第5話 手放してあげられないかも
「枕ってさ、もう身体の一部だと思わない?」
「思わ……ないです、かね。申し訳ないですけど」
「別に申し訳なくないよ。誰に聞いても同じ答えだったし」
あはは、といつものように笑うが、明らかに声が沈んでいる。
「毎日毎日汗とか染みこんでさぁ、私の頭の形に凹んでさぁ」
「汗が染み込む……それはちゃんとカバーは洗ってる、っていう前提で良いんですよね?」
「洗ってるよ! 洗ってるけどさ! でも中身は洗えないやつだもん。たまに干すけどね? 100均で枕干す用のハンガー買ったし!」
「なら良いんですけど」
「もう、とにかくね、私はそう思うの。毎日少しずつ私の疲れとかそういうのが、こう、頭からじゅわーって出てて、それで、それを受け止めてくれてるっていうか!」
「成る程。面白い発想しますね」
だけどね、と言って、杏樹さんは膝を抱えた。子どものように、つん、と口を尖らせている。この人は本当に二十八なんだろうか。
「家にある枕、全部捨てちゃおうかな、って。さっき、豪太君のこと手放してあげられないかも、って言ったじゃん。もう豪太君だけにしようかなって思って」
「それは……もう僕が身体の一部になってる、って意味、でしょうか」
寝具として、ではあっても。
杏樹さんは、こくり、と頷いて、そのまま膝に顔を埋めた。
「ごめんね、豪太君」
「何がですか」
「彼女、作れないね」
「別に、いりませんけど」
「まだ二十四だからって余裕ぶっこいてない? あのね、あっという間だよ? 私くらいになって焦っても知らないよ?」
「焦りませんって」
そう答えると、「男の子はそうかもしれないけどね」と言って、杏樹さんは顔を上げた。目の端が赤い。右の頬にパンくずがついている。取ってあげたいけど、そんな雰囲気ではない。
「同じ年くらいの女の子ならさ、三十くらいまでに結婚も出産も――って考えると、もうそろそろ未来の旦那様に繋がりそうな男性を探し始めたりするんだよ」
そう話す杏樹さんはなぜか得意げだ。
杏樹さんもそうだったんですか。
二十四の時の杏樹さんはそうだったんですか。
三十までに結婚して子どもを産みたかったんですか。
いまでも未来の旦那様に繋がりそうな男性を探しているんですか。
それは僕じゃ駄目なんですか。
「それにさ、豪太君だってしたいでしょ」
何を、とは聞かなかった。聞かなくてもわかるからだ。キスとかですか? なんて惚けたって良かったけど、そんなことはしなかった。
「まぁ、したくないと言ったら嘘になりますが」
「持って回った言い方しちゃって。紳士か」
「別に紳士じゃないですよ」
「じゃ、ヘタレだ」
「ヘタレって。いや、ちょっと酷くないですか? 僕がどれだけ我慢して――」
思わず腰を浮かせると、それに合わせて杏樹さんも身を乗り出す。拳一つ分くらいのところに彼女の顔がある。杏樹さんの後頭部なら、いつもこれより近くにある。髪の中に鼻を埋めて頭皮を嗅げる距離に。
だけど正面からはない。
すっぴんだから、毛穴まで見える。産毛だって。
そんな距離に。
そんな距離に顔があったら――
「やっぱり豪太君はヘタレだと思うわ」
「……僕もいまその辺を猛省しているところです」
いわゆるキス待ちという状態だったのだ。杏樹さんは。
それがわかったのは、痺れを切らした彼女が、もう、と呆れたような声を上げて、僕の襟首を掴み、引き寄せて来た時である。記念すべき彼女との最初のキスが、このザマである。そりゃあヘタレと言われても否定出来ない。
「あの、それで、杏樹さん」
「何」
「えっと、いまのは、その、どういうつもりで、というか」
「どういうつもりにしたい?」
「それ僕に委ねるんですか」
「うん」
「杏樹さんがどうしたいとかはないんですか」
「あるけど」
「それを聞かせてくださいよ」
「やだ」
「何でですか」
そんな攻防を繰り広げると、彼女は身を乗り出して、僕にデコピンをしてきた。そこまで痛いやつではないけれど、それでも不意を突かれれば「
「そこも含めてヘタレだって言ってんの。何、私がこうしたいって言えば、豪太君は、はいわかりました、って応じるわけ?」
私だってさ、求められたいのよ。
そこだけは、うんと潜めた声だった。
彼女はまたすとんと腰を落とすと、そのまま膝を抱えて丸まってしまう。
これまで、求められてこなかったんだろうか。
そう思ったけど、そう尋ねるのは酷だ。
「杏樹さん」
「何」
「僕はですね、その、聞いてくれます?」
「聞くよ。今日休みだし。予定もないし」
「ありがとうございます。えっと、その、ですね。実を言うと、僕はもうずっと昔から杏樹さんが好きだったんですよ」
「過去形なんだ」
「だっ……! その、ちょっとそこ突かないでもらえます? まだ続きあるんで」
「わかった。続けてどうぞ」
調子狂うなぁ、と思いつつ、仕切り直しの意味を込めて、咳払いをする。
「だけどほら、杏樹さん、埼玉行っちゃったじゃないですか。僕は千葉で。それで、連絡を取る手段もないですし」
「幸樹から聞くとかあったじゃん」
「ありましたけど。だってその時はなんていうか、その漠然とした憧れみたいな、そんな感じだったというか」
「成る程」
「そしたら、その、杏樹さん、ネットでアクセサリー買いましたよね。雪の結晶のピアスとプルメリアのペンダントトップ」
「へ? ああ、買った買った」
「それ、僕の店のなんですよ」
えっ、と彼女は短く叫んで顔を上げた。やはり気付いていなかったのだ。
「そうだったの?」
「はい」
「えぇ。なんで気付かなかったんだろ。伝票、お店の名前だったから、とかかな?」
「ところがですね、通常は店名だけなんですけど、その時は僕の名前も書いてて」
「え、何で」
「何でって……。杏樹さん、気付いてくれないかな、って思って。それで、僕の名刺も入れて。それで、杏樹さんから連絡が来るの、待ってました」
「自分から連絡しようとは思わなかったの? だって注文の時、電話番号とか入力したし――」
「店側から出来るわけないじゃないですか。個情報の悪用ですよ」
「た、確かに」
「だけど、何もなかったから、やっぱりそんなもんなんだ、って諦めてたところに、ほら、あそこのコインランドリーで偶然」
「あぁ、そうだね。あ――……そうだ、思い出した。私が開けたんじゃないんだ、あのアクセ。受け取ったのが元彼で。住所、元彼のアパートにしてたから」
「そうなんですか。えっと、それは、その元彼さんが選んだとか、そういうことですか?」
それかもしくは、たまたま手が塞がってて開けられなくて、とか。
自分宛ての荷物を他人――例え恋人であっても――が開けるというのは、ちょっとおかしいのでは、と思う。もちろん、様々な事情があって開けてもらうことはあるだろう。もしかしたらプレゼントだったり……いや、だったらその元彼さんが自分の名前で注文すれば良いわけだし。
「いや、あのね、そういう人だったんだよね。私宛の手紙とか荷物とか許可なく開けちゃう人だったの。だからその時も勝手に開けられて、中身だけ、はい、って」
「そういうことだったんですね」
いや、勝手に開けるなよ、元彼さん。
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