第6話 不眠姫は腕の中で眠り続ける

「あの、一応確認なんですけど」


 小さく挙手をして、おずおずと尋ねる。それに杏樹さんは「何?」と答えた。


「もし、受け取ったのも開けたのも杏樹さんで、伝票の名前とか、中の名刺とかを見てたとしたら、そしたら、僕だって気付いたと思いますか?」

「たぶん……いや、絶対気付いてた。豪太なんてなかなかない名前だし。名字だって戸塚でしょ。戸塚と豪太の組み合わせなんて、絶対一人しかいないと思うし」


 うん、大丈夫、絶対気付いてた、と自分自身に言い聞かせるようにして、杏樹さんはこくこくと頷く。つくづくどこかの県の水族館にいるらしいシロクマと同じ名前で良かったと思う。


「それじゃ、僕に連絡してたと思います?」


 思い切って、そこにも踏み込んでみる。

 すると、杏樹さんは、僕と目を合わせて「あう」と謎の言葉を発して目を逸らした。


「た、たぶんだけど。その時は、しなかったと思う。彼氏、いたし」

「まぁ、ですよね」

「だけど、もしかしたらだけど、別れた後だったら、連絡してたかもしれない。っち、違うよ? キープとかそういうんじゃなくて。幸樹の友達だし、挨拶くらいは、とか。そういう感じで!」


 違うから、そういうんじゃないからね? と繰り返す。こんなに焦って否定するということは、恐らく、多少はその気持ちがあるのではなかろうか。別に良いのに。むしろそれでも良いのに。


 必死に手と首を振っている彼女が可愛くて、ただそれだけの感情で見つめていると、それがきっと疑いの目を向けているように感じたのだろう、杏樹さんは「……いや、そういう気持ちもほんのちょっとくらいはあったかもだけどさぁ」と白状し始めた。たぶんこの人は本当に寂しがりなのだ。


「杏樹さん」

「な、何」

「僕は、それでも良かったですよ」

「……はぁ?」

「もし杏樹さんから連絡が来たとしても、僕は正直、恋人になれるなんて思ってなかったというか。その、正直生活が結構カツカツなので、食事に誘うっていってもファミレスとかが関の山ですし、それも毎回は正直厳しいし。高いプレゼントなんかも出来ないし。だから、名刺も入れたは良いけど、もし本当に連絡が来たらどうしようってちょっと後悔したりして」

「後悔したりしたんだ」

「ちょっとですけど。だけど、杏樹さんのことはずっとどこかに引っかかってたんですよ。学生時代は彼女もいたりしましたけど、杏樹さんのことはなんかずっと気になってて。だから杏樹さんからの注文だってわかって、勢いで行動しちゃって、だけど、よく考えたら、甲斐性なんてないのに、何やってんだろって」


 だけど、人生はわからないものだ。

 その彼女が、いま目の前にいる。

 毎晩ベッドを共にして、さっきはキスまでした。

 

「だから、正直なところ僕は、杏樹さんがこうして同じ部屋にいて、僕の腕の中で眠っているっていうのが、すごく嬉しいんですよ。だけど、本当はそれ以上のことだってしたいです。一応、健全な二十四歳男性なので」


 かなり頑張って律してるんですから。ここは褒めてくれて良いです。


 そう言うと、杏樹さんは一度大きく目を剥いて、それから、あっはっはと笑い出した。


「もういっそ笑ってください。馬鹿なこと言うやつだな、って笑ってやってくださいよ。でも、こんなこと言っちゃったら、もう嫌ですよね。身の危険感じますよね。あの、絶対我慢しますんで。そこは、あの、安心していただいて」

「いやいや、違くて」


 まだ笑いを引きずったまま、目尻を拭う仕草をしながら、杏樹さんはなおも「違くてさ」と言った。


「人間の三大欲求ってあるじゃん」

「え、あぁ、はい」

「あの中でも性欲って一番下だと思わない?」

「……はぁ?」

「めちゃくちゃ空腹なのに食べ物がない状態とかさ、めちゃくちゃ眠いのに寝られない状態だったらさ、正直性欲なんて湧かないじゃん」

「それは確かに」


 それはまぁ、だって生命活動の危機というか。人間、食べなければ死んでしまうし、睡眠不足で死亡に至るケースだってあるらしいし。


「それがどっちも満たされたら、そりゃあ次は性欲だってなるよねぇ」

 

