第10話 異変、再び

 一月、運よくこれまで降雪がなかったスリジェに、今年初の雪が降った。


 北国のように地面いっぱいに降り積もるというようなことはなかったけれど、冬タイヤという概念が無いスリジェでは、道路が渋滞してバスも定刻からかなり遅れて運行していた。


 そんな中、冬休み中の唯花と幸太郎は電車に乗って海を目指していた。


 勿論、発案者は唯花だ。終業式の日から、一度も意識を失うようなことはなかったので、最近は近辺を散歩することも多くなっていたが、海は寒くて彼女の健康にも障るかもしれないので、避けていた。


 「なんで海なんだ?」と幸太郎は外の雪を見ながら止めたのだが、唯花は「どうしても藤沢に行きたい」と言って引かなかった。


 仕方なくコートを着て、現在、JRに乗っているところである。ここに至るまで何度車両点検のために待たされただろう。普段雪が降らないから仕方ないにしても、人込みの中を2時間待つのはさすがに疲労が溜まった。


「手、握るぞ」


 鎌倉駅が近くなると、幸太郎は、自分とドアの間にいる唯花に言った。彼女は、うとうととして幸太郎にもたれかかっていたが、彼が優しく手を握ると、急にその手に力が入った。


 鎌倉で降りると、唯花の手を引いて江ノ電の乗り場まで歩いた。眠気からか、階段でよろける唯花をかばいながら改札まで辿り着くと、既に電車は客を入れ始めていて、二人は並んでいる客の後ろに付いた。


 無事に乗って、たまたま空いていた座席に唯花を座らせる。一方、幸太郎は彼女がつぶされないようにその身を挺して、唯花の前に立ち続けた。


 唯花もさっきまでずっと立ちっぱなしだったせいか、それとも幸太郎が目の前にいる安心感からか、座るとすぐに瞼が重くなって前かがみに眠ってしまった。


 電車が動き出し、草木や民家のすれすれをゆっくりと進んで行く。その様子を乗客の熱気で曇った窓に、誰かが描いたみかんによって出来た隙間から、幸太郎は眺めていた。


 いくつかの踏切を抜け、緩やかなカーブを曲がり、電車は少しずつ窓の上半分を紺色に染めていく。赤や白の車が影となって窓の向こうを通り過ぎる中で、紺色の海はどんどんと広がっていった。


 ふと唯花に視線を下ろすと、彼女は持ってきた鞄に顔を突っ込んでいた。そのまま寝かせていようかとも思ったが、顔に跡が付くのは可愛そうなので、優しく肩を撫でて起こした。


 目を半開きにした唯花が、幸太郎の顔を、そして周りの様子を見る。


「そろそろ腰越に着くぞ」と言うと、彼女は頷いて姿勢を正した。


 車内アナウンスが腰越への到着を告げると、軽く伸びをしてから唯花が立ち上がって、乗降口の前に移動した。幸太郎は、まだ早すぎないかと思ったが、唯花が立った左側の乗降口も、逆の右側も扉は開かなかった。不思議に思いながらも、幸太郎は唯花に続いて扉の前に立ち、間もなくして電車は江ノ島に向けて発車した。


 さっきよりも曇っていない窓から外を眺めると、いつの間にか海は消え、住宅や車が景色を埋め尽くしていた。


 電車が左へ右へと曲がるたびに、唯花がもたれかかってくる。彼女の顔を見ようとしたとき、靄が信号機の赤を反射して、静かに止まった電車がゆっくりと乗降口を開けた。


 唯花はブーツのまま、駅に飛び降りた。幸太郎は、彼女が万が一転ばないように、背中の後ろで手を構えながら降りたが、逆に自分の足がホームのブロックに引っ掛かり、前のめりに転んでしまった。


