三杯目 ビールとたこの豆板醤

 痛かった。ものすごく、痛かった。

 おなかに出来た石のせいで。


 深夜、たえが目覚めた理由は痛みだった。

 おなかの、ちょうど下――下腹部が猛烈に痛い。

 布団から這い出てトイレに行こうとして力尽きたたとえは、ひたすらにおなかを撫でた。痛い、痛いと必死に声をころして、息を吐いてひたすらに落ち着けと思った。けれど結局痛みは落ち着いてくれなくて頑固親父をそのまま形にしたような夫の敏則が起きて来た。

 隣に寝ているのだから起きるな、というほうが無理だろうが

「……病院にいこう」

 ぽかんとしたあと、そう口にしてよろよろと立ち上がる。

一度転げたあと走り出してくれた夫をたえはぼんやりと眺めていた。

 あんな間抜けで焦っている夫は息子の正が生まれる時以来だ。

 あ、つまり、二十年ぶりに見た。

 そう思うとおかしくて笑えて、またおなかが痛くて喘いだ。笑わせないでよ。と一人愚痴った。


 結論、たいしたことなかった。

 死ぬほど痛かったのに、医者は淡々とするのに後ろに立って話を聞いていた敏則が

「やぶか」

 と一人悪態をつくぐらいのんびりしていた。お医者様に聞こえたらどうするの、あなた!

 さすがにそれを口にだすほど、たえは豪胆ではないが同じことを思うくらいには、うそでしょと思った。

 体のなかに石が出来ていた。

 薬で飛ばせるから大丈夫とのことで、お薬をもらって帰った。

 痛みは定期的にやってくる――薬を飲んだおかげか、動けないほどではない。

医者のいう重症と自分たちの思う重症は違うらしい。

 この程度ですから

 と言われてやっぱりやぶだろうと思った。いや、わりと本気で来るべき病院間違えた? と思った。

 翌日から普段に戻った。薬を飲む以外は、たまにくる鈍い痛みはあっても生活に支障がない。

 人間の体はわりと丈夫だ。

 四十になってそれを知った。

 ただ今朝から敏則は機嫌が悪かった。

 むすっとしたまま――これいつものこと。

 無言だし――これもいつものこと。

 愛想悪く、仕事に行ってしまった。これもいつものこと。

 なんであんな人と結婚したんだろう? たえはちょくちょく疑問に思う。自分の人生の選択は、ときどき間違っていたんじゃないかという気持ちが頭を掠める。

 二十歳のとき両親に見合いをすすめられて結婚したのが敏則だ。そのまま子供も出来て、家事に子育てとあっという間に老けてしまった。息子は大学で出ていってしまい、今はまた敏則と二人だが、彼はとても無口で、家のなかが静かすぎて途方に暮れる。

 きっと満たされない。

 ふと思う。働くこともなく家のことをさせてもらえて、それはのんびりしたたえには合っていた。

ときどき無性に寂しくなる。もっと別の、可能性を思ってしまう自分がいる。

 本に影響されて夢を見ているんだわ。

 女も働くもの、稼いで自分のお金でものを買い食べること。それは大切なことだと最近の流行りの本には書いてある。

 だったら主婦として働いているのはだめなのかしら。

 夫を愛しているかと言われたらわからないけれど、ちゃんとやっているつもりだ。

 つもり、だから正解はわからない。

 ずっと正解や確信がないまま生きるのかしら、そう思うと、少しばかり怖い気持ちにもなる。

 夜のおかずは迷ったが、普段通りにした。

 煮魚と米、味噌汁。

 こういう味を敏則が好むからずっとずっと作り続けている。一時料理にこったこともあるが、普段通りでいいと言われてしまった。手抜きはしないが、普通の家庭料理だ。

「座ってろ」

「はい?」

 どすどすと大股でキッチンに向かう。何してるの、この人

 たえがちろりと後ろを見る。そこでなにかごそごそとしている音がする。台所なんてほぼ立つことがないあの人が? なんでまた。むしろ、大丈夫? 不安や期待と好奇心がないまぜになった気持ちでただ座っていると、すぐに戻ってきた。

 大皿に真っ赤なそれが目に飛び込んできた。

「たこの焼いたやつだ」

「はぁ」

「食え。ビールに合う」

「はぁ」

 間抜けな返事だな、とたえ自身が思った。

 じっと仏頂面でいる敏則が黙ってビールを飲みながら、たこをつまむ。自分でも食べるんだ。

「……あの」

「なんだ」

「私、ビール、はじめてなんですけど」

「飲んでみろ」

「……はぁ」

「それとも、クスリで飲めないのか」

 ふるふるとたえは首を横に振った。

「いただきます」

 たこはこりこりとして、辛い。豆板醤をいれたものだ。それにあわててビールを飲むと濃い苦味に驚いた。

 キリンラガビール。

 そういえば、自分たちの結婚式でもこのビールを飲んでいた。あのときは苦くて驚いたが、今はその苦味がいやではない。

「私、年を取ったのね」

「なんだ、いきなり」

「苦いの好きだなって」

 三十代にさしかかってから苦味のうまさがわかった。ピーマンを好んで食べれるようになった。シンプルな野菜の苦味は口のなかで溶けて甘味にかわる。

 これも同じだ。苦いのに、じんわりと喉に落ちて、息を吐いたときのアルコールの濃厚でいて、軽いこと。泡みたいだ。

「酒を飲んだらさっさと寝れるだろう」

「……そうですね」

 ふふっと笑ってしまった。気の使い方が下手だなと思う。彼のぶっきらぼうなところはいつもいつもいらいらするし、もやもやもするけれども、こうして一緒にいたら慣れっこになってしまった。ちゃんとわかる。気を使って、痛みだって忘れて寝ろってことだ。

「私、ビール、飲めたのね……一人だと飲み切れないから、半分こしましょう」

「おう」

 また一言。

 会話が続かないわ。退屈。けど、こうして気を使う不器用さがたまらなくて愛しい。

それにビールを一つ飲み切るのはちょっと大変だから、二人で半分こ。

 ちっちゃいことでもいつも自分の新しい一面を見ることができる。だからこの人がよかったんだとたえは微笑んで納得した。

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