第0話 あの日の出会い、私のヒーロー
あの手は救いだった。
私を連れ出してくれたあの子は、きっとヒーローだ。絵本にもそう書いてあったから。
あの日、私が初めてI・Cの人たちと出会ったあの時間は、私の人生の始まりだったのかもしれないと今では思う。ただただつらい毎日を送っていた、いや、つらいなんてこともわからなかった私が、初めて嬉しいを知った瞬間。
白い部屋から連れ出してくれた男の子、幸太郎君は嬉しいという感情から涙がこみ上げている私を見て、優しく微笑みかけた。握ってくれた手が熱く熱く鼓動を打つ。その鼓動に合わせて温かな風が広がっているように、私の心は優しく包まれたのだ。
彼らは私に色んなことを聞いた。私は上手く喋れなかったけど、それでも精一杯の表情で、彼らに応えた。
そうやってしばらくの時間を過ごし、ずっとこうしていたいなと私が思い始めた頃、幸太郎君は私に折り鶴を渡した。周りの皆は冷やかしていたけれど、誰かに物をもらうなんて初めてで、言いようのない気持ちから、私はまた泣いてしまった。
その時の涙は、なぜだかとても温かかった。
幸太郎君は少し困って自分の頬をかいていたけれど、すぐに私の頭に手をやって、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。
「お前がもっと元気になるようにって折った」
恥ずかしがっているのか、幸太郎君は私と目を合わせない。
私はというと、両手に載った一羽の折り鶴を見ながら、撫でる手の心地よさに顔が緩んでいた。
誰かが、「あっ、笑った」と言うのに合わせて、皆が私の顔を見る。私は恥ずかしくなって、思わず幸太郎君の後ろに隠れた。皆は覗こうとしていたけれど、幸太郎君は私の手を握りながら庇ってくれていた。皆が諦めた後も、彼は私と手を繋いでいた。なんだか顔が熱くなって、でもどうしてなのかわからないから、ただ彼の背中にちょっとだけ身を預けていた。
それからまたしばらくして、一番背の高い男の子が皆に寝るように言った。
せっせと敷布団をひき始める皆を見つめながら、私はどうしようかとあたふたしていた。だけど、真っ先にひき終えた幸太郎君が私の手を取り、自分の布団に連れて行ってくれた。
今思えば、それが初めて男の子と一緒に寝る夜だった。こんな言い方したら破廉恥だけど、当時の私からしてみれば、初めて誰かと眠れることの安心感で、変なことを考える余裕も、勿論そんな知識すらもなかった。
皆が布団に入ると、背の高い男の子が電気を消して、真っ暗な部屋の中、横一列に並んで眠った。とは言え、10歳に満たしたか満たしてないかの子どもがすぐに眠るはずもなく、そこかしこから話し声が聞こえた。私は最初、どの声に集中すればいいのかわからなくて、電気が消えてからもきょろきょろとしていたが、隣にいた幸太郎君が私の手を握ってそっと
「おやすみ」
と言ってくれた。その言葉に、私はなんだかほっとしてしまって、真似して
「おやすみ」
と言うと、すぐに瞼が重くなった。
翌日、目が覚めると見慣れた天井が目に入った。勿論誰も周りにいるはずもなく、あるのは嫌になるほど白い壁と何冊かの絵本。
なんだ夢かと、少しがっかりしたのだろう。私は昨日と違って冷たい涙が流れ落ちそうになった。
だけど、手の中で小さな音を立てた何かが、私の涙をぬぐい取った。
見るとそこには、握って羽がくしゃくしゃになった折り鶴があった。
私は急いでくしゃくしゃになった部分を広げると、大事に両手で持って胸に抱きしめた。
夢じゃなかったんだ。
鶴から幸せが溢れるように、温かい波動を感じる。私は周りに目もくれず、どうして元の部屋に戻ってきたのかも考えず、ただぎゅっと、胸の鶴を抱きしめていた。
「何してるんだ?」
不意に背中の方から声がして、私は体を跳ねあがらせた。
「うわ、びっくりした」
見ると、幸太郎君がそこにいた。
「……なんで?」
