第21話 新しい世界

「またいらっしゃると思っていました」

 サンマンチュルは以前と変わらない、子供のような無邪気でやさしい笑顔を私に向けた。

「あなたは全て分かっていらっしゃったのですね」

「三百年も生きると、色んな事が分かってしまうのです」

「麓の村は幸福に満ちていた。干ばつも飢えも流行病もなく、穏やかで平和で陽気で・・」

「そう、幸福の為のありとあらゆるものがあります」

「そして、私たちの村も、その周辺の村々も、実り豊かな大地になった」

「そう」

「でも、そのためにはあなたという犠牲が必要だった」

「・・・」

「なぜなんですか」

「それは私にも分かりません」

 サンマンチュルはそこでヒマラヤの頂上を見上げた。

「ただそういう法則なのです」

「法則・・」

「流れといった方がいいのかもしれない。その流れがなぜあるのかは分かりません。ただそれがここにあったということです。そして、私はその一部になった」

「・・・」

「一つだけ言っておきたいのは、私は決してあなたが言ったような「犠牲」ではなかった」

「なんとなく、今の私なら分かるような気がします」

「むしろ私は幸福だった。いや、正確に言うと、幸福でも不幸でも無いということなのですが、これは非常に言葉にするのが難しい」

「はい」

「私にはありとあらゆる知恵と生命力が満ちていた。私は絶対的な存在だった」

「私が以前ここに来て触れたあれですね」

「私はもうすぐ死にます。そしたら今度はあなたがその力を授かるのです。これも言っておきますが、死ぬことは悲しいことではありません。これも、一つの流れなのです。私はそれに戻っていくだけ」

「はい」

 サンマンチュルは、なんの不安も恐怖も微塵も感じていない穏やかな表情をしていた。

「あなたは、力を授かります。ただし、ここから一歩も出てはいけない」

「はい」

「出たらその力は失われる」

「はい」

「しかし、あなたがここに留まる限り、そこに新しい秩序が生まれる」

「はい」

 ―――それから一ヶ月後に、予言通りサン・マンチュルは死んだ。ちょっと昼寝でもするように、なんでもない穏やかな日常の、なんでもない一コマの、なんでもない出来事のようにサン・マンチュルは死んだ。それは枯れた葉っぱが自然にヒラヒラと舞い落ちるような、当たり前にある自然なものだった。それは死んだというよりも、ただ本来居るべき元の場所に帰って行っただけのようだった。

 サン・マンチュルが死ぬと、私の中に新しい世界が生まれた。それは今までの価値観や意味を超越した絶対的な何かだった。

 私は何も食べなくなっていた。眠る事も無くなった。それなのに食べていた時よりも体中に常に力がみなぎり、活力が溢れ、眠っていた時よりも意識が冴えわたり、どこまでも先が見通せた。

 水すらも飲まなくなっていた。それなのに、喉の渇きは全くなく、少し体を動かすと、じっとりと汗までかいた。

 何も食べていないのに、食べていた時よりも飢餓感はなく、常に何かに満たされているような、何かに守られているような、そんな充実した何かが私を常に満たしていた。絶対的な何かと私は常に一体だった。ただそこに存在するだけで、私は完璧だった。

 私はもう、以前の普通の人間だった時のように、悩んだり苦しんだりする事は無いだろう。恐怖も不安も無く、常に平静であり穏やかであり続けるだろう。だが同時に、笑ったり喜びあったり幸せを感じたりすることも無い。でも、それは悲しい事でも寂しい事でもなかった。ただ幸せも不幸も無い、ただそれだけだった。

 幸せも不幸も無く、ただそこにそれがそうあるだけ。ただそれだけ。世界はそれはそれとしてそうあり続けるだけ。ただそれだけの事。ただそれだけの事だったのだ。最初から・・。

 鳥が歌い、雲が流れ、木々がざわめく。星は瞬き、宇宙はよく分からない法則で回り続ける。ただそれだけ。ただそれだけ。ただありのままの世界がそこにある。ただそれだけだったのだ。ただそれだけ。最初から。ただそれだけだったのだ。

 私のこれまで生きて来た悩みも苦しみも、それは最初から何もなかったのだ・・。何も・・。生も死も、それすらも無かったのだ。最初から・・。


 ―――そして、私の旅は終わった。





                               おわり

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神様は明後日帰る 第6章(新しい旅立ち篇) ロッドユール @rod0yuuru

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