桜の歌を君と

平本りこ

桜の歌を君と

 校門の側、色とりどりの花が咲き誇る花壇の裏。それが、自分の力では動くことも叶わない樹木の身体を持つわたしの定位置だった。


 春が訪れ、ひとしきり薄紅の花を咲かせたわたしは、本当ならばもっと称えられて良いはずなのに、花壇裏という残念な場所に植えられてしまったがために、誰にも顧みられずひっそりと花を散らす。それが毎年のことであり、もうとっくに諦めていた。


 卑屈になるわたしを、純粋な目を輝かせて見上げてくれる男の子がいた。


 出会いは新学期。少年は毎日放課後に、花壇に水やりに来る。多分、今年の「フラワー委員」とやらなのだろう。だぶだぶの白いシャツに包まれているのは心配になるくらいに細い身体で、優しくつぶらな瞳が特徴的なその顔は、桜の花弁くらいに白い。あまりに可憐だったので、最初は女の子かしらと思ったくらいだ。とっても小柄なので今春の新入生だと思っていたのだけれど、指定運動着のラインの色が青だったので、きっと三年生だろうと知れた。来年高校生になると思えば、何とも頼りない姿だった。


「こんなところにも桜が」


 こんなところとは聞き捨てならない。だが、誰かの目に留まったことが久しぶりだったので、わたしは何だか照れくさくなってしまう。驚くことに、彼は青いジョウロでわたしの根っこあたりに水を撒き始めた。別にそんなことをしてもらわなくても、わたしの頑丈な根は、地中深くに水を蓄え、一人で生きていくことができるのに。


 ――でも。


「花壇のお花も可愛らしいけれど、君もとっても綺麗だ」


 柔らかく呟く声に、悪い気はしなかった。






 晴れた日には、彼は毎日ジョウロを持ってやって来た。花壇に水をやり、わざわざもう一度水汲みに行ってから、わたしに向かってジョウロを傾ける。


「今日は暖かいから、喉が渇くでしょう」

「体育の授業で転んじゃったよ。僕、運動苦手でさ」

「明日小テストがあるんだって。点数が悪かったらお母さんに怒られる」


 いつも一人でやって来てはぶつぶつと呟いて帰るので、友達がいないのかしらと心配になる。


「僕、将来お医者さんになるんだ。小さい頃からそう決まっていた」

「本当はもっと遊びたい。大人になったらやりたいことが他にあるんだけど」


 いつしか彼は、どこか陰のある言葉を囁くようになっていったけれど、去り際には決まって上機嫌に鼻歌を歌って帰る。それはいつだって、わたしの知らない曲だった。そして、一度たりとも同じ旋律を口ずさむことはなかった。あの日までは。






 ある日彼は、ひと際長い曲をわたしに聞かせてくれた。


「どうかな、この曲。君をイメージしたんだけど。題名はもちろん『桜の歌』かな」


 口があれば「そんな単純な」と言っただろう。それでも、まるで木漏れ日が煌めくような、温かく美しい音楽に、わたしは樹液が沸騰するような感覚を覚えた。それは未だかつて出会ったことのない感情だった。この気持ちの名前を、わたしは知らない。







 梅雨の間、彼はやって来なかった。青々とした葉を風雨に打たれながら、わたしは孤独に過ごす。何十年もずっとこうしてきたはずなのに、名前も知らないあの男の子のハミングが、とてもとても恋しく思えた。辺りに響くのは、雨が地を打つしっとりとした旋律だけ。 






 気温がぐっと上がる時期。太陽の陽射しが心地よい。夏の気配に木の葉が躍るような気分がした。


 嬉しいのはきっと、長らく求めていた陽光を存分に浴びることができるからだけではない。雨が止めばまた、彼がやって来る。


 いつもの時間、いつものジョウロ。けれど、今日の彼は一言も話さない。ただ黙々と、水を撒く。その表情は、どこか暗いようだった。やがて一筋、煌めくものが彼の白い頬を伝った。


 ――どうしたの?

 聞いてみたくても、わたしには口がない。

 ――泣かないで。

 涙を拭い、抱き締めてあげたいのに、わたしには腕がない。それがどうしようもなく、もどかしい。





 

 ある日、水やりをする彼の背後に、意地悪い笑みを浮かべた二人組が現れた。


「おい、今日も水やりかよ」

「お友達はお花だけだもんな」


 馬鹿にされても彼は何も言わない。見ているわたしの方が、苛立ちを感じてしまう。あまりの怒りに、樹皮が逆立つような感覚を覚える。あの悪ガキに、虫でも落としてやりたい。わたしの枝葉には、何十もの可愛らしい毛虫たちがいたのだけれど、あいにく自分では振り落とせない。どうか風よ吹け。毛虫を奴等の顔面に――。