「なんでって迎えに来たんだよ。今日起きたら、お前部屋にいないんだもん。もしかしたらって思って来てみたらここにいたってわけ。でもなんで帰っちゃったの?」
「わたしも……なんでここに……いるのか……わからない」
「そっか、まあどうせ大人たちだろうな。なら精一杯抵抗してやろうぜ」
そう言うと幸太郎君は、私の二の腕をひいて立ち上がらせた。ぐらっと体重を崩しかけた私を受け止めると、しっかり立たせてから手元を見る。
「あ、それ、昨日の」
私は両手で大事に持っていたのが少し恥ずかしくなって、さっと後ろに隠した。
「なんか、そうやって大事にされると、嬉しいけど、少し恥ずかしいな」
そう言うと幸太郎君は、照れ笑いを浮かべながら、私に向かって手を差し出した。
「さ、行こう」
私は右手で彼の手を取ると、彼は風のごとく走り出し、私も精いっぱいに足を動かして彼に付いて行った。
部屋に着くと、昨日のように皆が私を歓迎した。
私もちょっとだけ勇気を出して「おはよう」と言ってみた。すると、今日は女の子たちが私を囲んで、ごっこ遊びを始めた。
中には12歳ぐらいの子もいたけあれど、最年少の子はまだ7歳ぐらいだったので、その子に合わせて遊んでいるという感じだった。私も与えられた役を何とかこなしながら、隙さえあれば幸太郎君が今何をしているのかを見ていた。
やっとごっこ遊びから解放されて、私は一人で本を読んでいる幸太郎君のもとに行った。初め、彼は気づかなかったけど、もう少し近づいて、私の前髪が彼の前髪に当たりそうなぐらいまで近づくと、彼はようやく気付いて、声を出して後ろにのけぞった。
「びっくりした。どうした? あいつらと遊んでたんじゃなかったのか?」
「うん、でも……こっちにきた」
「おう、見ればわかるよ」
「いま……なにしてたの?」
「あー、これか? 図鑑だよ。花が載ってるやつ」
「ずかん?」
「そうそう、こうやっていろんな花が載ってるんだ」
幸太郎君はページをめくって、色とりどりの花の写真を私に見せた。私が知らない、世界各国の花がたくさん載っていて、その輝きは初めて鳥の声を聴いた時のように、綺麗で鮮やかに私の中で波紋を広げた。
「おはな……すき……なの?」
「うーん。まあ結構好きな方かな」
「そう……なんだ」
「お前は? 花、好きなの?」
「うん……すき」
「そっか、同じだな。そういやお前の名前、まだ聞いてなかったな」
「わたし……? わたし……は……ゆい?」
「ゆい? 何でそんな自信なさそうに言ったの?」
「だれかが……わたしのこと……そう……よんでた……から?」
「だれかって? 大人か?」
「たぶん……」
「そっか。その名前、気に入ってるの?」
「うーん」
「じゃあ、新しい名前、考えようぜ」
私は目をぱちくりと瞬かせながら、幸太郎君の顔を見て頷いた。
「そうだな……さっきまでの名前がゆいだから、ゆい、ゆい……ゆいかはどうだ? お前、花好きって言ってたし。ゆいに花をつけて、ゆい花」
「うん……いい」
なんでかわからないけど、私はその時とても嬉しくなって、何か大事なものをもらったような気がして、笑った、気がする。
「よし、じゃあ決まりな。ゆい花!」
「うん……あなた……は?」
「俺か? 俺は幸太郎」
「こうたろう」
「そう。次からは名前で呼ぼうぜ」
「わかった」
幸太郎君は私を見て笑うと、また図鑑をめくり始めた。私はそんな彼の横顔をじっと見つめていた。
でも、あるページで、彼はめくるのをやめて、一枚の写真を凝視したまま動かなくなった。
私も、それにつられて、その写真を見る。
それはクリスマスローズだった。桃色がかった白い花びらが、地面を向いているその写真を見つめて、幸太郎君は「すげえ」と一言漏らした。
でも、私にはその花に見覚えがあった。訳もなく、言葉が溢れ出てくる。
「あ、うづき」
「うづき? 何だそれ」
「このおはな……のなまえ」
「そうなのか? でもここ、ヘレボルスとか、クリスマスローズって書いてるぞ」
