小品 ― 青い柿の実 ―

すらかき飄乎

青い柿の実

 荒物屋のお婆さんが、眉根を寄せて帰ってきた。


 今日は上の寺で法話の会があったのである。年に一度、阪本にある大きな寺から偉い坊さんが来て話をする日が今日だった。

 この商店街では、同じ地区にある上の寺の門徒が多く、隣近所の年寄連、ことにお婆さんらが三十人ばかり集まったのだった。


「人間は忘れるということがあるから良いのであります」


 阪本から来た四十恰好の坊さんは才走った目付をしていて、お婆さんには初めからどことなく険があるようにも思われたが、それでも言葉付や声はどこまでも穏やかに、そしてよどみなく滔々とうとうと話をした。


「忘れると申しますと、物忘れとかね。今日はご年配のご婦人方が多いですが、お年を召していらっしゃいますと段々とね。どうしても忘れっぽくなってしまって。悪く言えばけとかね。ああ、皆さんがそうだと申しているのでは決してありませんよ。どうかお間違えのないように。でも……例えば、あの人、近頃呆けちゃって――とかね…… そうはなりたくないとお思いの方も多いでしょう。忘れっぽいなどということは、事程左様ことほどさようにとかく忌嫌いみきらわれるようではありますが…… 実はね、忘れるということはね、一面においては良いことでもあるのです。どうです? 皆さん、そんなことがあるのかというお顔ですねぇ。――ほら、例えばね、事故なんかで小さいお子さんがお亡くなりになったりすることがありましょう…… 新聞なんかを見ておりましてもね。本当に、痛ましいことですね」


 お婆さんは、はっとした。


「親御さんやご家族の方々、それはそれはお嘆きでしょう。当座の間はとてもとても夜も寝られない。ものも喉を通らない。毎日毎日、泣き暮らすわけです…… 当たり前ですね。小さい子が先立つということはね。――それでも、二、三年も経ちますとね、どうでしょう? 皆さん、どう思われますかね。あのね、段々と忘れてくるものなんですね…… 実際のところね。亡くなった子供のことは普段忘れていて、ご飯もおいしく食べて、楽しく笑ったりなんかして―― 薄情なようですが。まあ、人間とはそういうものです……」


 いよいよ自分のことを、うちのことを言われていると思った。

 情けなかった。そんなに浅ましいことはした覚えがないのに――


 居たたまれない気持ちで、ここのお寺の坊守ぼうもりさんを見遣ると、坊守さんの方でもこちらを見ていて、ぱっと一瞬目が合ったと思ったら気まずそうな顔になり、そそくさとその視線を逸らすようなそぶりが見えた。

 やっぱりうちのことを言われたんだ……


 それからは、もう法話なんぞはちっとも耳に入って来なかった。


 針のむしろのようなその場を必死に我慢し終えて、蹌踉そうろうと家に戻り店番の息子の顔を見た途端、両方の目から滝のように涙があふれてきた。


御母おっかさん、御母さん、どうしたね? 何かあったのかい?」


 息子には何も答えず、まっすぐ仏壇の前まで。

 そこにぺたりと座って、

「今日という日は……。今まで色々あったけれども……もう切なくて切なくて……」とハンケチで目頭を押さえ、しゃくり上げていたら、お爺さんや息子や嫁がそばに寄ってきてくれた。


「もうね、家族はすっかりあののことを忘れっちまってるって…… 薄情なんだって……」


 息子の娘、つまりお婆さんからすると孫娘なのだが、そのは三年前に不慮の事故で命を落としていた。

 夏の終わりの、祭の日だった。

 大太鼓を乗せた山車だしを子供達が大勢で曳いて行く。何でも娘はその山車のすぐ前を法被はっぴ姿で歩いていたそうだ。

 曳き綱は運動会の綱引きに使うような太い麻綱だった。山車の枠に結び付けられている、その結び目の部分は綱が輪のようになっていて、何かの拍子に緩んだときに、あろうことか娘の首がその輪の中にはまり込んだ。

 あっという間もなく、綱が再びぴんと張り詰める。娘はそのまま首を引掛けられてしまった。

 宙吊りになってもがく女の子。

 周りで子供達が騒ぎ立て、異変に気付いた大人が駆け付けた。慌てて助け出されたものの、すでに意識を失っており、病院に担ぎ込まれたが、そのまま帰らぬ人になってしまった。

