小品 ― 人殺し ―

人殺し

　風の具合（ぐあひ）で濕（しめ）つた苔（こけ）の匂（にほひ）が鼻を掠（かす）める。

　自分は離（はなれ）へ續（つゞ）く暗い廊下（らうか）を渡つてゐる。闇（やみ）の庭（には）を打つ雨の音。

　離（はなれ）には御祖父（おぢい）さんが待つてゐる。

「小助（こすけ）です」

　障子（しやうじ）越しに聲（こゑ）を掛ける。中（なか）から、おゝと應（こた）へる。紙燭（しそく）を吹消（ふきけ）し戸を引くと、燭臺（しよくだい）の脇（わき）で火鉢（ひばち）に覆（おほ）ひ被（かぶ）さるやうに、御祖父（おぢい）さんが蹲（うづくま）つてゐた。何だか、魔（ま）でも見た氣（き）がしてどきりとしたが、知らぬ素振（そぶり）で部屋に這入（はひ）つた。

「其所（そこ）を御閉（おし）め。濕氣（しつけ）が這入（はひ）る｣

　自分は少し慌（あは）てゝ障子（しやうじ）を閉（た）てた。御祖父（おぢい）さんの向ひに端座（たんざ）する。兩手（りやうて）を置いた袴（はかま）がどうもごは〳〵して片付かない。遠い雨の音が染渡（しみわた）る。

「御前（おまへ）の父（ちゝ）と兄（あに）とは戰（いくさ）に出てゐる」

　御祖父さんが漸（やうや）く少しだけ顏（かほ）を擧（あ）げる。燭臺（しよくだい）が稍（やゝ）御祖父さんの脊中側（せなかがは）にあるため表情（へうじやう）は暗くて判（わか）らない。但（たゞ）、闇（やみ）の奧（おく）で底光（そこびか）りする憂鬱（いうゝつ）に濁（にご）つた瞳（ひとみ）を自分は想像（さうざう）した。

「……然（しか）し、酷（ひど）く降るものだな……　此程（これほど）に降れば、ずぶ濡れになつて難儀（なんぎ）してをらうな」

「はい……」

「――時に御前（おまへ）も、もう直（ぢき）元服（げんぷく）だな｣

「はい」

「元服すれば其（その）內（うち）に戰（いくさ）にも出よう。戰で御前（おまへ）は死ぬかも知れない。どうだ、怖いかね｣

「怖くなんぞ、ありません」

　自分は稍（やゝ）むつとして、きつぱり答へた。本當（ほんたう）に怖くなんかなかつた。戰で死ぬのは寧（むし）ろ本望（ほんまう）だつた。其（それ）が武士だと思つてゐた。

　すると、御祖父さんは暫（しばら）く押默（おしだま）つた。

　雨の音。

　袴（はかま）の上（うへ）の掌（てのひら）に、じつと汗が滲（にじ）んでくる。

「御前（おまへ）は槍（やり）が巧（うま）いさうだな」

「はい」

　槍もさうだが、近頃（ちかごろ）は、寧（むし）ろ小太刀（こだち）の方（はう）に興味が移つてゐた。然（しか）し、取敢（とりあ）へず御祖父さんの云ふ事には肯（うなづ）いておいた。

「御前（おまへ）、槍（やり）で人を衝（つ）いた事はあるかね」

「はあ……」

　自分は聞かれてゐる旨（むね）が、もう一つよく判らなかつた。

「否（いや）、何（なに）、人を殺（ころ）した事はあるのかと聞いてゐるのだよ」

　無論（むろん）人を殺したことなんぞある筈（はず）がない。自分は小さな聲（こゑ）で「いゝえ」と答へた。

「御前に人が殺せるかしらん？」

　暗がりの中で御祖父（おぢい）さんが首を傾（かたぶ）けた。

　其（その）斜（なゝ）めになつた頭を眺（なが）めて、不意（ふい）にはつとなつた。

「憎（にく）くもない相手（あひて）を殺すのだ。御前（おまへ）に出來（でき）るかね」

　御祖父さんが茶碗（ちやわん）に湯を注（そゝ）ぐ。何だか退引（のつぴき）ならないものを突付（つきつ）けられた氣（き）がした。

「どうだい。人を殺す事が出來（でき）るかね」

　御祖父（おぢい）さんは禪坊主（ぜんばうず）のやうに意地（いぢ）が惡（わる）かつた。自分は袴（はかま）の上の兩手（りやうて）を拳（こぶし）に握（にぎ）つた。脂汗（あぶらあせ）。突（つゝ）かひ棒（ぼう）を嵌（は）められたやうな咽（のど）の奧（おく）からやつと聲（こゑ）を搾出（しぼりだ）す。

