だから、今日は飲んでいいんです!

北野かほり

一杯目 ビールはタケノコと

 家のドアを開けた。

 なかに一歩、入った瞬間、崩れ落ちなかった自分を褒めてあげたいと陽葵は心から思った。


 今日も一日、ひどいものだった。

 朝から歩いて十分の満員電車に三十分も揺られてついた職場で、したくもない愛想笑いと雑用のオンパレード。朝早く窓をあけて、空気をいれかえたあとお茶をいれる。これも人数分。どうして私がするんだろうと疑問に思う。

 教えてくれた前の事務のパートさん――今はいない――今までの女性社員がそうだったから、という理由で教え込まれた。伝統的仕事。なんでだよ。

 つっこんだが大学を出てはじめて就いた事務仕事にあれこれと疑問を挟めるほどの余裕はなかった。

 仕方ないと諦めるしかないが、今日はそれ以上に堪えた。


「橘さんって、暇そうだよね」

 そのときはちょうど、営業の谷さんが明日の会議資料をホッチキスで留めてほしい、と分厚い紙の束を無造作に出してきたところだった。しかも十人分。

 会社経由のネットは配備されているんだから、パソコン画面共有して会議すればもっと経費削減できるだろうにと悪態を心のなかでつきながら必死にまとめていたら、出戻ってきた営業の関口さんが陽葵を見ての第一声がそれだ。

 同じときに入社した彼は外であっちにこっちにと走り回っているが、領収書を出さないのでよくつついていた。

 今日は珍しくレシートをもってきたと思ったのに

「いつも机にかじりついてさ」

「……」

 お前はこの机の惨状が見えないのか

「事務仕事っていいよね」

 これをちゃんと見て言ってるの。こいつ。


 あのとき言い返さなかった私はとってもえらいと陽葵は自画自賛してなんか必死に心の安定をはかろうとしたが、やっぱり心のしこりとなって残っている。

 暇そうに見えるのだろうか。

 毎日やるべき仕事、週一でまとめる仕事、月一回にまとめる仕事、年一回にやる仕事……フォーマルは決まっている。

 だが、しかし。

 今までの経理と事務をしていた人が虎の巻を作ってくれていなかった。

 やり方はすべて口頭と見て覚えろ方式。毎日するものはいいが、毎月の処理やら年度末の処理なんて陽葵は自分の記憶力と戦う羽目に陥っている。

 来年は新人をいれるというので必死に教えるための虎の巻を作って毎日くたくただ。

 けど、そうか、暇そうに見えるのか。


 小さな我が家の玄関を三歩進んだ先には台所がある。風呂場も。

 その奥にちっちゃな寝室兼憩いの場。

 狭いし、隙間風はあるが自分としては素晴らしい城だ。

 荷物をとりあえずキッチンに置いてある椅子の背もたれにかけて手洗いをする。

 ずっと頭のなかでもやもやしている気持ちをどうにか押し殺したい。

 暇そう、というのも堪えたが資料を作り終えたあと谷さんが「こういうのは女の子がいて助かるよ」と言われたのも、関口の出したレシートが飲み屋のものだったのでつっこんだら「お得意様の接待。ビール飲めないからわからないけど、飲むことでわかることもあるんです」などとしった顔で言われた。

 なんだと

 買ってきたスーパーの袋から取り出すのはビール。

 手のひらサイズのキリンビール。一番搾り。

 お酒はあんまり飲まない、飲むとしてもチューハイ。ビールは二十歳のときに一口飲んだが苦味がひどくてだめだった。けれど腹が立って手にとった。

 そのままスーパーで半額だった水煮のたけのこを取り出す。

 包丁を持つ。

 えいや。

 どすっと音とともにきれいに切れた。

 思ったよりも柔らかいそれを切って、フライパンに油をひいて焼く。一人分だからちょっとの油で事足りる。

 じゅわわ。

 暇そうっていう言葉も

 女の子だからね、という言葉も

 ビール飲まないからわかんないっていう言葉も

 ついでにクソみたいな領収書も全部炒めてやる!

 タケノコに醤油とバターで炒めてしまうシンプルなそれを足元の食器棚から取り出した小皿に移す。

 ビールとタケノコの炒め物をキッチンのあいたスペースに置いて、椅子を引き寄せて腰かける。

 苦い。

 たけのこの苦味。こりこりしている。

 ぷしゅっとビールを開ける。

 一気に煽る。

「あ」

 苦くない。

 じゅわわっとしてる。

「……」

 予想以上に苦くなくて唖然としたまま陽葵はビールのちっちゃな缶を見る。

「いけるじゃん、私」

 再びビールを煽って、タケノコを噛む。苦味とのど越しで一気に満たされていく。

ぷちぷちと不満がビールの白い泡が弾けるように爆発していく。

「私だってビールぐらいおいしく飲めるんだよ、ヴァーーーカ!」


 私、飲めじゃん。

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