 あのの命日も、もうすぐやってくる。


「よし! 俺ぁ、談判に行ってくる」


 息子がいきり立った。

 大変なことになったと、お婆さんは泣いていたことも忘れ、しきりになだめようとしたが、隣に座っているお爺さんは息子以上に激昂げっこうしていた。

 そのお爺さんの真っ赤な顔。

 お婆さんはただおろおろして、ずかずかと出ていく息子の後姿を見送った——


 庫裡くりに回って声を掛けると、坊守ぼうもりさんが出てきた。荒物屋の息子の顔を見て、はっとした表情になる。

「阪本の人はおいでですかね? どうなんですか?」

 周章狼狽しゅうしょうろうばいていで何か言い訳のようなことをもごもごと口にしたが、荒物屋の剣幕にすごすごと奥に引っ込んだ。そして、しばらくの間、何やらぼそぼそした話声が座敷と思しきあたりから聞こえていた。


「坊さんともあろう立派なお方がどうしました? お逃げになるんですかい?」


 しびれを切らして少し大きな声を出したら、坊守さんと一緒に難しい顔をして阪本の寺の坊さんが出てきた。坊守さんが上がるように荒物屋を促したが、首を横に振るとそのままかまちに尻を引っ掛けるように腰を下した。

 阪本の坊さんは困った顔付ながら、一頻ひとしきり男がまくしたてるところを跪坐きざの姿勢でじっと黙って聞いていた。


「さあ、一体どうなんです!」

「どうと言われましても…… 僕はそんなことを言ったかなぁ……」


 坊さんは助けを求めるように坊守さんを振り返った。坊守さんの方は、坊さんの目を見返すこともせずに、困惑した顔でただ俯いたまま黙っていた。


「え? しらを切るんですか?」

 荒物屋が目を吊り上げる。

「いえね…… そういうわけではないのですが…… 娘さんがお亡くなりになっていたのですね…… それはどうもお気の毒様です。その事故のお話でしたら…… そうですね、たしかに以前ちょっとお伺いしたことはあったようにも思いますが…… ただ、今日お堂でお話をしたのはお宅の娘さんのことではないのです」

「娘のことじゃない? 事故で死んだって、確かにそう言ったんでしょう? うちの婆さんがちゃんと聞いてきてるもんでね」

「ええ…… うーん…… もしかしたら、そんなようなことを言ったのかも知れない。でもね、それは例えの話でね。お宅のことではないんですよ……」

「この人は何を言うんだかなぁ。今更卑怯でさぁね。――とにかく、謝って下さい。そうだ! まずはあの世の娘にだね。あのにそんな誤魔化しが効きますか? さあ、謝って下さい。潔く」

「何と申しますか…… うん。まあ、そうですね…… 私としましても、たしかにお宅様やご家族様のお気持ちをかき乱すような物言いをしたことは、これは結果として事実ですね。申し訳ありません。頭を下げます。謝ります。ただ、本当にお宅のことは……」

「まだ言い訳するんですか? あきれたもんだ!」

 荒物屋は、自らを鼓舞するように声に力を込め、口をへの字に結んだ。

「申し訳ありません…… 本当に申し訳ありません…… お母様にも…… あの…… 今日はお母様がいらして下さっていたのですね。ご信心何よりです。ありがとうございます…… 娘さんはお気の毒でしたが、今は阿弥陀様のもとに……」

「もういいです! 阿弥陀様だか何だか知らないが、そんなこたぁ、どうだっていいんだ。俺もね、爺さんもそうだが、宗教ってやつは昔っから大っ嫌いでね」

 そう言い捨てて立ち上がると、わざと足音を立てるように玄関を出て行った。何とはなしに後ろめたさのような、すっきりしないものも感じながら――

「本当に申し訳ありません……」と坊さんが表に出てきて頭を下げたようだったが、荒物屋は振り返らなかった。


「阪本の坊主に頭を下げさせてやった」

 帰ってくるなり、息子はそう言い放った。

 そうして、宗教が嫌いな筈なのに、真っ先に仏壇のところに行って娘のために線香をあげた。息子に続いて、更に輪をかけた宗教嫌いのお爺さんも、神妙な顔をして仏壇に向かった。


「俺はね、主義者なんてぇ野郎どもは大の嫌いなんだが、連中が何だ、ほら、宗教は阿片だとかって言ってるだろ。あれだけには大いに賛成するね――」などと碁の仲間なんかに普段は大いにうそぶいているお爺さんが、今日は長々と手を合わせ、南無阿弥陀仏を唱えているらしかった。