「むゝ、……こ、殺せます」

　すると御祖父さんは呵呵（から〳〵）と笑ひ始めた。

「其（それ）で可（い）い。其で可い」

　御祖父（おぢい）さんは尚（なほ）も笑ひ續（つゞ）けた。自分は段〻（だん〳〵）腹が立つてきた。

「然（しか）し、御前（おまへ）、よおく覺（おぼ）えておくが良（い）い。武士だ、武士だと威張（ゐば）つてゐるが、侍（さむらひ）とは人殺（ひとごろ）しだよ」

　ぎくりとした。

「一寸（ちつと）も偉（えら）くなんかは無（な）いのさ。人殺（ひとごろ）しだもの」

　隨分（ずいぶん）な冒瀆（ぼうとく）に思はれて、憮然（ぶぜん）となつた。

「夫（それ）に、殺すべき相手（あひて）にしても、惡辣非道（あくらつひだう）な咎人（とがにん）なんぞではない。まあ、御前の御父（おとつ）さんや兄さんみたやうな、立派（りつぱ）な武士（ぶし）だよ。其（その）立派な武士を殺すのだ。――殺された人にも親（おや）はゐよう。妻子（つまこ）もゐよう。御前は其人達（そのひとたち）の仇（かたき）になるのだ。仇として一生（いつしやう）恨（うら）まれるのだ。さあ、御前（おまへ）は愈〻（いよ〳〵）人殺（ひとごろ）しだ」

　人殺し、人殺し――其言葉（そのことば）を肚（はら）の中で反芻（はんすう）した。御祖父さんは一體（いつたい）何が云ひたいのだらうか。何（ど）うにも量（はか）りかねた。　

　――否（いや）、寧（むし）ろ本當（ほんたう）の所は、御祖父（おぢい）さんの言葉の裏側（うらがは）に眞實（しんじつ）が――其（それ）も、何（ど）うにも厄介（やくかい）な眞實（しんじつ）が顏（かほ）を覗（のぞ）かせてゐるのが見えたのだらう。さうして其眞實（そのしんじつ）が曝露（ばくろ）される事が途轍（とてつ）もなく怖ろしかつたのだ。夫（それ）で、御祖父（おぢい）さんの云つてゐる趣意（しゆい）が判（わか）つて了（しま）つては大變（たいへん）だ、判つてはならぬと頑張（がんば）つてゐたやうに思はれる。

「死んでも極樂（ごくらく）なんぞへ行けるものかね。皆（み）んな地獄（ぢごく）か、或（ある）いは修羅（しゆら）、畜生（ちくしやう）だよ。どうだい。御前は夫（それ）でも人を殺すかね」

　自分には答（こた）へゞき言葉（ことば）が見付（みつか）らなかつた。先刻（さつき）から、何だか得體（えたい）の知れない厭（いや）な者に後（うし）ろから摑（つか）まれて、壓（おさ）へ付けられてゐるかのやうな氣（き）がする。握（にぎ）つた掌（てのひら）が愈〻（いよ〳〵）汗でぬめ〳〵する。

「小助（こすけ）」

　御祖父さんがぬつと身を乘出（のりだ）した。

「夫（それ）でもな……　夫（それ）でも、やつぱり、殺すのだよ」

　嗄（しはが）れた重い聲（こゑ）―――脊中（せなか）の厭（いや）な者が、耳許（みゝもと）で囁（さゝや）いたやうにも感ぜられた。

　自分は、はつと、御祖父さんの暗い顏（かほ）を見据（みす）ゑた。最早（もはや）、雨の音も耳には這入（はひ）つて來なかつた。

「小助、いゝか、夫（それ）でもやつぱり、殺すのだよ――」

　念を押すやうに繰返（くりかへ）すと、御祖父（おぢい）さんは體（からだ）を捻（ひね）り、燭臺（しよくだい）を少し前（まへ）の方（はう）に引寄（ひきよ）せた。

　御祖父さんの目も眞直（まつす）ぐに自分を見てゐる。

「武士たる者、其所（そこ）から逃出（にげだ）してはならんのだ。逃げるのは卑怯者（ひけふもの）のする事だあね」

　仄（ぼん）やり燈（あかり）に照らし出された御祖父さんの相貌（さうばう）は、嚴（きび）しく眞劒（しんけん）だつた。

　自分は片付（かたづ）かない思ひで、深い皺（しわ）が刻（きざ）まれた顏（かほ）を見詰（みつ）めてゐた。

「自らの眞面目（しんめんもく）を人殺しだと呑込（のみこ）んだ上（うへ）で、其所（そこ）から一歩も退（ひ）かぬ。其（それ）が士（さむらひ）の道であり、忠（ちゆう）であり、義（ぎ）でもあるのだ。己（おのれ）の業（ごふ）の忌（いま）はしさから目を逸（そ）らさぬ事だな。『命を惜（お）しむな、名を惜しめ』などゝ人は云ふが、名なんぞ惜しんでゐる內（うち）は未（ま）だ本物ぢやあ無いのさ。命も、名をも棄（す）てゝこそ武士なのだよ」

