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 ──少しだけ時間は遡って、ゆかりが“自室”に引っ込んだ直後の話。


 「もぅっ、あの子ったら、ホントお気楽なんですから」


 台所で買い物袋の中身──おもに肉や野菜などの食材類を冷蔵庫にしまいながら、由佳は軽く溜息をついていた。


 (まぁ、気持ちはわからないでもないのだけれど……)


 こんな普通ではおよそ有りえない体験を、1ヵ月の期限付きで満喫できるとあれば、好奇心旺盛な縁のテンションが上がるのは、ある意味当然と言えるだろう。


 (あの子……じゃなくて、“お母さん”、こっちに引っ越して来てから退屈してたみたいだものね)


 “夫”──もとい、父の仕事の関係で、都心から北関東の地方都市であるこの場所に引っ越して来たことで、どうも余暇の趣味・交友関係その他に色々と支障をきたしていたようなのだ。


 (私は住むのにはいい場所だと思うんだけど……)


 家の立地は緑の多い閑静な住宅街だが、駅前近くの商店街に行けば日常的な買い物は一通り揃うし、彼女の趣味である読書をまかなうための書店は数軒ある。


 ただし、フィットネスジムやテニスクラブ、あるいはカルチャーセンターの類いは、残念ながら近隣にはほぼ見当たらない。強いて言えば、書道や生け花の個人教室とゲートボール同好会の貼り紙くらいはあったろうか。

 身体を動かすのが好きで、好奇心も旺盛なゆかり──ではなく“縁”にとっては、やや退屈な環境だったのだろう。


 そんなことを考えつつも、由佳の身体はごく自然に出雲家の“夫婦の寝室”へと移動して着替えを行っている。

 といっても、首飾りを外してスカートとサマーセーターを脱ぎ、代わりにタンスの2段目から出した、ライトグレーのジャンパースカートを履いただけだが。


 彼女の行動にはなんらためらいや戸惑いは見当たらない──まるで、この部屋のどこに何が入っているのか全部知っているかのように。


 時計を見ると、そろそろ午後4時半を回る頃合いだった。


 (今日の夕飯は──イワシのフライとホウレンソウの胡麻和えでいいかしら)


 それに加えて「昨日の晩作った卯の花の煮物とキュウリのピクルス」が残っているから十分だろう。

 幸いにして、ちちは再来週の頭まで北海道に出張中だ。炊飯ジャーに残っているご飯の量も、母子ふたり分なら問題あるまい。

 その2品なら1時間もあれば余裕だから、夕飯の支度は6時頃から始めればよい──と、当たり前のように主婦としての計算を手早く行った由佳は、それまでの時間をつぶすべく、居間で女性週刊誌をめくり始める。


 そして、居間の柱時計が6時を告げたところで、雑誌をマガジンラックに戻して、エプロンを着け、夕飯の用意にとりかかった。


 今日の献立はとりたてて難しいわけではないとは言え、由佳の手際の良さは、断じて家庭科の授業以外に殆ど料理をしたことのない12歳の少女のものでは有り得なかった。


 それなのに、そのことに違和感を感じる風もなく、由佳は鼻歌まじりに10かの如く、野菜を茹で、魚をさばき、的確な油加減でフライを揚げていくのだ。


 やがて、今夜の晩餐の支度が整ったところで、二階の子供部屋にいる“娘”に声をかけた。


 「ゆかりちゃん、そろそろ晩ご飯ですよ~」

 「──はーい、いま行くー!」


 ゆかりが素直に返事をしたことに安堵すると、由佳はエプロンで手を拭きながら食器を棚から出して、盛り付けを始めるのだった。

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