「ぎゃああああ! 毛虫、顔に!」


 甲高い悲鳴を聞いて、願いが叶ったのかと思ったが、それは違っていた。


「あ、ごめんね。わざとじゃないの。でもそこにいると危ないよ。また毛虫飛んじゃうかも」


 太陽のように明るい印象の女の子が、腰に片手を当てて立っていた。もう一方の手には、木の枝。先端には三匹のけむくじゃら。


「おまえ、三組の」


 今にも掴みかかりそうな様子の悪ガキ。わたしが人間だったなら、暴力の気配に思わず両手で目を覆っただろう。けれど残念ながらわたしはただの桜の木。花壇裏で繰り広げられるやり取りをただ見守るしかなかった。予想に反し、事態は穏便に収まりそうだ。


「おい、待って。あの女子確か、二組の藤沢の彼女……」

「え!」


 三年二組の藤沢と言えば、校門横から動けない桜の木でも知っているくらい有名な、やんちゃな男子だったはず。


 藤沢の名前に怯えた悪ガキ二人組は、「覚えてろよ」と月並みなセリフを残し、去って行った。


 ふう、と息を吐いて、藤沢の彼女が振り向いた。わたしを見たのではなく、ジョウロの男子に目を向けた格好だったが。


「大丈夫? あたし、三組のサキ。あなたは?」

「……大木……コウキ」


 長くつややかな黒髪を高い位置でポニーテールにした可憐な彼女は、男の子ににっこりと笑いかけた。


「コウキ君、よろしくね。あたしも今日からフラワー委員なの」


 サキは足元から、青いジョウロを拾い上げる。少年の白い頬に朱が差した。わたしの葉が騒めいた。


 そうだ、わたしはただの木なのだから、これ以上彼――コウキの心に寄り添うことはできないのだろう。


 出会ったのはわたしが先だった。でも、何か月経ってもわたしはコウキの名前すら聞く術を持たなかった。わたしの根元で彼がいじめを受けていても、助けることもできず、ただ眺めているしかない。どんなに恋しく思っても、ただ彼の訪れを待つしかない。とても受け身な、何の変哲もない植物。






「へえ、コウキ君は将来音楽家になりたいんだ」


 夏休みに入ったからといって、花壇の水やりを止める訳にはいかない。フラワー委員は当番制のはずなのに、なぜかサキは毎日昼頃になると現れた。その理由は、会話の中で判明する。


「あたし、吹奏楽部なんだよ。コンクールがあるから毎日練習があって」

「大変だね。その、藤沢君とのデートとか、どうしているの」

「最近は全然! でもいいの。あいつも部活で忙しいみたいだから……。毎日花壇を眺めている方がね、癒されるの」

「だから毎日昼に、お花に水をあげに来るんだね」

「うん。ずっと部室にいると気が滅入っちゃって……。ほら、誰がコンクールに出るかを決めるオーディションが迫っているし」

「練習は大丈夫なの?」


 昼時だというのに、音楽室からは楽器の音が漏れ出ている。きっと他の部員は、ほんのわずかな時間すら惜しんで練習を続けているのだろう。サキは切ない微笑みを見せた。


「うん、多分ね。あ、そうだ、ちょっと待っていて」


 サキは一方的に言って、ジョウロを花壇の縁に置き去りにして校舎へと駆けて行く。少しの間、目を白黒させていたコウキは、サキのチェック柄のスカートが消えた辺りの角を眺めてから、不意に頬を緩めた。見たこともないくらい、優しい微笑みだった。わたしに目があれば、そっと視線を逸らしただろう。


 サキは、すぐに戻って来る。手には、きんぴかに光るラッパを持っていた。サキはコウキに楽器を差し出す。


「はい、どうぞ」

「え、どうぞって」


 サキは半ば強引に、ラッパを押し付けた。ぐいぐいとやられてしまい、気弱な性格も手伝ってか、コウキは恐々とした手つきで楽器を受け取った。


「これ、私のトランペット。そこに口を当ててみて」

「サキちゃんの……て、ええ!」


 裏返った声が、わたしの枝で羽を休めていた小鳥を驚かせたらしい。弾かれたように翼を広げ、彼らは青空に飛び去った。


 きょとんとした顔でコウキを見るサキ。コウキはなぜか顔を真っ赤にして、それからもじもじと楽器をいじった。


「サキちゃんの楽器ってことは、ここ……吹き口。間接キ」

「あ、ちゃんと違うの付けたから、汚くないよ。安心して」


 サキは楽器から吹き口だけを外して見せた。なんだ、取り外せるのか。コウキは、ほっとしたようでいて少し残念そうな微妙な表情をした後に、素直に唇を当てて息を吹き込んだ。


 くぐもった、何かが詰まったような調子っ外れな音が、花壇の花々を揺らした。


「全然だめだ」

「そりゃそうだよ。すぐ吹けるようになるのなら、あんなに練習しないもの。貸して」


 サキは慣れた手つきで吹き口を取り替えて、さらりと音階を奏でて聞かせた。コウキの出した音とは枯葉と若葉くらいの差があった。


「ねえコウキ君。あれ歌って。『桜の歌』」


 コウキはいつもの柔らかい美声で、自作の曲を口ずさむ。サキは何度か音律を辿ってハミングをしてから、音を楽器に乗せた。


 トランペットの伸び伸びとした音が、『桜の歌』に命を吹き込むようだった。コウキの笑顔が弾ける。


 この曲はわたしのために作られたものだったけれど、ただの木であるわたしには、その魅力を引き出すことができない。そして、コウキの笑顔を輝かせることだって、出来やしないのだ。






