秘密の準備室

水無月やぎ

第1話 PM 5:30

 みんなは学校に、秘密のお気に入りスポットってあるんだろうか。

 そんなことが、ふと気になった。


 私にはある。

 小学校の時は、校庭のモクレンの木の下。かくれんぼしたり、本を読んだりする時によくお世話になった。

 中学校の時は、廊下の端に置かれたベンチ。早朝や放課後に、あそこでジュースを飲むのがなぜだか好きだった。


 で、今通っている高校では——


「断然、ここかな」


 そう私が独りごちたのは、美術準備室。三階建ての校舎の最上階、最も西側に位置する美術室の奥にある、六畳程度の部屋だ。

 中には美術部の人たちが作りかけの油絵や水彩画、彫刻、版画などの作品が置かれている。作品だけではなくて、たくさんの用具も置かれていた。絵具や新聞紙の匂いが鼻をつく。でもこの匂いが、何だかたまらない。


 いつもは鍵がかかっていて、美術の授業中でも入ることは許されない。

 なぜ私が入ることができるのかというと、私のクラスは教室以外の掃除当番の際、美術室を任されているからだ。あと、私が演劇部の部長だから。


 掃除の時には準備室の換気や軽い掃き掃除を頼まれるので、中に入ることができる。それから、期間限定ではあるものの、部活の所用でも入室を許された。

 演劇部では大道具と小道具の色つけやデザインを美術部に協力してもらっていて、美術部と演劇部共同で管理することになっている。未完成の道具の状況をチェックしたり、衣装ケースが幅を取り、演劇部に入り切らない大道具を美術部に管理してもらったりしているのだ。演劇部の活動中に美術準備室から道具を出して使ったら、活動後に戻すのが部長の仕事。だから私には、他の生徒よりもこの美術準備室に入れるチャンスがたくさんあった。


 今は演劇部の活動が終わって、美術部が試作してくれた小道具を返しに来た所だった。準備室の鍵は、美術担当の水咲みずさき先生から預かってきた。小道具を元の位置に戻して、(帰宅したら、美術部の子に試作品が完璧だったってことを連絡しよう)と考えていた。


「でもその前に……」


 美術準備室を出る前の、私のルーティーン。


 それは、あるデッサンを見ること。


 部屋の少し奥まった所に、そのコレクションはひっそりと存在していた。

 全て同じ人をモデルにしたデッサンで、様々な角度で描かれている。

 正面を向いたもの、右側の横顔、左側の横顔、斜め上から見たもの……。

 このうちの一枚を、スーッと取り出して、夕日にかざして見るのが私の楽しみだった。もちろん、バレないように、取り出したデッサンは必ず元の位置に戻している。


 モデルは誰かに似ているようで、でも誰かは分からない人だった。

 描いた人が誰なのかも、分からなかった。デッサンの端には、サインも何もない。ただ画用紙の色が気持ち色褪せてきていて、最近描かれたものではなさそうだな、と思う。


「綺麗……美術部の人が描いたのかな」


 特徴的な鷲鼻わしばなに、引き締まった輪郭。さっぱりとした短髪は前髪だけが目にかかるほど長く、少し濡れているような質感であった。そして、まどろんでいるような、視線の先にある何かを慈しんでいるような、優しい瞳。わずかに上がった口角。顎に添えられた、骨格がはっきりしている左手。その長い指や、腕から浮き出た血管が妙に艶かしく感じて、思わず息を飲む。このデッサンだって、もう何回も見ているのに、なぜだか毎回初めて見るような新鮮さを感じていた。


「あれー、美術室、まだ開いてるの?」


 遠くから初老の男性のような声がして、私は小さく飛び上がってしまった。慌てて、でも慎重に眺めていたデッサンを戻し、部屋の電気を消して鍵を閉める。

 廊下の方を見れば、生徒指導主任の進藤先生がこちらを覗き込んでいた。


「あ、あのっ、部活の備品戻してただけですっ」

「もうすぐ下校時間ですよ。花岡さん、早く準備してね」

「はい、すみません」

「準備室の鍵、私が職員室に返しておくから」

「すみません。お願いします」


 今日のデッサン鑑賞タイム、終了。ちょっぴり後ろ髪を引かれるような思いだ。

 その思いに気づいた時、私は恥ずかしさのあまり、廊下をダッシュしてしまった。「焦ってても廊下は走らないよ!」と進藤先生に注意され、「すみませーん!」と大声で叫ぶ。



 あぁ、私ってば。



 あのデッサンに、私、恋をしている。

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