 少し体を傾けたことで、唯花には当たらなかったが、他の客はひそひそと話しながらこちらを見ていた。


 遠くで「足元にご注意ください」と駅員の声が聞こえてきた。


「大丈夫ですか⁈」


 唯花が焦ってしゃがみ、手を差し出した。


「……大丈夫」


 自分の手と膝で体を支えながら、幸太郎は彼女に掴まって立ち上がった。服に付いた砂と雪を掃い簡単に服のずれを整える。


「怪我、ないですか?」


「うん、ちょっと派手に転んだだけだよ」


「びっくりしましたよ。急に音がして、見たら転んでるから」


「悪い、足元見てなかった」


「ほんとに、気を付けてくださいね」


 唯花の体調は、問題なさそうだった。今は自分の心配をするべきだろうが、先日のことがあるので幸太郎は唯花から意識を逸らすことが出来なかった。


 逆に唯花が幸太郎を心配する。


「上坂さん、具合でも悪いんですか?」


 歩きながら唯花が幸太郎の顔を見る。


「いや、大丈夫だよ。唯花も調子はどうだ?」


「私は絶好調です! おかげさまで」


 顔を洗ってさっぱりしたような顔で唯花が答える。


 二人は、改札を出ると左に曲がり、喫茶店や羊羹屋などを横目に見ながら商店街を歩いた。海鮮料理や旅館も立ち並び、多くの人で賑わっている中、唯花も目を輝かせて周りを見ていた。


「藤沢、好きなのか?」


「大好きです。特に、この江ノ島までの道が、「もうちょっとで着くぞ!」って自分に言ってるみたいで」


「そうか、俺もここは雰囲気が良くて好きだな」


「上坂さんも来たことあるんですか?」


「ああ、一度だけな。任務の一環だったからあまり長くは居られなかったけど」


「そっか、でも今はゆっくり見て回れますね」


「ああ、楽しみだ」


 唯花がコーヒーショップでテイクアウトしたドリンクを手に、二人はゆったりと話しながら歩いた。


 歩き始めて20分、江ノ島のシンボルであるシーキャンドルが見え始めた辺りから、段々と車の音が大きくなってきた。潮の香りも強くなり、サーフボードが飾られた店も増えてきた。


「いよいよですね」


 唯花が言うのと同時に、商店街の道がパッと大きく開けた。


 車道を挟んで向こう側に、さっきまで電車から見ていた大きな海が、薄暗く広がって白い雪を飲み込んでいく。車のエンジン音でもかき消すことが出来ないほど、波は勢いよく砂浜へと押し寄せていた。そして、その海に橋を架けた先に、立派な岩肌と木々に囲まれた江ノ島がどっしりと構えていた。


 幸太郎は江ノ島から、エネルギーが流れてきているように感じた。波の音に耳が奪われる中で、自分が目に見えない何かに押し戻されるように視覚だけでなく五感に凄まじい勢いで何かが迫ってくる。


 だが、逆に近づけば近づくほど、自分が引き込まれているようにも感じた。上空にある雲ですら、江ノ島を中心に発せられたパワーで形を変えているのではないかと思うほどだった。


「なんか、すごいな」


 幸太郎は言葉で言い表せない感動を唯花に伝えた。だが、それは唯花も同じようで、彼女も


「こんなに大きな空があるのに、それよりも目が江ノ島を向いてしまうって、すごいことですよね」


 と改めて見る藤沢のシンボルに、魅入られていた。


 幸太郎はもっと近くに行ってみたくなって、橋を渡ろうとした。だが、唯花は力強く、幸太郎の腕を引いた。


「痛っ、どうした?」


「すいません、私、こっから先へは行けません」


「何でだ?」


「何か今、すごく体の中で力が湧いてきている気がするんです。それは江ノ島に近づけば近づくほど強く感じています。でもたぶん、このまま行くと自分自身が保てなくなりそうな気がするんです。上手く言い表せないけど、さっきから風が吹くたびに、それにのって鐘の音が響いている感覚がするんです。それで不思議と頭もふらふらとしてきてて……」


