第3話 帰りたくない彼女
彼氏と別れた。
それはどうやらついいましがたのことだったらしい。それなのによくもあんなにあっけらかんと笑えたものだ。おまけに彼女は、その彼氏と半同棲中だった。つまり、追い出されたのである。といっても、半同棲だから、一応彼女の部屋はあるので、細々した荷物なんかは後で送ってくれるのだとか。
だから、その部屋に帰れば良いのだ。
そうなんだけど。
「帰りたくない」
杏樹さんは駄々をこねた。
「明日は休みだし、朝までここにいる」
大丈夫、たまにいるじゃん、そういう人、と杏樹さんは笑ったが、それは大抵の場合、酔いつぶれたおっさんである。一緒にしてはいけない。杏樹さんは女性だ。か弱い女性なのだ。
僕は必死に説得した。
友達とか近くにいないんですか、やっぱり家に帰りましょう、何なら僕送りますし、って言っても車なんてないから電車とかですけど。
けれども、杏樹さんはそのどれにも首を振った。
友達はこの辺りにはいない、家には帰らない、遠いし、送ってくれなくて良い、ここにいる、ここにいる、と。
「どうしてまた、ここが良いんですか?」
もう万策尽きた、とため息をついて、そう尋ねた。
すると杏樹さんは、困ったような顔をして言った。
「ここだと眠れそうだから」
へらりと力なく笑う彼女をよく見れば、何やら目の下が不自然なくらいにひび割れている。額や頬はつるりとしているのに、目の下だけがざらりとしているのだ。べったりと絵具でも塗りつけてでもいるかのように、そこだけが、浮いている。ファンデーションを厚く塗りすぎているのだろう。
「洗濯機の音って良くない? 適度にうるさくてさ」
僕の視線に気付いたのか、目の下を軽く擦る。のっぺりとした絵具みたいな化粧が剥がれ、うっすら見えたのは、青黒い隈だ。
「最近ちょっと眠れなくて。一人だと、もっと眠れない。だけど彼氏と別れちゃったしさ」
一緒に寝てくれる人、いないんだー。
そんなこと、男の前で言っちゃ駄目ですよ。
誘ってると思われますよ。
それくらいのことは言った。
杏樹さんは、ただ困ったように笑うだけで、否定も肯定もしなかった。僕を誘っているとも、誘っていないとも、言わなかった。
だから僕は。
「杏樹さん、僕の家、ここから近いです。少なくとも、置き引きとか、痴漢とか、そういうのの心配はないですから」
そう言って、杏樹さんの手を取った。
「豪太君が襲ってくる心配は?」
腰を浮かせかけた杏樹さんが言った。
「ないです」
「でも男の人ってさ、何もしないからって言っといて、たいてい何かするじゃん」
「しません。僕はしません」
「そうなんだ」
尚も、しません、と言ったのは、彼女にではなく、自分自身にだった。そりゃあ僕だって、何もしないから、と言って女の子を連れ込んだことはあるし、何もしなくはなかった。だけれども、杏樹さんにはしない。好きだから、しない。
じゃあ行きましょう、と手を引くと、いや、と杏樹さんは首を振った。
まだ何か不安でもあるのだろうか、と首を傾げると、彼女はまだごぅんごぅんと稼働している洗濯機を指差して笑った。
「まだ終わってないじゃん、豪太君の」
僕の洗濯が乾燥まで終わるのを待って、僕達は、コインランドリーを出た。
途中、コンビニでお酒と飲み物とアイスと朝食を買って、それで、いま杏樹さんが僕の部屋にいる。
「お店?」
僕の家を見た杏樹さんの第一声だ。
お店と言っても、小売店ではないんだけど、作業場を見てそう思ったらしい。
「一応」
「えー、何、すごいね。何のお店なの?」
「アクセサリーとか、小物、ですかね」
あなたのそのピアスとペンダントトップを作ってるんですよ、とは、やはり言えなかった。
