第4話 あなたの寝具になりたい
「嘘つき」
僕の腕を枕にした杏樹さんが、ぽつりと言う。
「何もしないって言ったじゃん」
「一緒に寝るだけですよ。僕は寝具です」
「寝具になってくれるの?」
「それで杏樹さんが眠れるなら」
「セックスはしないよ」
「あの、意識しちゃうんで、その単語出すの止めてもらって良いです?」
「わかった」
杏樹さんを後ろから抱き締めること、数分。いや、十分は経ったかもしれない。
ふと気になって声をかける。
「杏樹さん」
「ふぁ。何?」
ものすごく眠そうな声だ。
「すみません、起こしちゃいましたか」
「いや、うん、まぁギリギリかな。何?」
「あの、その服のままで良いんですか。寝にくくないですか? 僕ので良ければ部屋着貸しますけど」
「何よ、着替えが見たいの? それともここから脱がすとかそういう話になってやっぱりセッ――」
「ですから、それは言わないでくださいって。疚しい気持ちはないですよ。ただ、僕もジーンズですし、着替えたいなって。杏樹さんなんてスカートじゃないですか。明日それ着て帰るんですよね? シワになりますよ?」
「それもそうか」
その後、着替えはもちろん、化粧までしっかり落とし、何ならシャワーまで浴びた杏樹さんは「シャワーまで浴びたとなれば、もうこの後は――」と、ここまで来るとむしろ手を出した方が良いんじゃないか、とこっちが混乱するような言葉を述べた後、再び僕の腕を枕にして横になった。
それで、眠れないなんて全部嘘だったんじゃないかと思うほど、いびきやら、歯ぎしりやら、何なら寝ながらおならまでして、一度も目を覚ますことなく朝までぐっすり眠ったのである。
「豪太君、君、枕としての才能があるよ」
翌朝、たっぷりと八時間眠った杏樹さんは、晴れやかな顔で僕にそう言った。
「それ、褒めてます?」
「私にとってはかなりの褒め言葉なんだけどなぁ。嬉しくなかった?」
「嬉しくは……ううん、まぁ、嬉しいってことにします。それじゃこれからも寝具としてご利用いただけるということで、お姫様?」
ちょっとおどけてそう言うと、僕の腕の中で爆睡した不眠姫は「そうね、豪太君が良いんだったら、リピーターになってあげなくも……なくってよ?」とお姫様キャラで返してくれた。こういうのは真面目なトーンで交渉してはならないのだ。あくまでもちょっと冗談で、逃げ道も少しだけ残しつつ、くらいが良い。
それから杏樹さんは仕事が終わると僕の部屋に来るようになった。彼女はいま、中古車販売店の事務をしているらしい。さすがに何か悪いからと言って、食費と光熱費を少し出し、朝ご飯も作ってくれる。
僕の仕事は自由業だから、そりゃあ繁忙期なんていうのもちょっとばかりあったりするけど、基本的に時間はゆっくり流れている。のんびり起きて彼女が作ったご飯を食べ、仕事をし、そして、夕飯を作って彼女を待つ。それが僕の日常になった。
何だか恋人みたいだ。
僕はもう随分前からそう思っているけど、杏樹さんはどう思っているんだろう。
毎日一緒に寝てはいるけど、もちろんキスだってしたことはないし、それ以上のこともない。好きだなんて言葉も、口にしたことがない。もしかしたら、その一言で変わるかもしれないと思ったこともある。けれど、それを口にしたら、彼女はここを出て行ってしまうんじゃないだろうかとも思えて、その一歩が踏み出せないでいた。
「豪太君はさ、合わない枕とかどうしてる?」
「どうする、って。捨てますよ、そりゃ」
水曜日の朝だった。
水曜は彼女の務める中古車販売店が休みなのだ。大手アパレル会社は三年ほど勤めて辞めたらしい。
僕達はいつもより遅めに起きて、遅めの朝食をとっていた。
「やっぱ捨てるよねぇ」