 唯花は恍惚とした表情をしていたが、同時に呼吸も少しずつ荒くなっていた。


「今日は帰るか?」


「そうですね、これ以上行くと、本当に引っ張られそうです」


 間近でそのパワーを感じられないのは残念ではあったが、見れただけでも良かった。


 二人は、仕方なく江ノ島に背を向けて、再び来た道を戻った。


「すいません、せっかく来たのに」


「いや、俺は江ノ島と海が見れただけでも十分だ。それにあんなに綺麗な空が開けた場所に行くのは、俺が寮に来てすぐの頃、唯花に連れて行ってもらった以来だ」


「少し前なのに、なんだか懐かしい気がしますね。あの頃は今よりもっと上坂さん、硬い人でしたよね」


「しょうがないだろ、どうやって接していいのかも、いまいちよく、わかっていなかったんだから」


「でも、あの頃の上坂さんも結構好きでしたよ、わが道を行くって感じで」


「そうか、そりゃ良かった」


 すると不意に唯花が、幸太郎の腕にしがみついた。


「私今、すっごく楽しいです」 


「そうか、俺もだよ」


「そうじゃないんです」


 唯花は何かを思い出すように、虚空を見つめた。


「私、昔は今みたいに陽気じゃなかったんです。訓練と聞いては痛い思いをしてきたし、訓練がない時はずっと白い壁の部屋の中で一人で過ごしていました。でも、最初から私は一人ぼっちだったから、寂しいなんて感情も持ち合わせていなかったんです。

 だけどある日、部屋の扉が開いて、見知らぬ男の子が無言で私を外に連れ出したんです。私はよくわからないまま「なんで」と聞きました。そしたら彼は、あんなとこに一人でいたって寂しいだろって言ったんです。私は、その寂しいがわからないから、「寂しいって何?」って聞いたら、男の子は、「誰かと一緒に笑ったり美味しくご飯を食べることが出来ないことだ」って答えました。それでも今までそんな経験なんてしたことないから、やっぱりわからなくて「わからない」と言いました。そしたら、彼は「ついてくればわかる」とそのまま私を引っ張って、いくつもの見たことない厳重な門も通り抜けて、その先にあった大広間に連れて行きました。

 そこには、私と同じぐらいの子どもが何人もいて皆集まって楽しそうに笑っていたんです。その子たちは男の子を見るなり、「どこ行ってたんだよ」と口々に心配の声を上げました。すると彼は「そんなことより、今日からこの子もここで暮らすことになったから」と言ったんです。私、全く訳がわからなくて、躊躇っていたんですけど、そこにいた子たちは皆笑って「よろしく!」って言ってくれたんです。私、あの時初めて、嬉しいっていう感情が湧きました。温かいって感情も」


 幸太郎は黙って聞いていた。ただ、その事実を彼女の一過去としてではなく、自分の中の奥深くにある一背景を見つめるような気持ちで。


 心が、じりっと揺れた。


「あなたのおかげです。




 帰りの電車は二人とも終始無言だった。行きと同じように、帰りも電車は遅れた。だがその時間も、幸太郎にとってはあっという間だった。彼自身、状況の整理がついていなかった。唯花も唯花でずっと下を向いたまま、乗降口の扉に背を向けて立っていた。


 横浜駅で電車を降りて、二人は寮までの道を歩く。ふと、幸太郎が聞いた。


「俺は前に、唯花に会っていたのか?」


 唯花は頷かない。ただ否定するでもなく、幸太郎の横についていた。


 幸太郎は、ただ事実として唯花の話を受け止めていた。自分のこととして受け止めたいのだが、思い出そうとしてもこめかみがさわさわとするだけで、何も確かな記憶にはつながらなかった。


「これもUDUKIの後遺症なのか……」


 そう呟いた時、隣にいた唯花がふと後ろに後退し、ぺたんと地面に膝をついて座ってしまった。


「あれ……?」


 唯花はしきりに足をさすって動くように念じるが、全く言うことを聞かない。自然と、嘲りの混じった虚しい笑いがこみ上げてくる。


 幸太郎は急いで駆け寄ると、両手を伸ばして待つ唯花の、わきの下に腕を入れて起き上がらせようとした。だが、幸太郎の支えが無くなると、幸太郎にもたれかかりながら、再び膝から崩れ落ちた。


「もうちょっと……あともうちょっとだけ、頑張ってほしかったんだけどな……」


 彼女の言葉が降りしきる雪に消されていく。


 幸太郎は唯花を抱きかかえると、寮までの500メートルを全力で走った。

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