　御祖父さんは其所迄（そこまで）云ふと、茶碗（ちやわん）の湯を呑（の）み乾（ほ）した。耳の奧がしいんとする中で、御祖父さんの咽（のど）をごくりと鳴らして湯が通る音がはつきりと聞こえた。

「だから、まあ、侍は豪（えら）いとも云へるのだよ。其（それ）が、武士の本當（ほんたう）の豪（えら）さだよ」

　御祖父さんが云つてゐる事は、隨分（ずいぶん）亂暴（らんぼう）で無茶だつた。但（たゞ）、訣（わけ）が判（わか）らない乍（なが）らも、紛（まぎ）れも無い眞實（しんじつ）が其所（そこ）に存在してゐるらしい事は直觀（ちよくゝわん）された。さうして、其眞實（そのしんじつ）には一切（いつさい）容赦（ようしや）が無かつた。

「まあ、可（い）い。未（ま）だ御前には判らないだらう。今は判らなくとも可（い）い。然（しか）し、己（おれ）が云つた事はよおく覺（おぼ）えておくが良（い）い。其內（そのうち）にきつと判るから」

　さう云ふと御祖父（おぢい）さんの頰（ほゝ）に笑（ゑ）みが浮かんだ。何時（いつ）もは氣難（きむづか）しげな御祖父さんが、此迄（これまで）見た事もないやうな顏で、晴れやかに頰笑（ほゝゑ）んでゐた。

「此所（こゝ）にほれ、御餠（おかちん）があるが、御前（おまへ）燒（や）いて食べるかい」

　遠（とほ）くの雨の音が、再（ふたゝ）び自分の耳に甦（よみがへ）つてきた。

　閒（ま）も無く德川家（とくせんけ）は瓦解（ぐわかい）した。父は戰（いくさ）から戻（もど）つて來たが、兄は到頭（たうとう）歸（かへ）らなかつた。

　爾後（じご）、父も母も、兄の事は一切（いつさい）口に出さなかつた。但（たゞ）、佛壇（ぶつだん）の御供（おそなへ）を此迄（これまで）よりも頻繁（ひんぱん）に換（か）へる母の姿（すがた）を目にするやうになつた。

　或日（あるひ）の午后（ごゞ）、ふと佛閒（ぶつま）を開けてみた所、佛壇（ぶつだん）の前にきちんと跪（ひざまづ）いた母が、じつと位牌（ゐはい）の方（はう）を見詰（みつ）めてゐた。自分は何だか惡（わる）い事でもしてゐる氣がして、再びそつと襖（ふすま）を閉めた。又別の日には、後架（こうか）から目を赤く腫（は）らした母が出て來た事もあつた。

　自分も亦（また）、母に向かつて兄の話を噯（おくび）にだに出した事は無かつた。

　結局自分は一度も戰（いくさ）に出ぬ儘（まゝ）、御一新（ごいつしん）の世を迎（むか）へた。

　軈（やが）て御祖父（おぢい）さんは亡（な）くなり、今では父も母も、もうゐない。

　今頃（いまごろ）になつて漸（やうや）く、あの晚（ばん）、御祖父さんの云つてゐた事が、半分許（ばか）り自分にも了解（れうかい）されるやうな氣（き）がしてきた。

　成程（なるほど）士（さむらひ）の道とは、實（じつ）に何とも知れないものである。

　無闇（むやみ）に一途（いちづ）で、莫迦〻〻（ばかゞゝ）しく、ぎり〴〵と瘦我慢（やせがまん）許（ばか）りしてゐるやうなものだと思ふ。

　だから侍（さむらひ）なんぞ偉（えら）くはなくつて、やつぱり侍は豪（えら）いのである。

　但（たゞ）、其（その）やうな事が朧氣（おぼろげ）に判（わか）つた今、自分の腰（こし）から最早（もはや）大小（だいせう）は無（な）くなつてゐる。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜了＞