幼日の姉姫⑤

 景と猿渡の元に朱音が戻ってくる。戻ってくる時の朱音の顔は、明らかに収穫を得た表情だった。


「名取さん!」


 朱音は弾む調子で景に声をかけた。


「その様子だと、収穫はあったようですね」

「はい! ばっちりです。けど……」


 景から言われたことを守り、語尾を濁す朱音。その視線は猿渡を見ていた。


「大丈夫です。教えて下さい。猿渡さんには既に話してあります」

「そ、そうですか……」


 朱音は自分の居ない間に何があったのか不思議に思った。幼稚園へ来る前は、頑なに話さないようにと念を押された朱音だが、それを景の方から話していたからである。

 どうして、さっきはダメで今はいいのだろう。そんなことを朱音は考えていた。


「朱音さん?」

「あっ、はい。すみません。えっと、やっぱり、なっちゃんと呼ばれている人は秋奈ちゃんのお母さんでした」

「そうですか……」


 朱音の報告にどこか重くなる空気。だが、それは別として、景は話の先を朱音に聞いた。


「それで朱音さん、捜し人はどうなりましたか?」

「17時頃には秋奈ちゃんを迎えに来るそうです」

「後1時間半といったところですね」

「ちょっと、歩いてきていいかな……。じっとここで待ってるのも何ていうか……」

「分かりました。必ず時間には戻ってきて下さい。これも条件のうちです」

「お、おう……分かってる」


 猿渡は落ち着かないのか、ソワソワしながら車から降りた。車内には景と朱音二人だけとなる。

 朱音はこの機を逃すまいと気になることを聞いた。


「名取さん、どうしてお母さんの事、話しても良くなったんですか?」

「それは、彼が覚悟を決めたからです」

「覚悟?」

「ええ……じきにわかります」


 朱音は景が何故頑なに話そうとしないのか不思議だった。


 それから時が経ち、捜し人が来るであろう時間が近づく。だが、猿渡は戻っては来なかった。


「遅いですね? 猿渡さん……」

「ええ……。そろそろ戻ってきてもいいのですが……」


 それから数十分、とうに時間が過ぎても猿渡は戻らなかった。しかし、それだけではない。秋奈を迎えきた人もまた、いなかった。


「……名取さん」

「……探しに行きましょう」

「でも……!」


 朱音が何かを言いかけたとき、一人の男性が幼稚園へと入っていく。しばらくした後、その男性は秋奈と共に出てきた。


「あっ! 名取さん! あれ!」


 景と朱音は急いで車を降り、二人の元へと駆け寄る。


「秋奈ちゃん!」

「ん? ……あ、朱音ちゃん!」


 どうやら短い時間で随分仲良くなったらしい。


「秋奈、知ってる人かい?」

「うん! 朱音ちゃん! お母さんを探してたの!」

夏月なつきを?」

「どうも、私、井澤朱音といいます。こちらは名取景さんです」

「これは丁寧にどうも、桂春彦かつらはるひこです」


 桂と名乗る男性はきれいに整えた髪に黒縁のメガネ、服装はスーツだ。いかにも会社員といった雰囲気だろう。

 桂の左手は秋奈と繋がっていた。


「秋奈ちゃん、もしかしてお父さん?」

「うん! お父さん! いつもはお母さんが来るんだけど今日は来れなかったんだってー」

「そうなんです。どういうわけか妻から連絡があって、それで私が秋奈を迎えに来たんです」


 妻の代わりに迎えに来たという言葉を聞いて、景は思い当たった。


「話の途中にすみません。桂さん僕たちと一緒に来てもらえませんか?」

「ん? どうしてですか?」

「もしかすると、既に二人は逢っているのかもしれません……」

「どういう事でしょうか? なぜ私が……」

「僕は依頼を受け、必ず二人を合わせると約束しました。ですので、家族である貴方にも出来れば見届けて欲しいんです」


 景の力強い言葉にただ考え込む桂。そんな沈黙を破るように秋奈が声を上げる。


「わたし、お母さんのところ行きたい!」


 その言葉が決め手となり、景、朱音、桂、秋奈の四人は消えた二人の行方を追う事にした。



 猿渡は一連の話を聞いて気分が沈んでいた。ずっと探してきた想い人に子供、家族が出来ていたからだ。およそ十年近く想い続けた猿渡にとってはショックが大きかった。

 子供の頃の約束、猿渡にとってそれは、心の支えで夢だった。成長するにつれ荒れた時期もあったが、その気持ちだけは不変だったのだ。


「……結構歩いたな。もう戻っても間に合わねぇや……やっぱり逃げるか?」


 一人、そんな自問自答を繰り返す。

 傾く夕陽は妙に眩しく、遠くの影が蜃気楼のように歪んで見えた。次の瞬間、暖かいものが頬を流れた。それは猿渡自身の涙だった。


「何だよ……これ」


 急に溢れる涙。それは拭っても拭っても止むことはなかった。するとそこに……。

 