もぐもぐとジャムを塗ったトーストを咀嚼しつつ、杏樹さんが窓の外を見る。すっぴんだ。もう見慣れたものだ。あの日彼女の目の下に陣取っていた酷い隈は、もうない。寝具としての僕は大変優秀であるらしい。
「それは――……あれですか」
まだ熱いコーヒーを一口飲み、恐る恐る尋ねる。
「そろそろ寝具としての僕が合わなくなってきた、とか。そういう」
だってそうだろう。
彼女にとって僕は『寝具』なのだ。
一緒に寝てはいても恋人ではない。
絶対にこの部屋に帰ってくる保証もない。
ある日突然来なくなれば、それでおしまいなのだ。
友人……というのだってたぶん違う。
僕と彼女を繋いでいるのは、かなり疎遠になっている友人の幸樹だ。
もうここ最近は会話にだって出て来ないというのに、それでも彼女は『
汗をかいているのは僕だけだ。
僕だけが、彼女との終わりを感じて嫌な汗をかいている。手が震えているのを悟られまいと、テーブルの下に隠した。
どう考えたって健全な関係ではないんだ。
互いに決まった相手のいない男女が、同じベッドで文字通り『寝るだけ』なんて、こんなのはきっと健全じゃない。これならまだ互いの身体を求めた方がある意味健全だ。だって僕らはそれを咎める相手を持っていないんだから。
「違う違う、そうじゃなくてさ」
キィン、と微かに耳鳴りまでするような、酷い寝不足の朝みたいな、ぐわんと重い頭に、杏樹さんの明るい声が届く。
「むしろ豪太君はね、もう絶対手放せないかも、って思ってる。あっ、だからさ、ここからいきなり太りまくるとか痩せまくるとか無しね。腕枕の高さ変わっちゃうじゃん」
「……は、はぁ」
じゃあ、何なんだ。
「いや、それがさ。私ね、割と物を捨てられない方っていうか。いや、ゴミとかはね? 捨てるよ、そりゃ。そんな汚部屋とかじゃないからね?」
「別にそこは疑ってませんけど」
「いーや、その目は疑ってる。『杏樹さんって結構だらしないところあるからな』って思ってる目だね」
「思ってませんて。それで、何なんですか」
「あぁ、そうそう。そんな感じでね、元彼からもらったものとかも捨てられないで取っといちゃうんだよね。バッグとかアクセとかさ。まぁ、さすがにつけたりはしないんだけど」
「はぁ、そうすか」
「まぁーたその目! 嫌だなぁ、それ。フリマサイトで売るよりは良くない?」
「そっちの方が良くないですか? 欲しい人の手に渡るわけですし」
「ふむぅ、そういう考え方もあるのか。まぁ、それは良いんだけど、そう、枕よ」
「枕?」
手についたパンくずを皿の上で払い、コーヒーを飲む。客用のソーサー付きコーヒーカップはあっという間にお役御免になった。いま彼女が使っているのは、馴染みの雑貨屋の店長に押し付けられた福袋に入っていたマグカップである。揃いのカップを買う勇気は、まだない。
「ウチにね、歴代の枕達がたくさんあるのよ」
「何でですか。捨てましょうよ」
「そうなんだけどね。なんていうの? かなりへたってきてるけど、上にバスタオル敷いたら使えないかな? とか、クッションとか座布団代わりにならないかな? とかね? 実際そうしてるのもあるし」
「いやいや、かもしれませんけど」
「何かね、寂しいんだよね」
カップを置いて、そう吐き出す彼女の眉が下がっている。
向かいにいる彼女の、その僅かな距離を詰めたい。
いまも寂しく思っているなら、それを埋めたい。
だけどベッドの上以外で抱き締めても良いんだろうか。
僕は寝具だ。
彼女は、恋人でも何でもなくて、友達のお姉さんで、添い寝するだけの関係なのだ。僕は、寝具だ。
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