったな、未榻甜珪……っ!!


 甜珪はきっと、最初から分かっていたのだ。呈舜がなぜ線が足りない字を置いていたのかも、それを書き足せばどんな結果に至るかも。ついでにそのことを呈舜が綺麗サッパリ忘れているだろうということも。


 全て分かった上で、呈舜の提言を効率よくバッサリと切るためにこんなことをしでかしてくれたのだ。


「あ、あの書には何の罪もなかったのにぃ〜~~っ!!」

「うるさい。そもそも、あんなモン書いてる暇があるならさっさと仕事しろ。それで終わる量だっただろうが」

「うぇ〜んっ!! 未榻君の鬼っ!! 極悪非道っ!! 仕事中毒の職人気質〜っ!!」

「お褒めに預かり光栄だ」

「褒めてないっ!!」


 呈舜は思わずわっと長卓に突っ伏した。己の提言が通らなかったことよりも力作の書が消えてしまったことが何よりも口惜しい。『泣きっ面に蜂』という言葉が頭の中をブンブンと飛び回る。


「まぁ、提言の内容は置いといて」


『そもそも未榻君ならあの短い時間でも内容を一通り頭に入れることくらいできたはずだよね!?』と涙目で膨れっ面をさらす。


 その瞬間、書架の森に消えようとしていた甜珪がポツリと言葉を零した。


「あんたの『力作』が見れたのは、いい目の保養になった」


 呈舜は思わず甜珪を振り返った。呆気に取られたのを隠さないまま振り返った呈舜に、一瞬だけ目が合った甜珪がふわりと柔らかな笑みを見せる。


「やっぱりいいな、あんたの『書』って」


 そんな言葉と笑みを残して、甜珪は書架の森の中に消えていった。後には甜珪が残した笑みの余韻と闇だけが残る。


「……え。あんなことやっといて、そんなこと言う?」


 何だかズルい。呈舜の心に今の言葉がどれだけ響くか、甜珪は分かって口にしたのだろうか。


 ──いや、多分、分かってないんだろうなぁ……


 何せ甜珪は、世界一『世辞』や『忖度』から縁遠い性格をしているので。


「……今の発言に免じて、今回のことは許してあげよう、うん」


 自分自身に言い聞かせるように呟き、呈舜は己の卓にストンッと腰を降ろした。甜珪が律儀に元の位置に戻しておいてくれた愛用の筆を手に取り、仕方がないから仕事の書類に向き直る。


「でもいつか、絶対にこっちの提言は呑んでもらうんだからね!」


 呈舜の呟きが聞こえているだろうに、闇の向こうから返ってくる声はない。


 そんな静寂に耳を澄ませてから、呈舜はサラサラと、程よい出来栄えを心がけながら筆を滑らせたのだった。



【 宮廷書庫長の抗議文・了 】

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