私を連れ去って④

 部屋の隅で震える紀田。その姿を三人はただ見ていることしか出来なかった。異常なほどに怖れを抱いているように感じたからだ。

 同時に景の目には、二階の廊下とは比べ物にならない濃度の恐怖の影が視えていた。それは、影と呼ぶには色濃く、黒煙が充満しているといってもいい程であった。


「おい、カズ! 大丈夫か?」


 震える紀田を落ち着かせようと駆け寄る新川だったが、紀田は近くの物を投げつけ人を寄せ付けようとはしなかった。そこに、物音を聞いた母親がやって来る。

 酷く怯え、目の焦点が定まっていない息子を見た母親はその場で泣き崩れるしかなかった。


「どうしてっ! なんで和希がこんなことに……」


 そんな母親を前にして、真は思わずポロリとこぼす。


「PTSD……」

「多田くん、それは?」

「心的外傷後ストレス障害です。この状態は何というか……すごくそれっぽいなって」


 この場に居合わせた四人は紀田が落ち着くのを待ち、静かに部屋を後にした。その後、父親が帰宅したことにより、緊急の話し合いが開かれた。

 その場には、景、真、新川と紀田の両親がいた。


「まさか……和希がそんなことになっていたなんて、私は父親失格だ……。どうして気が付かなかったっ!」

「あなた、自分を責めないで……。私も同じよ」


 母と父はそれぞれに自分を責めた。


「多田くん、先程言っていたことですが……」

「PTSDのことですか?」

「僕は、その症状のことを詳しく知らないので教えてもらえますか……。ご両親も気になってるはずです」


 紀田の父親とは話し合いの前に軽く挨拶を済ませてある。両親ともに息子のことは気掛かりでならないようで、快く景と真の二人を受け入れてくれた。


「俺も詳しいわけじゃないですけど、PTSDっていうのは心的外傷を受けた際に起きる後遺症みたいなものです」

「待ってくれ! カズに何があったんだよ!」

「落ち着いて下さい新川さん。今は現状を整理しなくては対応のしようがありません」


 声を上げる新川を景が優しく諭す。


「では、息子に何かその……心的外傷になりうる事が起きたということでしょうか?」

「すみません。わからないです。けど、ああなった理由は必ずあるんだと思います」

「一体何が……」

「……それで多田くん、主にどんなことが紀田さん……。和希さんに起きてるんですか?」

「PTSDってのは、心が耐えられないほどの良くない経験したときに現れるらしいです。よく聞くのが、戦争から戻った兵士がまともな生活をできないくらい物音に過敏になったりして、家から出られなくなったり、何かに怯えたりですかね……」

「それじゃあ、カズに何かあってあんなことになってるのは間違いないってことか?」

「そうだね、あの様子だと確実に何かあったと思う……」


 真の説明と今の紀田の状況を照らし合わせ、空気がより重くなる。


「名取さん。また、視れませんか?」

「…………」

「名取さん?」

「……少しだけなら、視ましょう」


 景と真の会話の意味がわからない三人は不思議な顔をする。そんな中、景は紀田の両親にもう一度部屋を見せてほしいと頼む。


「今はあまり刺激しないでもらいたいが……」

「あなた、でも今のままでも……」


 二人は少し考え、わかりましたと再度二階へ行くことを許した。

 

 景は階段を上り、壊れた扉が入口に立てかけられた部屋へ向かう。そばには、真と新川がいた。景はそっと扉を開け、中に入る。紀田は部屋の隅で眠っており、特に騒ぎが起きることはなかった。

 景は部屋の中心で立ち止まると天井に向けて手をのばす。瞬間、景が倒れる。真と新川は急いで駆け寄った。


 二人に運び出された景の顔は青ざめ、先日同様に唇が紫に変色していた。真と新川の二人は紀田を起こさないようゆっくりと部屋をあとにした。




『ちょっと待っててね!』

『ああ』


 遠くに二人の女子高生がいる。嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが、混在していた。

 二人は仲睦まじく、楽しそうに話していた。靴を脱ぎ捨て海辺を歩く。次第に二人の影は遠くなり声が聞こえた。


『おーーーい!』


 遠くから目一杯手を振る少女。遠目にもわかる長い髪を揺らし、夕日と海辺と合わせて本当に絵になった。

 そんな二人を追って、海岸沿いを歩く。

 

 二人は視界から消え自販機で飲み物を購入していた。そして、戻ったときには走り出していた。二人のいる海に向かって。


 視界が水に犯される。喉が水に犯される。真横には目を見開いた髪の長い女がいた。


 その眼はこちらを見ていた……。




 景が目覚めたのは倒れて数分後の事だった。真と新川に運ばれ、紀田家リビングのソファーを借りていた。


「よかったですよ。ちゃんと起きてくれて」


 安堵した様子の真が景を見ていた。その周りに新川と紀田の両親もいた。


「僕は、どのくらい倒れていたんですか?」

「ほんの十分くらいですよ。でも、マジで良かった。つい最近似たようなことあったから焦りましたよ」

「すみません。皆さんにご迷惑をお掛けして……」

「とにかく、今日は一旦帰りましょう。これ以上お邪魔しても悪いですし」


 真は新川と共におぼつかない足取りの景を支える。


「あの……和希は大丈夫でしょうか?」


 母親の問いかけに真が答える。


「すみません。俺たちは医者じゃないので何もわかりません……。けど、あれを放って置くのはまずいと思います。だから……」

「多田くん……。少し待ってください。原因はなんとなく分かりました」


 景の言葉に一同が驚く。

 そんな周りの空気を感じた景は落ち着いて聞いて下さいと前置きをした。


「彼は……死体を見てます……。それも、目の前で」


 景の放った予想外の言葉にその場の空気が凍りついた。

 何度もあった沈黙、今回のそれは比べ物にならないくらい冷たく重くのしかかる。


「その死体……おそらく、片桐硝子さんでしょう」

「名取さん、それじゃあ……」

「はい……。捜し人は亡くなってるということです。そして、彼女の影を辿るには和希さんの存在が必要不可欠になりました……」


 景は、後日改めて伺わせていただきたいと伝え、新川を含む三人で紀田家を出た。

 

「俺の家、近所なんで一人で帰ります」

「いえ、もうこんなに暗いですから送りますよ。多田くんお願いできますか?」

「別にいいですけど、名取さん大丈夫ですか?」

「僕は平気です。先に車に戻ってます」


 真は、気を付けてくださいと景に念を押した。


 車の運転席に座った景は考えていた。紀田の想影に触れた瞬間流れ込んできた、記憶の断片について。強い想いは感情だけでなく記憶を残す。景はそんな記憶を読み取ったのだ。


 この読み取ることができる想影。総じて残っているものは負の感情であった。残っているのではなく、遺っているという表現が適切な場合が多い。


 景の不調の原因はまさにそれだった。大きすぎる負の記憶を景の身体と心が耐えられないのだ。常人なら心が壊れているかもしれない。それこそ、紀田のように……。


「お祖母ばあ様……僕は……どうすれば……」


 結んだ長い髪を解き、景は呟く。そのまま、再び落ちるように意識が切れた。

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