「うん……でも……みたことある」
「へえ、すごいな。どこで見れたんだ?」
「うんと……」
私は訓練で飲まされていた粉を思い出した。それが不意に湧き上がってきて、私を襲った。
「うっっ……」
私は口を両手で押さえて前かがみになる。
「おい、大丈夫か?」
幸太郎君は私の顔を覗き込んで、背中を優しく撫でた。そのおかげか私の吐き気もすぐに引いて行った。
周りにいた子たちが気付いて、近くによってくる。
「大丈夫?」
「うん……」
私はしきりに頷いた。すると皆は安堵した顔を見合わせて、また離れていった。
「ほんとに大丈夫か? 無理しなくてもいいぞ」
「だいじょうぶ」
「そうか。良かった。それで、この花はどこに行ったら見れるんだ?」
「わかんない……けど、おくすりのんだときに……みえた」
「薬? なんだそれ」
「わかんない。わかんない……けど……いつも……みえる」
「何それ、不思議だな」
「うん……」
「そっか、俺もそれ飲んでみたいな」
「いや……やめたほうが……いい」
私は必死に止めた。
「なんで?」
「だって……きもち……わるく……なる」
「えー、それは、やだな」
「うん」
幸太郎君は舌を出して、苦いような顔をした。
それから、私は頻繁に彼らの部屋に遊びに行くようになった。だけど、なぜかいつも、眠ると元の部屋に戻っている。だから、毎回幸太郎君が尋ねてくるのを待って、それから静かに部屋を抜け出すのが私たちのルールになった。
でもある時、いつまで経っても幸太郎君が来ない日があった。私はまだかまだかとドアの前で待っていたのだけれど、扉は一向に開く気配を見せず、気づけば寝る時間を迎えた。
彼に何かあったのではないかと心配で、その日は眠れなかった。
でも次の日、彼は現れた。
だけど、彼はすごく疲れ切った顔で、いくつか痣も見えた。私は心配して彼に聞いたけれど、彼は何も答えずに、私を部屋へと連れて行った。
部屋に着くと、いつもと違って皆どこかしかに傷をつくっていて、私が来ても反応できないほどに疲弊していた。やっぱりおかしいと、私は再び幸太郎君に聞いたけれど、それでも彼は答えなかった。
その日から、段々と彼とは会えなくなっていった。そして、会えたとしても彼との会話は減っていった。そしていつしか彼は、私に会いに来なくなった。
今思えば、きっと彼が来なかった日から、訓練が始まったのだと思う。そしてUDUKIの服用も並行して行われたのだ。
私はその時、既に100粒目を飲んでいたから、それ以上薬のことで苦しむことはなかったけれど、彼らはずっと苦しんでいたのかもしれない。そう思うと、とてもやるせない気持ちになる。
それから1週間ほど経って、次に扉が開いたとき、私は知らない人たちによって施設の外に連れ出された。それは、UDUKIで記憶が薄れてしまった私にとって、ほぼ初めてと言っていいほど、久しぶりに見た本物の外の世界だった。私はすぐに、連れ出してくれたスリジェの人たちに、幸太郎君も助けてほしいと頼んだけれど、それは聞き届けてもらえなかった。
彼らの護送車に乗せられ、施設からしばらく離れた建物に連れていかれた私は、そこで初めて、ベルトリエさんと出会う。彼はまだ本部長ではなかったけれど、私に対して様々なサポートをしてくれた。おかげで、三谷さんとも出会うことが出来たし、彼の言う「今までできなかった普通の生活」もさせてもらえた。
残念なことがあるとすれば、幸太郎君が隣にいなかったことと、UDUKIの後遺症か、それともストレスからなのか、私の足が言うことを聞かなくなって、車いすで生活しなければならなくなったことだ。
そうやって何年かが過ぎ、公国がスリジェに負けたのを知った年の春、私は高校生になった。
そして、その1年後、私を救い出してくれた彼、幸太郎君と奇跡的に再会するのである。
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