不眠姫は僕の腕の中で爆睡する

宇部 松清

第1話 ソフレの彼女

 鼻先に触れる彼女の旋毛つむじから、シャンプーと、ほんの少し脂っぽい臭いがする。漫画や小説の中だと、女の子というものは、とにかく良い匂いしかしない生き物のように描かれがちだが、現実の女の子というのは、良い匂いばかりではない。人間なんだから当たり前だ。

 それに、首の後ろの髪を避ければ、うなじから背中に向かってうっすらと毛だって生えているし、脛に剃り残しがあるのだって知ってる。寝起きの口もそれなりに臭い。


 だけど、そんなことで幻滅したりはしない。

 そういうのは、『女』を知らない中高生がするものであって、自分のように、それなりに経験を積んだ男というのはいちいち動じたりしないのである。


 むしろ、そこに人間味を感じて、僕は嬉しくなってしまうのだ。

 

 シャワーを貸して、ドライヤーで乾かして、それからほんの数時間が経過しただけなのに、彼女はもう彼女自身の体臭を纏っている。それを嗅ぎ取れる近さにいることが嬉しい。だってこの時間だけは、彼女は僕のものなのだ。


 少し癖のある暗めの茶髪は、生え際が二センチほど黒い。そろそろ美容室に行かないと、って言ってたっけな。そんなことを思い出しながら。そこに鼻を埋め、大きく息を吸う。そんなことをしても彼女は起きない。


 僕の腕を枕にし、背中を向けて、ぐぅぐぅと眠っている。

 彼女は結構いびきをかくタイプだ。歯ぎしりをする時だってある。寝言もたまに言う。ただ、何てしゃべっているのか全く聞き取れない感じの不明瞭なやつだ。そして、一体どんな夢を見ているのか、ひとりでくすくす笑っていたりもする。いつだったか、寝ながらおならをしたこともあって、思わず布団を剥いで換気したものだ。女を知らない男子諸君、いいか、可愛い女の子だっておならはするし、結構臭い。覚えておけ。


 さて、彼女彼女と連呼しているが、この彼女――中川なかがわ杏樹あんじゅさんというのだが――は僕の恋人ではない。僕の部屋着を着て、僕のベッドで、僕の腕を枕にして寝ているけれども、僕の彼女ではない。


 僕達は、ただこうして夜一緒に寝るだけの関係なのだ。

 寝る、といっても、性行為を指す表現のやつじゃない。本当の意味の、『寝る』。スリープの方のやつである。最近では、こういうのを『添い寝フレンド』、略して『ソフレ』なんていうらしい。添い寝だけなら健全なように聞こえるかもしれない。いや、実際健全なのだ。僕は、まぁ多少不可抗力的な感じで杏樹さんの身体に触れてはいるし、頭の匂いを嗅いだりはしているけれども、厭らしい意味でのお触りはもちろんしていないわけだし。


 杏樹さんの方でも、僕という人間が何もしてこないと安心しているからこそ、ここまで熟睡出来るわけだし、僕のシャツによだれも垂らすし、おならもするわけである。


 ただ、正直なところ僕としては。


 ずっと好きだった彼女が腕の中にいるのだ。

 いろいろな部分が落ち着かない。


 だから、彼女はぐぅぐぅとのんきに寝ているけれど、僕は全く眠れないのである。



 杏樹さんは、僕の四つ上だ。

 高校時代の友人、幸樹こうきのお姉さんである。


 四つも上となると、当然学校で会うこともなく、幸樹の家に遊びに行った時も、大学だったりバイトだったりでほとんど顔を合わせることはなかった。それでも面識0というわけでもなく、日曜の昼は大抵家にいたし、お菓子とジュースを持ってきてくれたこともある。


「幸樹の姉ちゃん、美人だな」


 そう誰かが言った。僕もそう思っていたけど、口に出したのは僕じゃなかった。けれど実弟である幸樹の評価は辛辣だ。


「まぁまぁかな。ブスではねぇけど、って感じ」


 毎日一緒にいればそういうものかもしれない。謙遜とか、そういう風でもなく、本当にそう思っているのだろう。だけど、その時のメンバーは一人っ子、あるいは男兄弟しかいなかったため「お前の目はどうなってるんだ」だの「俺の親戚の姉ちゃんと交換してくれ」だのと散々騒いだ記憶がある。


 けれど、杏樹さんが彼らの恋愛対象になることはなかった。

 友達の姉、というのもあったが、やはり恋愛ではなく、憧れの対象だったのかもしれない。かくいう僕もそうだった。きれいなお姉さんというのは、男子なら誰しもが憧れるやつだ。


 だけど、ある日のこと、いつもはタオルでぐるりと目隠しされているピンチハンガーから、ちらりと彼女の下着が見えてしまった時、僕の中で彼女は憧れから恋愛の対象に代わったのだ。その時の僕は十八歳で、受験生で、杏樹さんは二十二歳で、春が来たら、他県に就職するのだと聞いていた。


 進学をやめて就職して、僕が社会人になったとしたら、肩書だけは一緒だ。そんなことを考えたりもした。当然、両親には怒られた。好きな人がいる云々は伏せたけど、ここまで来ていきなり進路を変えるなんて、と担任からも怒られた。


 春になって、杏樹さんは引っ越していった。大手アパレルの埼玉県支社らしい、と幸樹から聞いた。僕は東京のデザイン系大学に行った。遠くはない、と思う。もしかしたら会えるかも、なんてほんのり考えてはいたけど、人生はそう甘くはない。


 結局、そこから数年、杏樹さんと会うことはなかった。

 その間に、僕には何人か恋人が出来た。同い年だったり、年下だったりした。浮気されたり、自分が浮気相手だったりもした。その辺のことはまぁ省くけど。


 大学を卒業して、千葉にある服飾雑貨の工房に就職した。ちょっと人間関係が複雑で、社長は良い人だったんだけど、どうしても耐え切れずに辞めたのがいまから一年前のことだ。

 

 いまは居住スペース有りの小さな工房を借りて、ネットショップを立ち上げつつ慎ましく生きている。とりあえず、生活は出来る、というレベルの売り上げだから、恋人はもちろん、家族を持つなんて夢のまた夢だ。だけど、気楽ではある。たまに面倒臭いお客さんに引っかかることもあるけど。


 人生の転機というのは、いつだって突然だ。

 僕の場合は、アクセサリーの注文メールだった。

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