 お婆さんと嫁とは互いに顔を見合わせた。

 二人とも、ことにお婆さんの方は「頭を下げさせてやった」などと威張っている息子の顔付が、どことなく釈然とはしていない様子に見えるのが、何となく気に掛かっていた。


 荒物屋には亡くなった孫娘のほかに、年子の弟がいた。

 今や一人っ子となってしまっているその男の子は、寺の近くの空き地で今しも近所の友達数人と缶蹴りをしようとしていた。そこに、水菓子屋のお婆さんがやって来た。

「ほらほら、みんな、ちょっといらっしゃい。ほら、今日のキャンプのこと」

 子供達はすぐに顔を輝かせてお婆さんのもとへ駆け寄った。

 上の寺で法話がある日、その日は大抵小学校の夏休み期間中に当たっていた。そうして、毎年近所の小学生をキャンプと称して寺のお堂に集め一泊させるのが慣わしであった。寺側としては、その機会に教化を図ることが目的であったが、子供達にとっては、友達と一緒に集まってライスカレーや西瓜を楽しく食べたり、童話仕立ての仏教説話の幻燈を見たり、お堂でわいわい雑魚寝をしたりするのが何よりも楽しみな行事であった。

 信心深く、坊守さんとも仲良しの水菓子屋のお婆さんが、毎年その取りまとめ役を買って出ていた。

「みんな、家の人には話してあるからね。四時になったらお寺にいらっしゃいね」

「ぼくんちは?」

「ああ、こうちゃん、お母さんにちゃんと話しておきましたよ」

「ぼくは?」

「しょうちゃん? 大丈夫! 枕と薄いケットを持っていらっしゃいね。ああ、たろちゃんもね、いらっしゃいよ。今日はみんなの好きなライスカレーですからね」

 ぼくは? ぼくは?――と聞かれるたびに、お婆さんは猫のような眼をくりくりさせて、にこにこと嬉しそうだった。

「ぼくはどうなの?」

 荒物屋の男の子もそう聞いてみた。どうしたことか返事がない。

 聞こえなかったのかと思って、もう一度聞いてみた。やっぱり返事が返ってこない。

 何度も何度も聞いてみたけれど、こちらにはその猫のような眼を向けてさえくれなかった。

 他の子達には、にこにこと笑いかけ、親しげに話しかけているにもかかわらず、荒物屋の子とは目も合わせようとせず、冷淡な背中を向け続けるのだった。


「お母さん、今日のキャンプ、ぼくも行っていいの?」

 何が何だか分からない気分で家に帰ると、満面の笑顔を作ってそう聞いてみた。

「そうねえ……」

 母親は困ったような顔をした。それを目ざとく見つけた父親は、

「だめだぞ。キャンプになんか行ったら、うちの子じゃないからな」と鋭い声を出した。

 奥からお爺さんも出てきて、

「だめだ、だめだ。あんな寺なんぞ、金輪際行くんじゃないぞ」と怖い顔をした。

 男の子はひどく叱りつけられたように思って、とぼとぼと裏庭に出て行った。


 裏には柿の木があった。その下に、お爺さんが拵えた床几が置いてあり、男の子はそこに腰を下ろし、俯いて涙をぽろぽろ流した。

 足元にはまだ青い柿の実がいくつか落ちていた。男の子は泣きながら、下駄の歯で青い実をがりがりと踏みつけた。


 隣の庭では油蝉が鳴いている。

 どこか遠くで、友達が楽しそうに叫んだり笑ったりしているのが聞こえてきた。


 やがてだいぶ日が傾いてきた頃、家の中からカレーの匂いがしてきた。

 男の子は急におなかがすいてきた。今日はおやつも食べていない。

 涙はもはや出ていなかった。


「たあ坊…… いつまでもこんなところにいて……」


 お婆さんの優しい声だった。たあ坊は振り向きもせず、下を向いたまま、下駄の歯で削れ、潰れた柿の実を、なおも執拗に踏みつけた。


 やがて暖かい手が、たあ坊の頭や肩にそっと置かれた。懐かしい莨の匂いがした。

 その匂いを嗅いだら、止まっていた涙がまた零れてきた。




                         <了>



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小品 ― 青い柿の実 ― すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