「あの、どうかしましたか?」


 突然の声に驚く、その声はどこか懐かしいような響きを持っていた。恐る恐る振り返る。そこには、髪の長い綺麗な女性がいた。猿渡には、はっきり分かった。薄い化粧こそしているが、この女性こそが猿渡冬陽が探し続けたなっちゃんだと……。


「なっちゃん……?」


 その言葉に女性は僅かに反応する。それと同時に驚いた表情。そんな彼女の口から出たのは……。


「ふゆくん?」


 幼い頃、互いに永遠を誓い呼び合った名前だった。


 

 お互いを認識し合った二人は横並びで歩いていた。夏月は急な用事が入ったと電話で何かを伝えていた。二人は、初めこそ硬かったが次第に緊張も解れ、懐かしい日々を互いに思い馳せる。そんな中、折角来たのだからと夏月はとっておきの場所を教えると猿渡に提案した。もちろん猿渡もその話に乗る。そうして、二人が訪れた場所は、サクラソウが咲く広場だった。


「ねえ、ふゆくん。ここ綺麗でしょ!」

「そうだな……」

「ふふ、変わったね。昔はもう少し可愛かったよ? 今は男の子って感じ」

「そりゃ、男だからな。逆になっちゃんは変わんない気がするわ」

「えー、綺麗になったでしょ?」

「そりゃ、まあ……」


 猿渡が返答に困っていると、夏月は深刻な話でもするかのように切り出した。


「ねえ……ふゆくん。……どうして聞かないの?」

「え?」

「私がいなくなった事……」

「それは……気にしてないっていうか」


 尚も言葉に詰まる猿渡。すると夏月が話を続ける。


「怖かったんだ……。最後に会って、どんな顔して別れればいいのかなって考えたら怖くて、言いだせなかった」

「そんな、仕方ないよ」


 気丈に振る舞う猿渡。しかしそれは虚勢だった。実際当時はものすごく泣いていた。探し回りもした。

 猿渡は今しかないと思った。会ってこんな顔をさせる為に逢いに来たわけじゃない。本当の想いを、抱き続けてきた想いを精一杯ぶつけよう。そんな覚悟を決めていた。


「あのさ! なっちゃん俺っん!」


 猿渡は動揺した。何が起きているのか理解するまで時間がかかる。ほんの数秒の出来事、けれどそれはとても長く感じた。唇と唇が触れていたのだ。


 永遠に近い感覚。僅か数秒。一つが二つに分かたれた。


「いきなりごめんね。困るよね、こんな急に……」

「どうして……どうしてなんだよ! 何でこんなことするんだよっ! 俺はちゃんと……さよならって、いい……たくて……」


 大粒の涙が地面に落ちる。同時に力なく猿渡は膝から崩れ落ちた。


「ふゆくん!?」

「俺は…、ずっと今でもなっちゃんが好きだ。大好きだ……。けど、なっちゃんは先に大人になって……結婚して、子供がいて、だから……だから……」


 涙を流し、嗚咽混じりに言葉を紡ぐ猿渡。夏月はそんな猿渡を優しく抱き締めた。


 そこに景たち4人が到着する。想影を辿りやってきたのだ。母親を見つけた秋奈は声を上げそうになるが、父親の桂がそれを止めた。


「私だって、ずっとずっと大好きだよ。きっと、生涯でこんなに人を好きになったことはないよ……」

「じゃあ、なんで……」

「私ね、ずっと空っぽだった……。ずっと後悔してきた。どうして最後に会わなかったの? どうしてさよなら言わなかったのって。最低だって……。そんなときにね、春彦が近くにいてくれた」


 夏月は猿渡と同じ想いの丈を涙混じりに吐き出す。


「代わりにしたんだよ……春彦のこと。本当にどうしようもないくらい最低で、最悪で、けど、それでもいいって受け止めてくれた……。そして気付いたら春彦のこと好きになってた……」

「……そっか。辛かったんだな……なっちゃんも……」


 それからしばらく二人は座り抱き合ったまま時間が過ぎた。陽が沈む中、ぬるい風が吹き抜ける。その風は、サクラソウの薫りを仄かに運びその場を包み込んだ。


「ふゆくんも……幸せになってね」

「なっちゃん……負けないから……」

「だから……」

「……今だけは……」


 二人はサクラソウ咲き誇る中、幼き日に約束した、叶うことのない誓いのキスを……そっと交わした。



 景たちはそんな光景ただ見ていることしか出来なかった。今だけは、誰にも邪魔できない二人だけの世界。そんなふうに映る。


「すみません桂さん……僕が、連れ出したばかりに見たくないものを見せてしまいました」

「ええ……本当に……」


 景は桂に誠心誠意頭を下げた。


「確かに見たくはなかった光景です……でもあれが、私が愛した彼女なんです。一途に想って傷付いて……その優しさこそが愛おしかった」

「きっと……二人は最高の恋と最大の失恋をしたんですね……」


 朱音は二人が良き恋をしたと涙声で言った。その言葉に対し、桂が反応する。


「いや違う。あれは二人にとって……最大の恋で最高の失恋だよ……」


 二人が落ち着いた頃を見計らって、景たちは歩み寄る。陽は落ち辺りが暗くとも、サクラソウの薫りだけは強く残っていた。

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