 時が過ぎ、わたしの枝から全ての葉が落ちる頃。花壇の花々も枯れて果ててしまい、水やりも不要になる。コウキとサキも、その他の当番も、水やりついでにわたしの前にやって来ることはなくなった。


 時々思い出しかのようにコウキが現れて、サキの話をしていくけれど、そんなもの、少しだって聞きたいとは思わなかった。それでもわたしは、塞ぐべき耳をもたないのだから仕方がない。


 ある冬の日、コウキはぽつりと呟いた。


「サキちゃんが好きなんだ」

 ――そんなこと、わたしはとっくに気づいていた。

「でもサキちゃんには、藤沢君がいる」

 ――あんなやんちゃ男子より、コウキの方が素敵よ。それに夏頃に聞いた話だと、あまり上手くいってないみたいだし。

「もうすぐ卒業だ。もう会えなくなってしまうのに、彼氏がいる子に好きだなんて言えない。だけど伝えなかったらきっと後悔する」


 卒業。毎年繰り返されるイベントだ。長い時を生きるわたしは、また騒がしい時期になるのだな、程度の思いしか抱いたことがなかった。でも、今年は違う。卒業式を終えてしまったらもう、コウキには会えなくなってしまうのだ。


 コウキはわたしに寄りかかり、少し黙り込んでから、微笑みを浮かべて顔を上げた。


「卒業式は23日だよ。桜、咲くかな」


 卒業式の時期にわたしが花を付けていたことはほとんどないのだけれど、今年は例年よりもずっと温かい。わたしを見て、「綺麗だ」と言ってくれた、唯一の人。コウキの門出を祝う日に、未だ固い蕾が開くように……わたしは陽光を求めて腕を伸ばした。そして。






「サキちゃん」


 木漏れ日の下、卒業生のコサージュを胸に付けたコウキとサキが、わたしの前で向き合っている。卒業式の後、男子が女子を呼び出す。その目的は、誰の目にも明らかだ。


 互いに緊張した面持ちの二人。コウキが、強張った唇を勇気を振り絞って開いた。


「ずっと君のことが――」


 陽の光を浴びて、数えるほどに花開く薄紅の花弁が、二人の背中を押すように風に揺れていた。






 あれから、わたしは再び孤独な日々を繰り返す。春が来てひっそりと花を咲かせ、花壇の花々を羨ましく眺める。雨風に花を散らし葉を茂らせて実を結び、気温が下がれば丸裸になって、また春を待つ。


 そんな単調な日々を、何年も何年も繰り返す。ふと気づけば、校舎は古び、花壇は崩れて花が植えられることもなくなった。生徒の声が消え、もちろん音楽室から漏れ出る管楽器の音もない。


 この学校は、今年廃校となる。少子化のため、この町にはこれほどの数の中学校はいらなくなったのだろう。校門が封鎖され、校舎を取り壊すための重機がわたしの側を行き来する。校舎へ続く坂道の両脇を飾っていた桜の木は、少し前に伐採されてしまった。目立たない場所にいるわたしだけれど、もちろん彼らと同じ運命を辿るのだ。


 ヘルメットを被った男が、わたしを切り倒すためにやって来る。伐採のための機械の駆動音が近づく。それは死の足音。


 長い長いわたしの生涯を思えば、コウキと過ごした一年は、そよ風が木の葉を揺らし陽光がちょっと揺らめくくらいの、ほんの短い時間。


 けれどそれは、生涯で最も優しく最も苦いひと時。あれは紛れもなく恋だった。ただの木であるわたしが抱くにはあまりに不相応な感情で、誰が聞いてもおかしな話だと思うだろうし、そもそもこの気持ちを他者に伝える方法はない。


 生まれ変わって、人になりたいなどとまでは言わない。それでも望まずにはいられない。ずっと彼の側にいたい。願わくば、彼を輝かせることの出来る存在へ。そう、サキが『桜の歌』に命を吹き込んで、コウキを笑顔にしたように――。






「先生、これなに?」


 とある小児科。白く清潔な待合室で、少女が目を輝かせている。


「ギターだよ。先生の思い出の桜の木で作られている」


 白衣姿の壮年男性が、大切そうに腕に抱えるのは、滑らかな木製のギターだった。指先で軽く弦を弾く。彼は遠い目をして曲を奏でた。それは、まるで木漏れ日が煌めくような、温かく美しい旋律。


 ほう、とため息を吐き、少女が鼻を啜って身を乗り出した。


「綺麗。何て歌?」


 白衣の男性は微笑んで、愛おしそうにギターをつま弾く。


「『桜の歌』」


 待合室に、もの悲しい旋律が響く。それはギターの音色と調和をし、音楽を一つ高みへと導いた。


 今やこのギターより他に、この曲の魅力を余すことなく引き出すことができる楽器はない。 



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