よくよく考えたら、わざわざ伝票を手書きにしたり、個人的な名刺まで入れるなんて、何だかストーカーみたいじゃないか。だから、あの時のことを指摘されても、あくまでも、それはどのお客さんにもしていることで、杏樹さんは数あるお客さんのうちの一人で、全然、意識もしていなかったというか、えっ、ウチのアクセ注文してくれてたんですかー、全然気付かなかったなー、で押し通すことにしたのである。
「おぉ、意外とちゃんとしてる」
二階の居住スペースに足を踏み入れた杏樹さんは、感心感心、と何だかウチの母親みたいなことを言った。
「前に幸樹の部屋に行った時は、足の踏み場もなくってさぁ。よくもまぁアレが結婚出来たものだよ」
そんなことを言いながら、がさがさとコンビに袋に手を突っ込む。桃の味の水を取り出して、次は鞄の中からポーチを出した。
化粧直しでもするんだろうか。
そういう時の女性の顔は見ない方が良い、と前の前の彼女に再三注意されたので、何となく視線を外し、アイスの袋を開ける。
よっこいしょ、と絶対にそこまではいらないだろう掛け声と共にポーチから引っ張り出したのは、小さなチャック付きビニール袋である。何の薬なのかわからないが、とにかく錠剤がたくさん入っていた。
「ど、れ、に、し、よ、お、か、な」
うきうきと弾むような声で、テーブルの上にぶちまけた錠剤を選んでいる。どう見たって健全な絵ではない。風邪薬にしたって、そのように選ぶものではないし、サプリ関係だとしても同様だ。
「杏樹さん、杏樹さん。あの、ちょっと待ってください」
「何?」
「その多種多様な錠剤は何なんですか」
せめてラムネであってくれ。
僕をからかってみただけとか、そういうオチであってくれ。
そう祈った。かなり無理があるのはわかってる。
「眠剤だけど?」
事も無げに、そう言った。
それが、本当に「それが何か?」みたいな感じだったので、一瞬、「なぁんだ、危ない薬じゃなくて良かった」と思いかけたほどである。
いや!
全然危ない薬だよ!
「ちょっと待ってください」
「何?」
「眠剤ってアレですよね、睡眠薬」
「そうだよ? さっき言ったじゃん、眠れないって」
「聞……きましたけど! いや、でも、こんなに処方してもらえるものなんですか?」
「まさか。人からもらったやつもあるよ。あとは、病院いくつか掛け持ちちして」
「いやいやいやいや! 駄目ですよ、そんなの! 逆に身体に悪いですって」
「あはは、それね、彼氏にも言われた。あっ、彼氏じゃないや、元彼氏だ」
病んでるようには全然見えなかった。
カラカラと笑う杏樹さんは、昔と全く変わらない。それだけに、目の下の青黒い隈が異常なほどに不釣り合いである。
「私もね、一応色々試してみたんだよ。ホットミルクとか、アロマとか。あとなんだっけ。そう、玉ねぎのみじん切りを枕元に置くと良いとかさ。睡眠の質を高めるサプリとか音楽とか。だけど、全部効かないの」
「だけど」
「唯一ちょっと効果あったのは、彼……じゃなかった元彼にね、腕枕してもらって後ろからぎゅってしてもらって寝るやつだったんだけど」
と、そこで杏樹さんはちょっと泣きそうな顔になった。
「なんかね、そういうのもちょっと重い、みたいな感じでね。嫌がられるようになっちゃって、それで別れたんだ。私、酷いやつだよね。彼のこと、寝具扱いしてんだもん」
だけど、寝ないと生活に支障出るしさ、一緒に寝てくれる人がいないんなら、また
そんなことを言って、テーブルの上の睡眠薬をさらさらと撫でるから。
「じゃあ、これからは僕が一緒に寝ます」
杏樹さんの返事も聞かずに、彼女を後ろから抱き締めて、そのままベッドに押し倒した。
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