五杯目 白ワインとムール貝の酒蒸し

 車のディーラーは、女向きの仕事じゃない。

 周りを見回すと、受付には女性はいても売り手には少ない。うちの会社は自分だけだ。

 それでも紗枝は黒いスーツ――学校を卒業したとき奮発して購入した上下合わせて十万の勝負服に皺が寄せないように力をこめる。化粧もばっちり、まつげをくりんとさせて、一文字に唇を結ぶ。女であることは忘れないためだ。

 地元の車屋に就職したのはいいが、女の少なさに驚いた。受付などで事務処理するのは女性だが、売り手になると壊滅的だ。客も売り手が女だというと少しだけ困惑する。車の紹介をし、今後の契約を結ぶのは男も女もないのに。と常々思う。

 休みも水木と週の間でしかとれないため、友達とは予定が合わない。おかげで最近の楽しみは深夜放送のドラマを見ることだ。けれどそれも時折客からの呼び出しに潰れることもある。


「こちらで書類の確認などは終わりますので、サインを」

「君、何歳」

 滞りなく、車検が終わり、あとはサインだけの段階で唐突に客が口にした。中年のおじさんで、車を売るときからものすごく私のことを見下していた。ことあるごとに女である紗枝のことを馬鹿にした態度をとってきたので身構えた。なんだよ。

「二十六ですが」

 へぇと、にやにやと笑った。なんだよ。てめぇ。セクハラだぞ。デコピンするぞ。

「榎さん、すいません。ちょっといいですか」

 身構えた私とお客様の間にはいったのは、もう一人のお客様――紳士さんだ。

 白髪を撫でつけたおじさまはにこにこと笑っている。

「おい、あんた、俺が話してるんだぞ」

「あ、すいません。見えなくて、老眼なんですよぉ」

 などど愛想よく笑う。

 その笑顔を見ると、どうも毒気を抜けてしまうので、セクハラマンは仕方なくサインをささっと出ていった。

 大股くそおやじセクハラマン、退散!

そして後に残った紳士が笑う。

「大変そうだったので、つい、失礼しました」

 ぺこりと頭をさげる。

「いえ、あの、御用は」

 ふるふると紳士が首を横に振る。

「ほら、私くらいだと、みんな、ぼけていると思うから、確信犯ってやつです。ふふ」

 そう言って優しく笑う。とても心がほっこりした。


 お布団のなかで惰眠を貪る。

 目覚めるともう昼を過ぎていた。昨日の夜は休みでビールをひたすら飲む。仕事のあとは食べるよりも飲むことに心が傾いた。

 頭がちょっと痛い。

 アラームの音がする。

 なんだとずるずると起き上がると、紳士さんだ。

 寝ぼけていても、休みでも、お客様が求めれば動き出す――職業病だ。

 女だからって男並みに仕事できないでしょ、と今の会社の面接での一言。

 腹が立ったから結婚しても辞めませんって啖呵を切った。

 本当に辞めないかは別だ。けど、とにかく負けたくなかった。仕事をはじめて、その負けたくない気持ちというのはだんだんとしぼんでいっている気がする。

 人から助けを求められていたりすると、私は走り出す。


 三十分ほどかけてやってきたご自宅で、車の前で途方にくれているご夫婦。

 紳士さんの車のエンジンがかからないという。

 見てもさっぱりわからないと困り果てる夫婦に私は、まず、点検をさせてもらい、すぐに思い当たった。問題は私ではどうにもならないということ。

 弱気になる。けど、この人たちは自分に助けを求めてくれた。

 車を一生懸命選んで、会話をし、お金を出して、そして困ったことがあれば真っ先に助けを求めてくれた。

 心のなかに広がる嬉しさをぐっと噛みしめる。こんちくしょう!

「キーを貸してください」

 車に乗り込む。すでに買って何年か経っているのに、とても丁寧に乗っているのがわかる車内。

 私はエンジンをかけると、思いっきりアクセルを踏む。動け! そのとたん、がたんと音がしてエンジンがかかった。よかった。

「このまま、いつもお使いの車の修理屋にいってバッテリーを交換してもらってください」

 それだけいうと夫妻はとても急いで乗り込んだ。

 私はそれを見届けて、ふぅーと息を吐いた。

 これぐらいならできる。

 そうしてふらふらと家に戻って、なにもしない休日を楽しもうとしたら夫妻からメールがきていた。

 なんとかなりました、とお礼のメールだ。

 とても助かりました。とも。

 心がほっこりとする。

 頼ってくれたことも、お礼を言われたこと。

 私、やるじゃん。

 家に帰るときに立ち寄ったスーパーでムール貝を見つけて、なんが無性に食べたいと買ってしまった。

 フライパンにニンニクチューブとオリーブオイルをたらして、軽く炒めあとムール貝をいれてワイン――白! をいれる。

 酒蒸しはあとは待つだけ。手抜きじゃない。立派な料理だ。

 待っている間、酒の濃厚な匂いにまた心が躍る。

 待つ間に取り出した白いワイン。とぼぼっと注いだワイングラス。どうだ。

 まだ日は高い。けれど私はもう飲むと決めた。

 蒸された貝を大皿に移すと椅子に腰かけて、ワインを一口。すっきりとした甘さ。そして喉を焼く。

 酒蒸しされた貝にむしゃぶりつく。

 苦くて、とろんとした貝の苦味は芳醇なワインの甘さによく合う。

 頭のなかいっぱいに酔いが回る。今日くらいは許してもいいはずだ。

 食べ終えた貝の一つをスプーンにして、まだまだある貝を食べていく。

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