兄の結婚相手には連れ子がいた。「なあ」と呼ぶことになる彼は、人を虜にする魅力を備えていた。小動物を可愛がるように接し、愛しく思う「まお」。大好きだからずっと一緒にいようという、幼い頃の子供じみた約束。その約束は互いが成長し、将来を考える折に牙を剥く。
凄まじい小説です。なあとまおの関係をこじらせ、取り返しのつかないところまでもっていったものは「好き」という感情であり、その意味の違いだけで「誰が悪い」と断ずることはできません。なあが独善的な「好き」を押し付けることも彼のバックボーンを考えれば……という部分もあるし、だからこそなあを突き放せないまおの気持ちも理解できます。そういったしがらみにままならないものを感じながらも、二人がそれぞれに選びとろうとしたものを尊重したい。ただ、そう信じるばかりです。
読後に一息をつく。主人公達のまおとなあに、良い意味で振り回された作品でした。
主人公である舞生と夏生は、誰かの「あいのかたち」を求めて、ときに一緒に、ときに離れながらも探しているように思えた。
家族に理解されず、幼い二人は、ゆがみ、歪んでゆく。
そこに救いはなかった。
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「淅瀝の森で君を愛す」の世界を大きく構成する要素を上げるなら、やはり子供への虐待ではないだろうか。
この物語では、虐待を受けた人の傷は、全く癒えることはない。ある意味リアルに描かれているように思う。
甥っ子である「なあ」は母親より、日常的に虐待を受けていた。生きることを名目にして、母親に利用されていた。
そんなことはつゆ知らず、面倒見のよい「まお」は、「なあ」の親代わりであり、姉のような存在になっていくも、「なあ」に性的暴行を受けてしまう。
ここから「まお」と「なあ」と、その家族の歯車が狂っていったように思う。
この物語は、僕からすれば「何も解決していない」ように思う。
家族とは何とか関係性を保ってはいるが、「まお」と「なあ」の育児放棄は続いている。
姉も相変わらず、ずっと変わっていなかった。
姉や家族が「まお」と「なあ」に与えた歪みは、もう端正出来るものではなかった。
特に「まお」の選択や胸中を想うと、胸が傷んでしまう。
もし、「なあ」が母に虐待を受けていなかったら、「まお」の選択は変わったのではないだろうか。
もし、家族のみんなで「なあ」を支えることが出来ていれば。
if に意味がないことがわかっているが、やはり「まお」が選んだのは「まお」の幸せではないと考えてしまう。
「他者のため」は、行き過ぎれば自己犠牲のように思う。
「まお」は十分に行き過ぎているように思う。
だから僕は「まお」の選択に納得が出来なかった……でも、それでも「まお」の選択は自分の意思で選んだものだ。
それが、いびつでもゆがんでいても、まおが意思決定したものだからこそ意味がある。
これにより、もう誰かの「正しい道」を歩むことはないだろう。
誰かの「あいのかたち」を探すこともないだろう。
今の二人なら、二人の道を歩むことができる。
読者の僕にできることは、そんな二人を祝福して、まおとなあを見守ることだけだ。