第2話 AM 7:15——

 今日もまた、美術準備室に来た。

 でも今は掃除の時間でもなければ、演劇部の部活終わりでもない。


 朝練の前に大道具の様子を確認しようと思って、職員室から鍵を借りてきたのだ。美術の水咲先生はまだいなかったけど、「演劇部で使うので」と言ったら、生徒指導主任の進藤先生が貸してくれた。


 西側に位置する美術準備室は、朝日の恩恵を受けないので、まだ薄暗い。

 大道具の進捗状況やサイズ感を確認して、朝練で使えそうな小道具をいくつか手に取る。必要なことが終わって腕時計を見ると、まだ朝練が始まるまで時間があった。


「ちょっとだけ」


 またあのデッサンへと足が向く。いつも夕方や夜に見ていたデッサンが、朝にはどう見えるのか、気になってしまった。

 今日はどの作品を鑑賞しよう、と考えてコレクションを覗き込むと、一枚だけ質感の異なる画用紙が挟まっている。好奇心の赴くままに、それを引っ張り出してみた。


「わぁ……」


 そこには後ろ姿が描かれていた。ワイシャツを着て、襟足が少し伸びている。モデルは、例の人かもしれない。多少のなで肩から広がる背中に、たくましさと優しさを感じた。

 でも、今までの作品とは何かが違う。


「あれ?」


 ふと右下を見ると、今までのデッサンにはなかった筆跡がある。でもそれは極めて筆圧が薄く、細かくて、うまく読み取れない。

 よく目を凝らして見ると、うねうねと波線のようなものが見えた。

 ……いや違う。波線じゃない。


「m、m……」


 2つの小文字のmが筆記体で連なっていた。その時、モデルが誰なのかを悟った。


「水咲先生の……自画像……」


 特徴的な鷲鼻わしばなに、引き締まった輪郭。たくし上げたシャツから見える腕の血管。

 ただデッサンに描かれた水咲先生は、どれもまどろんでいるような瞳をしている。いつもははっきりとした、力強い二重なのに。



 でも、このデッサンに描かれた人が、私は好きだ。


 つまり私は、水咲先生が好きなんだ。



 だけど、先生への片想いは実らないなんてことは、とっくに知っている。叶うのはフィクションの世界だけ。それにこのご時世では、たとえ叶ったとしても先生の方が厳罰を下されてしまう。好きだからこそ、そんな迷惑をかけることはしたくない。


 私は背中が描かれた自画像を元に戻し、正面から描かれたもう一枚の自画像を取り出した。これが一番、目力を感じられる一枚だった。

 その柔らかそうな唇に、思わず目が行ってしまう。これに実際に触れたら、どんな感覚がするんだろう。……やだな、こんな風に鑑賞したことなんかなかったのに。

 太陽に照らされない彼の顔は、いつもよりあやしく見えた。


「先生……」


 そのまま一息に呟く。


「キス……しても、いいですか?」


「いいよ」


「えっ?」


 不意に後ろから声がして、背中を震わせる。

 恐る恐る振り向けば、そこには力強い二重の水咲先生がいた。少しの間、私を射抜くように見つめ、でもすぐに力の抜けた表情になる。


「……って言ったら、どうする?」


「あ、や、その……」


 想い人が目の前にいることの高鳴りと、秘密の瞬間を見られてしまった羞恥心しゅうちしんが私を襲う。瞳は乾燥していないのに、ともすれば恥ずかしさで泣き出してしまいそうなのに、何度も何度も瞬きを繰り返した。


「僕の自画像、自信がなくて仕舞い込んでたんだけど、見つかっちゃったね」


「いや、その……すごく、素敵で」


 良かった、と笑う水咲先生は、何度もデッサンで見てきた、あのまどろんでいるような、視線の先にある何かを慈しんでいるような瞳をしていた。


「じゃあ……花岡さん、成人するまで待ってて」


 そう言って、水咲先生は「じゃあね」と去っていってしまった。




 あれから半年。

 私は十八歳になった。まだまだ学生なのだけれど、表向きは成人だ。


 誕生日当日は登校日だった。

 演劇部の発表も終わり、美術室の掃除当番ですらなかったけれど、なぜだか無性に美術準備室へ行きたくなった。水咲先生の言葉が忘れられなかったからだ。


 放課後、職員室で鍵を借りた。水咲先生は休みだった。「もう演劇部は引退したでしょう」と言う進藤先生には、「失くしものをしちゃったんです」と伝えれば、渋々といった感じで鍵を貸してくれた。騙しているようで罪悪感が襲ったけれど、それ以上に足があの部屋へと私を急かす。


 鍵を開け、あのデッサンが仕舞われた場所へ向かった。あれから先生はデッサンを新たに描いてはいない。最新作の後ろ姿のデッサンも、画用紙の色が少し変わってきていた。

 でも久々に見てみたら、質感の異なる画用紙がまた一枚、挟まっている。


「あ……えっ」


 水咲先生の最新作だった。右下にはmmのサイン。


 制服姿ではない、私のような女性と、水咲先生が、口づけを交わしていた。夕日にすかしてみれば、裏側に何か筆跡のようなものがある。

 裏返すと、そこには自分のサインよりずっと濃い筆圧で、『m to h』と描かれていた。


真尋まひろから、日菜ひなへ……」



 先生と生徒の恋愛。


 それは誰にも言えない、禁断の恋。



 こんな危ない恋愛が叶うのは、フィクションの世界だけ。


「絵でなら、叶うもんね……」


 彼の遊び心に思わず笑みがこぼれる。水咲先生の本心は分からない。だけどこの理想の世界を描いてくれたことが、何よりも嬉しかった。


 絵の中の彼の横顔に、そっと唇を近づける。

 ……相手が絵なら、許されるでしょう?


「ありがとう……真尋先生」


 最高の誕生日プレゼント。

 軽く画用紙に触れた唇を離し、その世界を丸ごと胸に抱いた。




 この作品は、誰にも言えない、秘密の宝物。

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秘密の準備室 水無月やぎ @june_meee

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