クロノスタシス

御角

クロノスタシス

 恋とは何だろう? 愛とは何が違うのか、友達や家族に対する気持ちとどう違うのか、それが私にはわからない。

 わからないまま、小学生のまま、私は幽霊ゆうれいになってしまったから。


 幽霊になったきっかけは本当にしょうもないものだった。同級生が止めるのも聞かず勝手に学校の屋上へ出て、勝手に遊んで、気がついたら勝手に落ちてこのザマだ。自業自得。

 それでも両親や先生、同級生達は私のために泣いてくれた。それが余計に辛くて、声も涙も出ないまま私も一緒になって泣いた。


 あれからもう二十年、今頃いまごろみんなはもう私の存在など忘れていることだろう。眠る私に未だに花を持ってきてくれるのは両親と、同級生の男の子が一人だけだ。あの時、屋上へ行こうとした時に必死になって止めてくれた男の子。

 皮肉なもので、当時の親友とも呼べるほど仲の良かった友達は誰一人として私のことなど気にも留めていない。それが普通なのだ。

 誰もが二十年と言う歳月さいげつの中でいやでも前に進んでいく。未練がましく立ち止まっているのは、私一人だと、そう思っていた。

 でもあの男の子、圭人けいと君は違った。一年に一回は必ず花を持って私のもとにやってきた。両親がいくら遠慮えんりょしても、僕にも責任があるからと、そう言って引こうとしなかった。

 やってくる度に、彼はどんどん背が伸びて、声もいつの間にか低くなって、それでも優しくて泣き虫なところは昔と全然変わらなかった。


 どうしてここまでしてくれるんだろう。彼は何も悪くないのに。彼はもう、前に進んでいいはずなのに。

 そう思って彼に沢山たくさん話しかけても、追い返そうとしても、幽霊の身体では何一つ出来なかった。ただ、彼が目の前に来る度に、そこには無いはずの心臓が熱くなって何だか温かい気持ちになった。


 知らず知らずのうちにいつしか、私は来る日も来る日も彼が訪れるのを待ちがれるようになっていた。


『ねぇお母さん、恋ってなあに?』

『んー? それはねぇ……。今のソラにはちょっとだけ早いかもしれないね』

『えー、いいじゃん! 教えてよ、減るもんじゃないんだし』

『そうねぇ……。例えばソラに好きな人が出来たとするでしょ? 気がついたらその人のことを一日中考えて、夜も眠れなくて、ずっと心がドキドキして苦しい……。でも、考えるのを止めることは出来ないの。それが恋、かな』

『苦しいの? だったら私、恋したくないなぁ……』

『そうね、ずっと苦しいかもしれない。でもそれ以上に温かくて、笑顔になれて、幸せで尊い。恋って大切なものなのよ。良いことも悪いことも含めて、ね』

『うーん、よくわかんないなぁ……。美樹ちゃんとかお母さんに対する気持ちとは違うの?』

『ソラは友達やママのことを考えるとドキドキする?』

『……よくわかんない』

『いいのよ、今はそれでいいの。いつか、大人になったらあなたにもわかる日が来るわ』

『なにそれ、ズルい!』


 ——ピピッ。


 ふと気がつくと辺りは明るく、朝日がすでのぼった後だった。どうやら、幽霊でも夢は見るらしい。なつかしい、小学生のころの夢だった。

 結局、私は大人にはなれなかった。母に聞いたの答えは、もう一生わからないままだ。その事実を久しぶりにの当たりにして胸が苦しくなる。

 もしかしたら恋の苦しみも案外こんな感じなのかもしれない。私は無理矢理そう納得して、心を落ち着けることしか出来なかった。


 目覚めた後、辺りを見渡すと今日も綺麗きれいな花が私の側に生けられていた。青く、み切った空のような色のスミレ。圭人君が毎年持ってきてくれる花だ。そうか、彼が、来ていたんだ。

 その色が視界に入った時、何かのどにつっかえたような、心臓がしぼられるような心地が一瞬、身体をよぎった。苦しくて、でもうれしい。一年ぶりに彼の存在を感じることが出来たのがこの上なく嬉しい。


 ——ガラッ。

 扉を開けるような音がして、彼が急に目の前に現れた。どうやらついさっきここに来たばかりだったようだ。

 瞬間、自分の鼓動こどうが速さを増すのが体ではっきりとわかる。彼には私が見えないと、そう頭ではわかっていても彼の顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。目覚めた時のあのむなしさの何倍も、苦しくて辛い。

 どうしよう、これではまるで夢に見た恋そのものだ。もしかして私は彼に、私のことをいつまでも覚えていてくれる彼に恋をしてしまったのだろうか?


