第12話

 JR垂水駅から電車に乗って、藤川静香は懐かしい職場のあるJR甲子園口に降り立った。改札を出て、駅舎から駅前のロータリーを見下ろすと正面に【タイ古式マッサージ】の看板がある。懐かしさで鼻の奥がツンとなる感覚を藤川静香は覚えた。日は落ちているが、駅前のちょっとしたにぎやかさは夜の始まりの高揚を演出しているかのようだ。


「この中にはあの日の私がいる」

 その緊張のせいか、数十年ぶりの数段降りるその階段は、思ったよりも段差が大きく藤川静香には感じられた。

「緊張するのは当然ね。でも、私を心太さんに会わせるのよ。そのきっかけを、今から、ちゃんと、私に、与えるの」小さく藤川静香は呟いて、自分を鼓舞する。そして、店のドアを、開けた。


 カウンターに腰かけている若い日の自分と目が合い、藤川静香の足は少しすくみ、震えた。一呼吸の後、会釈をする。「いらっしゃいませ。お一人様ですか? 空いているカウンターのお席へどうぞ」マスターが声を掛けてくれる。「よかったら、一緒に飲みません?」と言いながら隣のスツールを引いてくれた、寸分違わぬ記憶のとおりの若き日の自分に誘われるまま、「あら、嬉しい! では、お隣お邪魔させてもらおうかしら。うふふ」と、藤川静香は隣に座った。


 酒の酔いというよりは、記憶と違わぬ情景が記憶と違う視点から見えている感覚に酔ってしまったのかも知れない、そんな事を藤川静香は思っていた。くらくらとした眩暈にも似た感覚が目の前の光景から現実感を奪っている、そんな風にも藤川静香には思えた。記憶とは違う立場で、記憶どおりの会話を再現している……覚え込んだシナリオを演じているというよりは、自然な振る舞いがそのままパズルのピースの様に記憶をなぞり重なっていく。


「えー!ホントですかー!めっちゃ嬉しい! 行きます行きます!明日海にお散歩に行ってきます。そして、今はトイレに行ってきます!」と若い日の自分が席を立ちトイレへ向かったのを見届けた時、藤川静香は自分の身体の変化に気が付いた。指先が透けて見えている。時間を捻じ曲げて人が一人過去に存在するその不条理が解消される時間が迫っている。藤川静香は直感的にそれを理解した。メッセージを記入済のポストカードと高額紙幣を数枚カウンターに藤川静香が置いた瞬間、藤川静香の存在は周りの全ての人間から見えなくなった。


 霧散していく自らの指先や体を知覚しながら藤川静香は思った。

「うらやましいわ。あなたはこれから心太さんと出会えるんだもの。そりゃあね、大変な事もあったわよ。でも、心太さんと過ごしたそれらは全部、間違いなく幸せな思い出なの」

 帰ってきた若き日の自分がポストカードを手に取って見ている事が藤川静香には見えている。幽霊ではないが、おそらく限りなく幽霊に近い存在であろう。

「目一杯、愛して、そして、愛されるのよ」

 そう発声ともつかない思いを発して、藤川静香の存在は完全に霧散し、この時間から、消えた。

「ん?何か言った?」

 来海静香はマスターにそう話しかけた。

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