 目の前の彼女が、にや、と笑う。

 僕らを隔てる折り畳みテーブルに肘をついて。

 普段は本当に年上なのかと疑いたくなるような、ちょっと子どもっぽいところのある彼女が、いまは正しく『年上のお姉さん』に見える。


「それは、どういう」

「わかんない? それともわかんないふり? 私はどっちでも良いけど」


 どっちでも良いというのは、どういう意味なんだろう。

 どっちにしても同じ結果になるからだろうか。


「あの、ちょっと待ってもらえます」

「何が」

「杏樹さんは、どう思ってるんですか。僕のこと」

「へ」

「僕は言いましたよ。杏樹さんのこと、好きだって」

「違うよ。好きだった、じゃん。過去形だったじゃん」

「しまった、そこ訂正してませんでした。いや、好きです。好きだから、我慢してたんです。だけど、杏樹さんはどうなんですか。いまお腹が膨れてて、ちゃんと寝られるようになったからって、手頃な僕で済ませようとか、思ってませんか」


 ずっと気になっていた女性を抱けるのだから、ここはラッキーって思うところのはずなんだけど。


「杏樹さんは別に僕のこと好きじゃないですよね。単なる弟の友達っていうか」

「そうだよ」


 さらりと放たれた言葉で、視界がぐにゃりと歪む。わかっていたはずなのに、現実を突きつけられるとかなりのダメージだ。


 けれどそこで彼女は「昔はね」と付け加えた。


「昔はそうだったよ。弟の友達なんて、やっぱり弟と同じにしか見えないっていうかさ。特に学生の頃って四つも下だったら子どもだよ。だけどさ、いまになって偶然会ってさ、おー、大きくなったなぁ、恰好良くなったなぁ、とか思ったらそりゃ意識するじゃん。いくら弟の友達ったって」

「……そういうものですか」

「それでさ、朝方、お尻の辺りにさ、ちょっと当たってるんだよね。何がとは言わないけど」

「すいません、その、生理現象というか……」

「あー、はいはい、大丈夫。ちゃんとわかってるから。とにかくさ、私だってそりゃあ意識するよ。この人、もしかして私のこと好きなんじゃないのかな、とか。だけどさ、豪太君、頑なに手を出してこないじゃん」

「だっ、だって、そういう約束だったというか……!」

「私もね、悩んだんだよ。四つも上だしさ。下手に手を出して、豪太君に変なプレッシャー与えちゃうのも悪いって思ったし」

「プレッシャー、ですか」


 そういうと、杏樹さんは、こくり、と頷いて「ほら、結婚とか」と言った。確かにそれはある。


「私はさ、正直なところ結婚とかあんまり興味ないっていうか。別に子どもが欲しいとかもないし。だけど、豪太君はどうかわからないし、責任取る取らないみたいな話になったら嫌だな、って。私はね、これからも毎日豪太君の枕で寝られたらそれで良いと思ってたんだ。毎晩寝られる以上の幸せはなくても良いかなって」


 そう言うと、杏樹さんは四つん這いの姿勢で、テーブルを回り、ゆっくりとこちらに近付いて来た。


「好……きな人って」

「好きになるでしょ、こんな毎日一緒に寝てさ、大事にされたら。私だって正直そろそろ限界なんだよね」


 正座をしている僕の膝に、彼女の手が乗せられる。だからさ、と言う杏樹さんの目が潤んでいる。



 うとうととまどろむ僕の鼻先を、彼女の髪がさわさわと撫でる。つい最近染めたばかりの杏樹さんの髪は、生え際まできれいな茶色だ。失礼を承知で鼻を埋めれば、かすかにシャンプーの香りも残ってはいたけれど、それよりも汗の臭いが強い。シャワーを浴びていないのだから当然だ。そんな体力は残っていなかったのだ。僕だって、本当はいますぐここを抜け出して汗やら何やらを洗い流したいけど。


 けれども、初めて彼女が僕の方を向いて寝息を立ててくれているという事実にむせ返るほどの幸せを感じてしまうから、それはこの『元・不眠症』のお姫様が目を覚ましてからでも良いかと思う僕である。

 

 

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不眠姫は僕の腕の中で爆睡する 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa

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