十杯目 日本酒と煮魚
「ねぇ、もし、なにもかも忘れても私のこと好きになってくれる?」
きよみがそう口にすると、夫の敦は目をぱちぱちさせた。
結婚してようやく一ヶ月。
福祉施設で出会い、職場結婚を機に敦は一般企業に就職した。
福祉だと家族は養えないから。
それが理由だった。
「なにかあったの」
「うん。ほら、今日ね、ご夫婦のところにいったの」
「ああ、金曜日の人たち」
と敦が言い返す。
二人でテーブルを囲み、きよみの作った夕飯を囲む。
今日は煮魚。赤く、小さな魚は鍋のなかで色を黄金色に変えて、湯気をたてている。
甘辛い魚を二人が箸でつつく。
きよみと敦が出会ったのは小さなグループホーム。
朝から利用者のために職員が食事を作り、掃除と洗濯、お風呂の世話をする。出来ることは利用者にしてもらうという。
しかし。施設が出来た当初は元気であれこれと出来ていた利用者もすでに年取って何も出来なくなり、介護度が増し、今ではほとんどが介護者負担となっている。
きよみは結婚のあと、出来るだけ家の時間を持ちたいということで異動願いを出した。それは受理されて訪問介護に変わった。
朝出勤してスケジュールを聞いて、車で利用者の家に移動。
一時間という決められた時間中で必要な家事を行う。基本的一人暮らしの男性が多く、そこで掃除やごはんを一食分作ったり、買い物をする。それ以外のことはほぼ出来ない、というほうが正しい。短い時間で効率よく、利用者のニーズを満たすこと。なかなかに頭を使うし、相手が独居だけに気難しい人が多い。
曜日ごとにだいたい決まるルーティンに、敦はその人たちのことを曜日で呼ぶ。
金曜日はご夫婦で暮らす家に行く。
夫は年取ってもまだ元気だが妻は認知症が進行して一人で歩くことも出来ない。ときどきおしゃべりができる程度だが、いつも清潔にして、化粧もしている。
すべて夫が世話している。
たまたま時間より早くついたので、少しだけサービスのつもりで早く訪問したのだ。
人によってはいやがられそうだが、幸いにもあたたかく迎えられた。
夫は決まった時間に妻を起こす。ヒーターの前に移動させてあたたかくなると妻の手が少しだけ動くようになる。化粧品を並べて本人が選んだものをつけてやる。真剣に、静かに。そしてきれいになった妻に微笑みかけ、妻も嬉しそうに笑っても、あなたはだれと口にする。
恥ずかしそうに、すてきなひと、と妻が言えば、夫ははにかむ。ああ、恋をしているんだと思い直す。これまでの人生、いろんなことがあっても結局離れなくて、こうして支え合っている。
「いいものを見せてもらってるんだね」
「うん」
「・・・・・・まだ結婚して一ヶ月だからね」
ふふっと敦は笑う。
「どうなるかなんてわからないけど、こうしてお酒を飲み会えるままでいたいね」
「なにそれ」
ふふと敦が笑い、立ち上がると日本酒を取り出した。
「つまみもあるし、まぁおひとつ」
「……うん」
誕生日にプレゼントされた透明なグラスに、真っ白い液体がそそがれる。
きよみも敦に返す。嬉しそうに笑ってくれる。
きよみは敦よりも酒豪だ。いつも敦は眠りこけてしまう。それでも彼は一度もいやな顔をせず、きよみと飲んでくれる。
甘辛い酒を一切れ、箸でつまんで食べて、透明な日本酒を飲む。ぴりっと舌に辛く、喉を通り過ぎる熱。
年をとって、なにもかも忘れても、それでもこうして一緒に酒とごはんを囲んでくれたら、それは最高なことだ。
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