 決して実ることもなく、誰にも理解されない、叶わぬ恋。もしも、この気持ちがそうならば、私はこれからどうやって過ごしていけばいいのか。まさか永遠に苦しみ続けるしかないのか。

 こんなことなら、お母さんに失恋した時の対処法も聞いておけばよかった。最初から、恋なんて知らないまま落ちてしまえばよかった。


 何だか両手が熱い。彼の声が聞こえる度に、全身の血が体の隅々すみずみまで駆け巡る。目に映るスーツの彼が徐々にぼやけて——。

 ついには、私の視界は完全にやみに閉ざされた。




「——なぁ、クロノスタシスって、知ってるか?」

「……」

「そっか、小学生の頃のままなら知ってるわけないか。ごめん……」


「クロノスタシスっていうのはさ、アナログ時計があるだろ? あれの秒針、一番細いあの針をじっと見ていると時々その秒針が止まって見える、そういう現象のことなんだ」


「でも時計がこわれているわけじゃない。錯覚さっかくなんだよ、人間が誰しも感じる錯覚。規則的に動いていると脳の処理が追いつかないんだ」


「……俺はさ、あの時からずっと、後悔しっぱなしなんだ。覚えてるか? お前が屋上に行った理由」


「星だよ。俺が望遠鏡持ってるって言ったらお前、貸してってしつこくて。仕方なくちょうど持ってた双眼鏡を渡したら高いところで見るって聞かなくてさ……。まさか本当に夜の学校に忍び込んで屋上に行くとは思ってなかったんだ」


「あの時さ、ちゃんと止めてれば、それか双眼鏡を貸さなきゃ、こんなことにはなってなかったのかなって、そう毎日思ってた。いつまでっても、二十年経った今でもあの日のことが頭を離れなくて……」


「俺達の時間は、あの時止まった。今もずっと止まってる」


「でも、それは錯覚なのかもしれない。止まったと思ってるのは俺達だけで、本当はまばたき一つで動き出すのかもしれない」


「——だから俺は医者になった。お前を、お前と俺の時間を、もう一度動かすために」



 白衣を着た圭人は、目の前で横たわるソラの頭にいくつもの電極でんきょくを取り付け、ただひたすらに語りかけていた。圭人だけではない。

 両親も一緒に、祈るような目で彼女を見守っていた。父は彼女の右手を、母は彼女の左手を強く握りしめ、必死に呼びかけ続ける。

 彼女が夢から覚めることを、この場の誰もが望んでいた。

 ピピッ。

 血圧と心拍数の上昇じょうしょうを機械が感知する。彼女の身体は確実に、息を吹き返しつつあった。




「……う、うーん」

 視界が真っ白に染まる。二十年ぶりの日の光が、私の網膜もうまくを片っぱしから焼き尽くした。それが痛くて、まぶしくて思わず目をつぶる。

「ソラ? ——ソラ!? 嘘、信じられない……!」

 段々と焦点しょうてんが合い出した目に、随分ずいぶんと歳をとってしまった両親が、子供のように泣きわめいている姿がぼんやりと映った。

「……う……あ」

 一体何が起こったのか、どうして光が眩しくて、更に両親が泣いているのか、聞きたいことは色々あったがどれも言葉にはならなかった。

「目が、覚めたか」

 聞きなれた低い声、いつもお見舞いに来てくれた圭人君だ。私が想像していたよりも背は低いしスーツも着ていないけれど、それでも優しくて、泣き虫で。

「……ほら、俺の言った通り。錯覚だった」

 そう涙声で語る彼は最高に格好良かった。

 ピピッ。

 血圧と心拍数がまた上昇する。ドキドキして、苦しくて、でも彼が側にいることが幸せでたまらない。私を抱きしめて泣きじゃくる彼がどうしようもなく愛しい。そうか、これが……。

「け……く、ん」

「ん? どうした」

 まだ言葉で伝えるにはリハビリが足りないから。まだ誰にも、あなたにも、この気持ちは言えないから。

「ん」

 私はそっと、彼のくちびるにキスをした。

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